← Library‹ さぶ 四の一

おまえさんうぶだねえ、という女おんなの声こえが耳みみの中なかでする。なまあたたかく吸すいつくような肌はだざわりが、自分じぶんの胸むねや太腿ふともものそこにもここにもありありと残のこっている。それはまるでなめくじの這はったあとが、粘液ねんえきの条すじになってしみついたようで、いくら拭ふいてもこすっても、決けっして消きえることがないように感かんじられた。栄二えいじは顔かおをしかめながら、二に度ども三さん度ども唾つばを吐はいた。

男おとこなら男おとこらしくしなさいよ、どうしたのおまえさん、病気びょうきなのかえ。そうだ、病気びょうきだから側がわへ寄よるな。ふん、乙おつに気取きどってるよ、この人ひと、なにさ、まさか大名だいみょうの若わかさまでもあるまいし、こんなとこへ来きて気取きどったっておけらも笑わらいやあしないよ。おれは気取きどってなんかいやあしねえ、うるせえぞ。

あんたいい男おとこだわねえ、あたしおか惚ほれしちゃったわ、ねえ、こっち向むいてえ。よせったら、おらあねむりてえんだ。あらいやだ、ここは宿屋やどやじゃないのよ、ねえ、そんなに薄情はくじょうにしないでさあ、いいでしょ、あたしてどりなのよ。うるせえな、おらあぬすっとだぞ、放はなしてくれ。火ひのようにという、本当ほんとうに火ひのように熱あつい唇くちびるが、耳みみを吸すい頬ほおを吸すい、――ああ、と栄二えいじは呻うめき声ごえをあげ、激はげしく首くびを左右さゆうに振ふった。

まっ暗くらな道みちで、どこだか見当けんとうもつかなかった。右手みぎてに堀ほりか川かわがあるのだろう、ときどき岸がんを洗あらう波なみの音おとが聞きこえ、さして強つよくはないが風かぜが吹ふいていた。

「門前仲町もんぜんなかちょうとかいってたから、ここは木場きばのあたりかもしれねえな」と彼かれは呟つぶやいた、「――暗くらい、まっ暗くらだ、どっちへ向むいてもなんにも見みえやしねえ、人間にんげんの住すむ世界せかいじゃあねえみてえだ」

空そらには雲くもがあり、雲くものあいだに星ほしがまたたいていた。その星ほしのあるかなきかの明あかりで、道みちの左側ひだりがわに材木ざいもくの積つんであるのをみつけ、栄二えいじはそっちへいって、用心ようじんぶかく腰こしを掛かけた。その材木ざいもくは少すこし不ふ安定あんていだったが、栄二えいじは足あしで平均へいきんをとって腰こしをおちつけ、溜息ためいきをついた。

「なにがどうなってるのか、なにもかもてんでわからねえ」彼かれは肱ひじを膝ひざへ突つき、手てで顎あごを支ささえながら首くびを振ふった、「いったいなにが起おこったんだろう、――古代こだい箔はく白地しろじ金襴きんらん、おらあ見みたこともありゃあしねえ、そいつがおれの道具どうぐ袋ふくろにはいってた、おれの道具どうぐ袋ふくろに」

そうしてとつぜん彼かれは泣なきだした。顎あごを支ささえたままで頭あたまをゆらゆらと振ふり、すると、涙なみだが両りょうの眼めからこぼれ落おちた。嗚咽おえつが喉のどへこみあげてき、彼かれは自分じぶんのすすり泣なく声こえを聞きいた。それは自分じぶんの喉のどから出でるのではなく、まるで雨あめに濡ぬれた宿やどなし犬いぬが、あまやどりをするところに困こまって鳴ないている声こえのように聞きこえた。

