膳の上には摘まみ物の小皿が三つ四つに、燗徳利が三本並んだ。栄二の顔はすでに赤く、おのぶも眼のまわりが染まっていた。
「嘘よう、なにかわけがありそうよ」おのぶは盃を持ったままでかぶりを振った、「――橋を渡って来てひょいと見たとき、栄さんは身投げでもしそうな顔をしていたわ」
「ばか云え」栄二は眩しそうにまばたきをした、「ただ酒が飲みたかっただけだ」
「あの顔がね、さぞそうでしょうよ」
おのぶは酒を啜って、それから栄二に酌をした。
「おめえこそ」と彼は盃の中の酒をみつめながら云った、「――三日もうちへ帰っていたなんて、なにか変ったことでもあったのか」
「その話はよしましょう」と云っておのぶは栄二の眼つきに気づいた、「なにかはいってますか」
栄二は盃の酒を盃洗へあけ、すぐに手酌で注ぎながら、なんでもない、ごみだと云って、また盃の中をみつめてから酒を啜った。
「いつかここの帰りに」と栄二が云った、「三人のやくざみてえなやつにからまれたことがあったっけ」
「三年まえのことね」とおのぶは指を折ってから云った、「あのときはごめんなさい、あたしの兄だって云ったのは、女衒の六っていうならず者で、あたしの身を売って金にしようとしていたんです」
「このまえはそうは云わなかったぜ」
三人のやくざと喧嘩になったあと、栄二がそのことを語ると、おのぶは話をうまく作って脇へそらした。その口ぶりで、本当のことを云ってはいないなと察したが、栄二はそのまま聞きながしたのであった。
「云わなかったわ、だって云おうったって云えることじゃないんですもの」
「いまなら話せるのか」
「栄さん今日はどうしたの」とおのぶは栄二の顔をさぐるように見た、「――いつもはあたしのことなんか洟もひっかけやしないのに、今日に限ってずいぶん気にかけて下さるじゃないの、あんまりうれしがらせないで」
「そんなふうに聞えたら勘弁してくれ、そんなつもりで云ったんじゃあねえんだ」
「いや、あやまったりしないで、――たとえ嘘でもいい、栄さんがちょっとでも気にかけて下されば、あたしなによりうれしいのよ」
そして急に、おのぶは袂で顔を掩った。いまにも泣きだしそうにみえたので、栄二は狼狽した。
「酒を頼むぜ」と彼は乱暴に云った、「もうここはすっかりだ」
おのぶは黙ったまま立ち、顔をそむけて土間へおりた。まもなく、燗徳利を二本持って戻ったとき、おのぶの顔は洗ったようにさっぱりとし、あいそのいい微笑をうかべた口許から、八重歯を覗かせていた。
「ごめんなさい」おのぶは徳利を膳の上へ置き、あいている徳利を盆のほうへ移して、坐りながら云った、「あたしこのごろ、少し酔うと泣き上戸になるようなの、としだわね」
「としだって、幾つになるんだ」
「もうおばあさん、二十一よ」
「それでばあさんか、いい気なもんだな」そう云いながら手酌で一つ飲み、おのぶにも酌をしてやって、栄二は静かに口ぶりを変えた、「――いちど云っておこうと思ったんだが、さぶのやつがおめえを好きだってこと、知ってるだろうな」
「ええ知ってます」おのぶはまじめに頷いてから、感情のない笑いかたをした、「誰かが誰かを好き、こっちの誰かはほかの誰かが好き、――まるで虫拳みたいだわ」
「冗談にしないで聞けよ」
「冗談にしなければ角が立つのよ、栄さんだから云うけれど、あたしさぶちゃんはどうしても好きになれない、お客としてならよろこんでお相手をするわ、でも好きか嫌いかという段になれば、だめ、済みません堪忍してちょうだい」
「いいやつなんだがな、まじめに、本気でおのぶに惚れているんだが」
「それにね、栄さん」おのぶは眼を伏せ、声を低くした、「あたしにはたいへんな親きょうだいがあって、人のお嫁にはなれない躯なのよ」
「いつか家出をしたい、なんて云ってたっけな」
「親が甲斐性なしで、子だくさんで、それも男のきょうだいはみな、ぐうたらべえ、姉さんとあたしと、下にいま十七になる妹があるんだけれど、この女きょうだい三人だけが苦労してきたし、これからも一生苦労しなければならないんです」
「姉さんはなんで死んだんだ」
おのぶはちょっと黙ってから、やはり眼を伏せたなりで云った、「心中なんです」
「しん――なんだって」
「好きな人と心中したんです。好きな人があるのに身を売られようとして」とおのぶはかぶりを振りながら云った、「――姉さんはあたしのように気が強くないし、その人も温和しいだけで心の狭い人のようでした、死ぬ覚悟ならどうにかなる筈なのに、小梅の祥門寺の墓地で首を吊って」
栄二は「飲めよ」と云っておのぶに酌をしてやり、おのぶは舐めるように酒を啜った。