おまえさんうぶだねえ、という女の声が耳の中でする。なまあたたかく吸いつくような肌ざわりが、自分の胸や太腿のそこにもここにもありありと残っている。それはまるでなめくじの這ったあとが、粘液の条になってしみついたようで、いくら拭いてもこすっても、決して消えることがないように感じられた。栄二は顔をしかめながら、二度も三度も唾を吐いた。
男なら男らしくしなさいよ、どうしたのおまえさん、病気なのかえ。そうだ、病気だから側へ寄るな。ふん、乙に気取ってるよ、この人、なにさ、まさか大名の若さまでもあるまいし、こんなとこへ来て気取ったっておけらも笑やあしないよ。おれは気取ってなんかいやあしねえ、うるせえぞ。
あんたいい男だわねえ、あたしおか惚れしちゃったわ、ねえ、こっち向いてえ。よせったら、おらあねむりてえんだ。あらいやだ、ここは宿屋じゃないのよ、ねえ、そんなに薄情にしないでさあ、いいでしょ、あたしてどりなのよ。うるせえな、おらあぬすっとだぞ、放してくれ。火のようにという、本当に火のように熱い唇が、耳を吸い頬を吸い、――ああ、と栄二は呻き声をあげ、激しく首を左右に振った。
まっ暗な道で、どこだか見当もつかなかった。右手に堀か川があるのだろう、ときどき岸を洗う波の音が聞え、さして強くはないが風が吹いていた。
「門前仲町とかいってたから、ここは木場のあたりかもしれねえな」と彼は呟いた、「――暗い、まっ暗だ、どっちへ向いてもなんにも見えやしねえ、人間の住む世界じゃあねえみてえだ」
空には雲があり、雲のあいだに星がまたたいていた。その星のあるかなきかの明りで、道の左側に材木の積んであるのをみつけ、栄二はそっちへいって、用心ぶかく腰を掛けた。その材木は少し不安定だったが、栄二は足で平均をとって腰をおちつけ、溜息をついた。
「なにがどうなってるのか、なにもかもてんでわからねえ」彼は肱を膝へ突き、手で顎を支えながら首を振った、「いったいなにが起こったんだろう、――古代箔白地金襴、おらあ見たこともありゃあしねえ、そいつがおれの道具袋にはいってた、おれの道具袋に」
そうしてとつぜん彼は泣きだした。顎を支えたままで頭をゆらゆらと振り、すると、涙が両の眼からこぼれ落ちた。嗚咽が喉へこみあげてき、彼は自分のすすり泣く声を聞いた。それは自分の喉から出るのではなく、まるで雨に濡れた宿なし犬が、あまやどりをするところに困って鳴いている声のように聞えた。
「さぶじゃあねえ」と彼は嗚咽しながら独り言を云った、「さぶとはきょうだい同様にくらしてきたし、あんなことをするような理由がねえもの、あいつはおれを頼りにしていた、おれがいなくなれば途方にくれるだろう、――どうしたってあのうちの者のしたことだ」
なにめそめそしてんのさ、という女の声が耳の奥で聞えた。どうせ世の中は欲と金、ぱあっとやっちゃおうよ、ぱあっとさ、えらそうに構えてたって死ぬときゃあ乞食や非人と変りゃあしないんだ、骨になりゃあ大名も犬猫もおんなしこった、ねえちょいと、めそめそしないでぱあっとやっちゃおうよ。あたいしんそこ惚れちゃった、とべつの女の声がした。本当よあんた、こんな気持はじめて、ねえ、あたいを女房にしてくんない。
「あたいを女房にしてくんない、へっ」栄二は濡れた眼のまわりと頬を手で押しぬぐいながら、また唾を吐いた、「――みんなおんなじようなことを云うぜ、あたしのことお嫁に貰ってくれないって、誰かもそう云ってたっけ」
栄二の躯が急に硬ばり、その眼が暗い地面の一点をみつめて動かなくなった。
あんまり乱暴にしないでね、とまたべつの女の声が聞えた。あたしまだ出たばかりなの、なんにも知らないのよ、やさしくしてね、やさしくして教えてちょうだい。あらへんね、とその女の声が続いた。どうしたの、そんなに大事がられるときびが悪いわ、もっと好きなようにしてよ。親きょうだい、ふん、だわ。誰のためでもないみんな自分がしたいからするのよ、好きでなきゃあこんなしょうばいするもんですか、親きょうだいのためだなんて、みんなよく云うけれど嘘っぱちよ、ねえ、こっちへ寄ってよ。そしてまたあの肌ざわり、搗きたての餅がへばりつくような、熱くてねっとりと密着してはなれない肌ざわりだ。栄二は強く頭を振りながら、立ちあがり、ちょっとよろめいて、あるきだした。
「あたしのことお嫁に貰ってよ」と彼はあるきながら呟いた、「――誰だっけかな、あたしのことお嫁に貰って、くれないかしら」
栄二は立停って、上わ眼づかいに空のどこかを見まもった。風が彼の着物の裾をはためかせ、乱れた髪の毛が頬をなぶった。
「おその」と彼は呟いた、「――相手は本町きっての大店の娘だ、嘘にもしろそんなことがあっては店の名にかかわる、十三、四からの幼な馴染、そうだ、縁遠い生れつきと云った、そしてあたしを嫁に貰ってくれ、――親としてはあぶないと思ったろう、おれが出入りをしていては万一のことがあるかもしれない、と思ったんじゃあねえか」
そうじゃあねえか、それで出入りを止めるために、あんな拵えごとをしたんじゃあねえのか。彼はそう思い、それがもっとも事実に近いと考えた。
「慥かめるんだ」彼はぎゅっと拳を握った、「そのほかに道はねえ、ぬすっとにされたまんまで生きちゃあいかれねえ、生きていかれるもんか、おらあきっと慥かめてみせるぞ」