← Library‹ さぶ 三の四

栄二えいじは「すみよし」を出でると、浅草あさくさにある和助わすけの店みせへ向むかった。和助わすけは芳かおる古こ堂どうの職人しょくにんがしらをしていたが、三さん年ねんまえの五ご月がつに、東ひがし仲町なかちょうへ香こう和わ堂どうという店みせをもち、経師屋きょうじやとして順調じゅんちょうにやっていた。

「ひでえ親おやがあるもんだな」あるきながら彼かれは呟つぶやいた、「話はなしには聞きいたこともあるが、本当ほんとうにそんな親おやがあるのかな」

姉あねが死しんだあと、次つぎにはおのぶに身売みうりをしろとせがんだという。貧乏びんぼうなことはひどい貧乏びんぼうだが、娘むすめを売うる必要ひつようはない。みんなで少すこしずつでも働はたらく気きになれば、その日ひの食しょくに困こまるようなことはないのだ。けれども両親りょうしんからして働はたらく気きなどはなく、楽らくをしてうまい物ものを喰たべていたい、というふうだから、すぐに手早てばやく纏まとまった金かねを握にぎりたがるのであった。――おのぶは一いち分ふんもゆずらずに拒こばみとおした。小ちいさい弟おとうとや妹いもうとがまだ五ご人にんもいる、握にぎった金かねはすぐに消きえてしまうだろうし、五ご人にんの弟おとうとや妹いもうとの面倒めんどうを誰だれがみるか、あたしは五ご人にんのゆくすえを守まもるために、死しんでも身売みうりなんかしないと云いい張はり、ついに親おやたちのほうで引込ひきこんだ。ところが妹いもうとのおしのが十じゅう七ななになるのを待まちかねていたように、こんどはおしのに眼めをつけて同おなじことをくどき始はじめた。四よん、五いつ日かまえ、おしのが泣ないて訴うったえに来きたので、泊とまりがけで談判だんぱんしにゆき、三み日かがかりで親おやたちを説とき伏ふせたそうであった。

――もししのちゃんにおかしなことをしたら、あたしお父とっさんかおっ母ははさんを殺ころすわよ、ってそう云いってやったわ。

自分じぶんたちの境涯きょうがいでは、他人たにんより親おやのほうが恐おそろしい場合ばあいが稀まれではない。だから身みを守まもるためには、よほど思おもいきった態度たいどに出でなければならないのだ、とおのぶは云いった。そして、そんな親おやきょうだいを背負せおっているから、さぶちゃんに限かぎらず人ひとの嫁よめにはなれない、自分じぶんは一生いっしょう、弟おとうとや妹いもうとたちのために働はたらくつもりだと、おのぶは付つけ加くわえていた。

「女おんなの身みでそこまで考かんがえなければならないんだ、そういう境遇きょうぐうが現げんにこの世よにあるんだ」と栄二えいじは自分じぶんを叱しかりつけるように呟つぶやいた、「――きさまなんかまだあまっちょろいもんだぞ」

東ひがし仲町なかちょうへゆき着つくまで、彼かれは同おなじことを繰返くりかえし考かんがえ続つづけ、幾いくたびも眉まゆをしかめては舌打したうちをした。香こう和わ堂どうは三さん間げんまぐちで、そのうち二に間けんが板敷いたじきの仕事場しごとば。奥おくに六ろく帖じょうの部屋へやが三みつあった。小舟こぶね町まちから伴つれて来きた小僧こぞうの半次はんじも十じゅう八はち歳さいになり、ほかに二人ふたりの小僧こぞうがいる。和助わすけは去年きょねんの春はるに結婚けっこんし、今年ことしの夏なつに女おんなの双生児ふたごができたので、家いえが狭せまいのを苦くにしていた。