「さぶじゃあねえ」と彼かれは嗚咽おえつしながら独ひとり言ごとを云いった、「さぶとはきょうだい同様どうようにくらしてきたし、あんなことをするような理由りゆうがねえもの、あいつはおれを頼たよりにしていた、おれがいなくなれば途方とほうにくれるだろう、――どうしたってあのうちの者もののしたことだ」

なにめそめそしてんのさ、という女おんなの声こえが耳みみの奥おくで聞きこえた。どうせ世よの中なかは欲よくと金きん、ぱあっとやっちゃおうよ、ぱあっとさ、えらそうに構かまえてたって死しぬときゃあ乞食こじきや非人ひにんと変かわりゃあしないんだ、骨ほねになりゃあ大名だいみょうも犬猫いぬねこもおんなしこった、ねえちょいと、めそめそしないでぱあっとやっちゃおうよ。あたいしんそこ惚ほれちゃった、とべつの女おんなの声こえがした。本当ほんとうよあんた、こんな気持きもちはじめて、ねえ、あたいを女房にょうぼうにしてくんない。

「あたいを女房にょうぼうにしてくんない、へっ」栄二えいじは濡ぬれた眼めのまわりと頬ほおを手てで押おしぬぐいながら、また唾つばを吐はいた、「――みんなおんなじようなことを云いうぜ、あたしのことお嫁よめに貰もらってくれないって、誰だれかもそう云いってたっけ」

栄二えいじの躯むくろが急きゅうに硬こわばり、その眼めが暗くらい地面じめんの一いち点てんをみつめて動うごかなくなった。

あんまり乱暴らんぼうにしないでね、とまたべつの女おんなの声こえが聞きこえた。あたしまだ出でたばかりなの、なんにも知しらないのよ、やさしくしてね、やさしくして教おしえてちょうだい。あらへんね、とその女おんなの声こえが続つづいた。どうしたの、そんなに大事だいじがられるときびが悪わるいわ、もっと好すきなようにしてよ。親おやきょうだい、ふん、だわ。誰だれのためでもないみんな自分じぶんがしたいからするのよ、好すきでなきゃあこんなしょうばいするもんですか、親おやきょうだいのためだなんて、みんなよく云いうけれど嘘うそっぱちよ、ねえ、こっちへ寄よってよ。そしてまたあの肌はだざわり、搗つきたての餅もちがへばりつくような、熱あつくてねっとりと密着みっちゃくしてはなれない肌はだざわりだ。栄二えいじは強つよく頭あたまを振ふりながら、立たちあがり、ちょっとよろめいて、あるきだした。

「あたしのことお嫁よめに貰もらってよ」と彼かれはあるきながら呟つぶやいた、「――誰だれだっけかな、あたしのことお嫁よめに貰もらって、くれないかしら」

栄二えいじは立停たちどまって、上うえわ眼めづかいに空くうのどこかを見みまもった。風かぜが彼かれの着物きものの裾すそをはためかせ、乱みだれた髪かみの毛けが頬ほおをなぶった。

「おその」と彼かれは呟つぶやいた、「――相手あいては本ほん町ちょうきっての大店おおだなの娘むすめだ、嘘うそにもしろそんなことがあっては店みせの名なにかかわる、十じゅう三さん、四よんからの幼おさな馴染なじみ、そうだ、縁遠えんどおい生うまれつきと云いった、そしてあたしを嫁よめに貰もらってくれ、――親おやとしてはあぶないと思おもったろう、おれが出入でいりをしていては万一まんいちのことがあるかもしれない、と思おもったんじゃあねえか」

そうじゃあねえか、それで出入でいりを止とめるために、あんな拵こしらえごとをしたんじゃあねえのか。彼かれはそう思おもい、それがもっとも事実じじつに近ちかいと考かんがえた。

「慥たしかめるんだ」彼かれはぎゅっと拳こぶしを握にぎった、「そのほかに道みちはねえ、ぬすっとにされたまんまで生いきちゃあいかれねえ、生いきていかれるもんか、おらあきっと慥たしかめてみせるぞ」

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