← Library‹ さぶ 四の二

「旦那だんなに会あわしてくれ」と栄二えいじは綿めん文ぶんの店先みせさきへ腰こしを掛かけて云いった、「芳かおる古こ堂どうの栄二えいじってもんだ、うかがいてえことがあって来きたって、取次とりついでくれ」

まだ朝あさのことで、店みせをあけたばかりだし、客きゃくは一人ひとりもなく、小僧こぞうが三さん人にんで掃除そうじをしていた。栄二えいじは五いつ日かも飲のみ続つづけ、いまも相当そうとうに酔よっていたから、帳場ちょうば格子こうしの中なかにいるのを小僧こぞうではなく、手代てだいか番頭ばんとうだと信しんじているようであった。

「栄ひさしさんはわかってますよ」と小僧こぞうの一人ひとりが云いった、「なんべん云いったらいいのかな、旦那だんなはまだ寝ねてらっしゃるんですったら」

「なんだ小僧こぞう、てめえなんぞの出でる幕まくじゃあねえぞ」栄二えいじはおくびをし、そのおくびの酒臭さけくさいのに自分じぶんで顔かおをしかめた、「――てめえなんぞはな、銭せんの入はいった麻袋あさぶくろを、ばかみてえに一いち日にちじゅう板いたへ叩たたきつけてりゃあいいんだ、おらあ旦那だんなに会あうんだから、綿めん文ぶんの主人しゅじんに会あうんだ、徳兵衛とくべえに出でて来こいと云いってくれ」

そして彼かれはそこへ横倒よこだおしになった。

ばかなまねをするなよ、穏おだやかにやるんだ。どなったり、相手あいてをへこますような口くちをきいちゃあいけない。したでに出でるんだ、金持かねもちは痛いたいはらをさぐられるのを嫌きらうからな、そらを使つかって相手あいてにゆだんをさせるんだ。嘘うそとまことは眼めにあらわれる、口くちはごまかせても眼めはごまかせねえ、肝心かんじんなのは眼めだ、と栄二えいじは自分じぶんに云いった。

あら、また来きたのあんた、という女おんなの声こえが聞きこえた。いやだわ、あんた陰気いんきなんだもの、まるでいまにも首くびをくくる人ひとみたい、ねえ、陽気ようきにやろうよ、ぱあっとさ、いいでしょ。酔よっぱらってるんだろう、酔よって文句もんくを云いいに来くるなんてだらしのないやつだ、どこかへ伴つれていって酔よいをさましてやれ。さあ、あんたどうするのさ、客きゃくはあんた一人ひとりじゃないんだよ、さっさとおしなね、いけ好すかないよ、この人ひと。ああ、と彼かれは呻うめいた。

「おっ母ははさん」と栄二えいじは云いった、「おらあ苦くるしくってたまらねえよ、おっ母ははさん」

彼かれはすすり泣ないた。こんどもまた自分じぶんには、宿やどなし犬いぬが腹はらをへらして鳴ないているように聞きこえた。

「ほら、水溜みずたまりだよ」

「放はなしてくれ」栄二えいじは左ひだりの腕うでを自由じゆうにしようとした、「この手てを放はなせよ」

「もうちっとだ、おめえ倒たおれちまうぜ、栄さかえちゃん」

「さぶだな、どうしたんだ」

「堀江ほりえ町まちへゆくんだ」とさぶが云いった、「ほかにどうしようもねえからな、それとも浅草あさくさの店みせへいこうか」

「ばか云いえ、おらあ綿めん文ぶんへ談判だんぱんにいくんだ」

「そんなに酔よっていちゃあだめだ、酔よいをさましてからにしよう」さぶは肩かたへかけている栄さかえ二にの腕うでのぐあいを直なおした、「いいからもっとよっかかんなよ、おら大丈夫だいじょうぶだから」

「おめえどうしておれのことがわかった」

「本町ほんちょうのお店たなへ仕事しごとに来きたら、栄さかえちゃんが酔よいつぶれてたんだ」とさぶが答こたえた、「――それから女中じょちゅう部屋へやで寝ねかしとこうってことになったけれど、おめえがあんまり大おおきな声こえでどなるんで、外そとへ伴つれだすよりしようがなかったんだよ」

「そうか、おれにゃあよくわからねえ」栄二えいじは強つよく頭あたまを振ふった、「夢ゆめとうつつがごちゃまぜになっちゃって、どこでなにをしたかも覚おぼえちゃあいねえ、今日きょうはなんにちだ」

「二十にじゅう一いち日にちだ」とさぶが云いった、「おめえ浅草あさくさの店みせを十じゅう五ご日にちに出でたっきりだっていうじゃねえか」

「水みずが飲のみてえ」

「その角かどを曲まがればすみよしだ、もうちっとの辛抱しんぼうだよ」

「だめだ、もうあるけねえ」

栄二えいじの膝ひざが崩くずれ、ずるずるとそこへ坐すわりこんだ。さぶは支ささえきれずによろめいて、危あやうく栄二えいじの上うえへ倒たおれそうになった。堀江ほりえ町まちの角かどで、かなり人ひとの往来おうらいが多おおい、さぶは自分じぶんが見みられているように狼狽ろうばいし、ちょっと待まっててくれ、と云いいながら「すみよし」の店みせのほうへ走はしっていった。

あたしもう諦あきらめたわ、という女おんなの声こえが聞きこえた。これが持もって生うまれた運うんなんだもの、生涯しょうがい、苦労くろうを背負せおってくらすんでしょ、せめてこんど生うまれてくるときには、もう少すこしましな家いえの子こに生うまれてきたいって、それを願ねがうよりほかにないと思おもってるの。佐渡さどのなんとかはこの世よの地獄じごくっていうけれど、あたしは生うまれてから今日きょうまでずっと地獄じごくのくらしよ。ああそうだとも、この世よはみんな地獄じごくさ、勝手かってにしやあがれ、と栄二えいじは云いった。

「さあ水みずよ」と女おんなが云いった、「咽むせないように飲のむのよ」

栄二えいじは湯呑ゆのみから水みずを飲のみ、すぐにまた一杯いっぱい飲のんだ。

「のぶ公こうだな」と栄二えいじは頭あたまを振ふりながら見みあげた、「ここはすみよしか」

「少すこし横よこになるほうがいいわ、さあ」おのぶは座ざ蒲団ふとんを二ふたつに折おり、それを枕まくらにして栄二えいじを横よこにさせた、「いまなにか掛かけるから、眠ねむれたらお眠ねむりなさい」

「さぶはどこにいる」

「仕事しごとじゃないの、仕事しごとが終おわりしだい戻もどって来くるって、本町ほんちょうのお店たなとかへいったわ」

「おれも本町ほんちょうに用ようがあるんだ」

栄二えいじは起おきあがろうとし、おのぶはそれを押おさえつけた。

「おれにさわるな」と栄二えいじが云いった、「おれの躯むくろは元もとのままじゃあねえ、泥どろみてえにけがれちまったんだ、おらあもうだめな人間にんげんだ」

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