「旦那に会わしてくれ」と栄二は綿文の店先へ腰を掛けて云った、「芳古堂の栄二ってもんだ、うかがいてえことがあって来たって、取次いでくれ」
まだ朝のことで、店をあけたばかりだし、客は一人もなく、小僧が三人で掃除をしていた。栄二は五日も飲み続け、いまも相当に酔っていたから、帳場格子の中にいるのを小僧ではなく、手代か番頭だと信じているようであった。
「栄さんはわかってますよ」と小僧の一人が云った、「なんべん云ったらいいのかな、旦那はまだ寝てらっしゃるんですったら」
「なんだ小僧、てめえなんぞの出る幕じゃあねえぞ」栄二はおくびをし、そのおくびの酒臭いのに自分で顔をしかめた、「――てめえなんぞはな、銭の入った麻袋を、ばかみてえに一日じゅう板へ叩きつけてりゃあいいんだ、おらあ旦那に会うんだから、綿文の主人に会うんだ、徳兵衛に出て来いと云ってくれ」
そして彼はそこへ横倒しになった。
ばかなまねをするなよ、穏やかにやるんだ。どなったり、相手をへこますような口をきいちゃあいけない。したでに出るんだ、金持は痛いはらをさぐられるのを嫌うからな、そらを使って相手にゆだんをさせるんだ。嘘とまことは眼にあらわれる、口はごまかせても眼はごまかせねえ、肝心なのは眼だ、と栄二は自分に云った。
あら、また来たのあんた、という女の声が聞えた。いやだわ、あんた陰気なんだもの、まるでいまにも首をくくる人みたい、ねえ、陽気にやろうよ、ぱあっとさ、いいでしょ。酔っぱらってるんだろう、酔って文句を云いに来るなんてだらしのないやつだ、どこかへ伴れていって酔いをさましてやれ。さあ、あんたどうするのさ、客はあんた一人じゃないんだよ、さっさとおしなね、いけ好かないよ、この人。ああ、と彼は呻いた。
「おっ母さん」と栄二は云った、「おらあ苦しくってたまらねえよ、おっ母さん」
彼はすすり泣いた。こんどもまた自分には、宿なし犬が腹をへらして鳴いているように聞えた。
「ほら、水溜りだよ」
「放してくれ」栄二は左の腕を自由にしようとした、「この手を放せよ」
「もうちっとだ、おめえ倒れちまうぜ、栄ちゃん」
「さぶだな、どうしたんだ」
「堀江町へゆくんだ」とさぶが云った、「ほかにどうしようもねえからな、それとも浅草の店へいこうか」
「ばか云え、おらあ綿文へ談判にいくんだ」
「そんなに酔っていちゃあだめだ、酔いをさましてからにしよう」さぶは肩へかけている栄二の腕のぐあいを直した、「いいからもっとよっかかんなよ、おら大丈夫だから」
「おめえどうしておれのことがわかった」
「本町のお店へ仕事に来たら、栄ちゃんが酔いつぶれてたんだ」とさぶが答えた、「――それから女中部屋で寝かしとこうってことになったけれど、おめえがあんまり大きな声でどなるんで、外へ伴れだすよりしようがなかったんだよ」
「そうか、おれにゃあよくわからねえ」栄二は強く頭を振った、「夢とうつつがごちゃまぜになっちゃって、どこでなにをしたかも覚えちゃあいねえ、今日はなんにちだ」
「二十一日だ」とさぶが云った、「おめえ浅草の店を十五日に出たっきりだっていうじゃねえか」
「水が飲みてえ」
「その角を曲ればすみよしだ、もうちっとの辛抱だよ」
「だめだ、もうあるけねえ」
栄二の膝が崩れ、ずるずるとそこへ坐りこんだ。さぶは支えきれずによろめいて、危うく栄二の上へ倒れそうになった。堀江町の角で、かなり人の往来が多い、さぶは自分が見られているように狼狽し、ちょっと待っててくれ、と云いながら「すみよし」の店のほうへ走っていった。
あたしもう諦めたわ、という女の声が聞えた。これが持って生れた運なんだもの、生涯、苦労を背負ってくらすんでしょ、せめてこんど生れてくるときには、もう少しましな家の子に生れてきたいって、それを願うよりほかにないと思ってるの。佐渡のなんとかはこの世の地獄っていうけれど、あたしは生れてから今日までずっと地獄のくらしよ。ああそうだとも、この世はみんな地獄さ、勝手にしやあがれ、と栄二は云った。
「さあ水よ」と女が云った、「咽せないように飲むのよ」
栄二は湯呑から水を飲み、すぐにまた一杯飲んだ。
「のぶ公だな」と栄二は頭を振りながら見あげた、「ここはすみよしか」
「少し横になるほうがいいわ、さあ」おのぶは座蒲団を二つに折り、それを枕にして栄二を横にさせた、「いまなにか掛けるから、眠れたらお眠りなさい」
「さぶはどこにいる」
「仕事じゃないの、仕事が終りしだい戻って来るって、本町のお店とかへいったわ」
「おれも本町に用があるんだ」
栄二は起きあがろうとし、おのぶはそれを押えつけた。
「おれにさわるな」と栄二が云った、「おれの躯は元のままじゃあねえ、泥みてえにけがれちまったんだ、おらあもうだめな人間だ」