栄二は「すみよし」を出ると、浅草にある和助の店へ向った。和助は芳古堂の職人がしらをしていたが、三年まえの五月に、東仲町へ香和堂という店をもち、経師屋として順調にやっていた。
「ひでえ親があるもんだな」あるきながら彼は呟いた、「話には聞いたこともあるが、本当にそんな親があるのかな」
姉が死んだあと、次にはおのぶに身売りをしろとせがんだという。貧乏なことはひどい貧乏だが、娘を売る必要はない。みんなで少しずつでも働く気になれば、その日の食に困るようなことはないのだ。けれども両親からして働く気などはなく、楽をしてうまい物を喰べていたい、というふうだから、すぐに手早く纏まった金を握りたがるのであった。――おのぶは一分もゆずらずに拒みとおした。小さい弟や妹がまだ五人もいる、握った金はすぐに消えてしまうだろうし、五人の弟や妹の面倒を誰がみるか、あたしは五人のゆくすえを守るために、死んでも身売りなんかしないと云い張り、ついに親たちのほうで引込んだ。ところが妹のおしのが十七になるのを待ちかねていたように、こんどはおしのに眼をつけて同じことをくどき始めた。四、五日まえ、おしのが泣いて訴えに来たので、泊りがけで談判しにゆき、三日がかりで親たちを説き伏せたそうであった。
――もししのちゃんにおかしなことをしたら、あたしお父っさんかおっ母さんを殺すわよ、ってそう云ってやったわ。
自分たちの境涯では、他人より親のほうが恐ろしい場合が稀ではない。だから身を守るためには、よほど思いきった態度に出なければならないのだ、とおのぶは云った。そして、そんな親きょうだいを背負っているから、さぶちゃんに限らず人の嫁にはなれない、自分は一生、弟や妹たちのために働くつもりだと、おのぶは付け加えていた。
「女の身でそこまで考えなければならないんだ、そういう境遇が現にこの世にあるんだ」と栄二は自分を叱りつけるように呟いた、「――きさまなんかまだあまっちょろいもんだぞ」
東仲町へゆき着くまで、彼は同じことを繰返し考え続け、幾たびも眉をしかめては舌打ちをした。香和堂は三間まぐちで、そのうち二間が板敷の仕事場。奥に六帖の部屋が三つあった。小舟町から伴れて来た小僧の半次も十八歳になり、ほかに二人の小僧がいる。和助は去年の春に結婚し、今年の夏に女の双生児ができたので、家が狭いのを苦にしていた。
「いらっしゃい」店にいた半次が、栄二を見て明るく笑った、「さっき小舟町から使いがありましたよ」
「親方はいるか」ときいてから、栄二は眼をそばめた、「――小舟町からなんだって」
「手紙を持って定が来ました、親方はいま朝めしです、ゆうべは夜明し仕事だったもんですからね」そう云いかけて半次は顔をしかめた、「――あにい、いけねえな、ぷんぷん匂いますぜ」
栄二は口へ手を当てた。和助は自分が一滴も飲まないばかりでなく、酒そのものを病的に嫌っている。いまは暮の十五日、もうひるに近いころだが、酒の匂いに気づかれたら、相談どころか叱りとばされるのがおちだろう、そう気づいたので、栄二は赤くなった。
「そうだな、つい忘れていた」と云って彼はそっと手を振った、「ちょっと話があって来たんだが、そんなに匂うとすると」
「ええ」と半次はおとなびたようすで首を振った、「いけませんね」
「出直して来よう」と栄二が云った、「黙っててくれ」
そして外へ出ようとすると、向うの障子があいて、和助が爪楊枝を使いながら出て来、栄二を呼びとめた。栄二は敷居を跨いだ恰好のまま振り向き、会釈をして「またあとで来ます」と云った。
「まああがれよ」と和助が云った、「狭いうちだからしようがねえ、酒のことは聞いた」
栄二は頭を掻いた。
「今日は酒の小言はよしにする」と和助は続けた、「それより話してえことがあるんだ、まああがってくれ」
栄二があがると、和助は右の六帖へ案内した。そして隣りの部屋へ、茶を持って来いと呼びかけ、二人で差向いに坐った。そっちの部屋が茶の間で、妻女の答える声と、まだ誰か食事をしているのであろう、茶碗や箸の音が聞えて来た。
「さっき小舟町から使いがあってな」和助はまだ爪楊枝を使い、高い音をさせて歯を吸いながら云った、「おめえは当分ここで手伝ってもらうことになったんだ、荷物もあとで届けて来るそうだから」
「ちょっと」と栄二は遮った、「ちょっと待って下さい、私にはわけがわからないんだが、このお店で手伝うってえのは、どういうことなんですか」
「おれから小舟町へ頼んでおいたんだ」
栄二は首を振った。彼の顔は白くなり、眼がきらきらと光った、「――嘘だ、それは本当じゃあない、あにいはなにか隠してる」
妻女が茶を持って来、栄二に挨拶をしてすすめた。栄二はぶっきらぼうにじぎをしたまま、眼は和助の表情をとらえてはなさなかった。妻女が去ると、和助は、自分用の大きな湯呑を取り、茶を啜りながら反問した。
「おれがなにを隠してるんだ」
「本町の綿文さんです」と栄二が云った、「小舟町からの手紙にはそのことが書いてあったんでしょう、そうでしょう」
和助は静かに茶を啜った。