「いらっしゃい」店てんにいた半次はんじが、栄二えいじを見みて明あかるく笑わらった、「さっき小舟こぶね町まちから使つかいがありましたよ」

「親方おやかたはいるか」ときいてから、栄二えいじは眼めをそばめた、「――小舟こぶね町まちからなんだって」

「手紙てがみを持もって定ていが来きました、親方おやかたはいま朝あさめしです、ゆうべは夜明よあかし仕事しごとだったもんですからね」そう云いいかけて半次はんじは顔かおをしかめた、「――あにい、いけねえな、ぷんぷん匂においますぜ」

栄二えいじは口くちへ手てを当あてた。和助わすけは自分じぶんが一いち滴てきも飲のまないばかりでなく、酒さけそのものを病的びょうてきに嫌きらっている。いまは暮くれの十じゅう五ご日にち、もうひるに近ちかいころだが、酒さけの匂においに気きづかれたら、相談そうだんどころか叱しかりとばされるのがおちだろう、そう気きづいたので、栄二えいじは赤あかくなった。

「そうだな、つい忘わすれていた」と云いって彼かれはそっと手てを振ふった、「ちょっと話はなしがあって来きたんだが、そんなに匂におうとすると」

「ええ」と半次はんじはおとなびたようすで首くびを振ふった、「いけませんね」

「出直でなおして来こよう」と栄二えいじが云いった、「黙だまっててくれ」

そして外そとへ出でようとすると、向むこうの障子しょうじがあいて、和助わすけが爪楊枝つまようじを使つかいながら出でて来き、栄二えいじを呼よびとめた。栄二えいじは敷居しきいを跨またいだ恰好かっこのまま振ふり向むき、会釈えしゃくをして「またあとで来きます」と云いった。

「まああがれよ」と和助わすけが云いった、「狭せまいうちだからしようがねえ、酒さけのことは聞きいた」

栄二えいじは頭あたまを掻かいた。

「今日きょうは酒さけの小言こごとはよしにする」と和助わすけは続つづけた、「それより話はなしてえことがあるんだ、まああがってくれ」

栄二えいじがあがると、和助わすけは右みぎの六ろく帖じょうへ案内あんないした。そして隣となりの部屋へやへ、茶ちゃを持もって来こいと呼よびかけ、二人ふたりで差向さしむかいに坐すわった。そっちの部屋へやが茶ちゃの間まで、妻女さいじょの答こたえる声こえと、まだ誰だれか食事しょくじをしているのであろう、茶碗ちゃわんや箸はしの音おとが聞きこえて来きた。

「さっき小舟こぶね町まちから使つかいがあってな」和助わすけはまだ爪つめ楊枝ようじを使つかい、高たかい音おとをさせて歯はを吸すいながら云いった、「おめえは当分とうぶんここで手伝てつだってもらうことになったんだ、荷物にもつもあとで届とどけて来くるそうだから」

「ちょっと」と栄二えいじは遮さえぎった、「ちょっと待まって下ください、私わたくしにはわけがわからないんだが、このお店みせで手伝てつだうってえのは、どういうことなんですか」

「おれから小舟こぶね町まちへ頼たのんでおいたんだ」

栄二えいじは首くびを振ふった。彼かれの顔かおは白しろくなり、眼めがきらきらと光ひかった、「――嘘うそだ、それは本当ほんとうじゃあない、あにいはなにか隠かくしてる」

妻女さいじょが茶ちゃを持もって来き、栄二えいじに挨拶あいさつをしてすすめた。栄二えいじはぶっきらぼうにじぎをしたまま、眼めは和助わすけの表情ひょうじょうをとらえてはなさなかった。妻女さいじょが去さると、和助わすけは、自分じぶん用ようの大おおきな湯呑ゆのみを取とり、茶ちゃを啜すすりながら反問はんもんした。

「おれがなにを隠かくしてるんだ」

「本町ほんちょうの綿めん文ぶんさんです」と栄二えいじが云いった、「小舟こぶね町まちからの手紙てがみにはそのことが書かいてあったんでしょう、そうでしょう」

和助わすけは静しずかに茶ちゃを啜すすった。

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