栄二がもう起きるようすのないことを認めてから、おのぶは小座敷を出てゆき、掻巻を持って戻ると、栄二の躯へそっと掛けてやった。
「のぶ公か」栄二は眼をあいていた、「迷惑をかけて済まなかったな」
「栄さんがこんなになるなんて、嫌いよ」
「だろうとも、てめえでもてめえが嫌いになった、勘弁してくれ」
「いったいどうしたっていうの、十五日の日に酔っぱらって、また来ると云って出てったっきり、からっ風に飛ばされた枯葉みたいに音沙汰なし、そのあげくさぶちゃんに背負われて来るなんて、あんまりだらしがないじゃないの、しっかりしてよ」
「もっとやっつけてくれ」栄二は眼をつむりながら云った、「なんとでも云ってくれ、おれあ褒められようとは思っちゃいねえんだから」
「眠んなさいよ、眠ってさめてっから話を聞くわ」
「眠れるもんか、こんな、――よせったら、のぶ公、おれの躯は本当に泥まみれなんだ、側へ寄っちゃあいけねえんだよ」
「なにが泥まみれよ、着物にちょっと土が付いただけじゃないの、ちゃんと払ってあるわよ」
「その泥じゃあねえ」
女と寝たんだ、しかも好きでもなく顔も覚えていないような女たちとだ。そう云おうとしたけれども、舌が動かなかった。
「そんなこと忘れなさい」おのぶはまるで彼の告白を聞きでもしたように云った、「――こんな話するの初めてだけれど、あたし十一のとしに、近所の六っていうやつに口を吸われたことがあるの、そのときあたしは自分の躯がすっかりけがれちゃって、一生きれいにはなれないと思って泣いたわ、いっそ死んじゃおうかとさえ思い詰めたものよ、でも五日たち十日たつうちに、だんだん気持がおちついてきて、自分の躯はけがれてなんぞいない、こんなことでけがれてたまるもんかって思うようになったわ」
「僅か十一の子にか」
「六っていうやつ、ほら、このまえ話したでしょ、十五、六からぐれだしたあげく、しまいには女衒にまで成りさがっちゃったわ」
おれはおのぶの兄だと云った、いつかのならず者のことを栄二は思いだした。
「じゃあ、あのときのやくざか」
「いま行方知れず、なかま内でなにか不義理なことをして、江戸にいられなくなったらしいの、うっかり帰って来れば、それこそ野詰めにされるって話よ」おのぶはそう云ってあやすように微笑した、「どーお、少しは胸がおさまって」
「眠ってみよう」と栄二が云った。
水を持って来ておこうと、おのぶが去り、栄二は眼をつむった。眠れはしないだろうと思ったのに、そのまま眠ってしまったらしい。おのぶが来て、枕許へ水を置いていったのを、おぼろげに記憶しているだけで、人の話し声を聞きつけて眼をさますと、部屋の中は昏れかかっていた。彼は掻巻をはいで眠っていたとみえ、右の肩から腕がすっかり冷えているのに気づいた。
「もう少し寝かしておきましょう」とおのぶが云っていた、「幾日もろくに眠らなかったようだから」
「じゃあおれは店までいって来よう」とさぶの云うのが聞えた、「あにいたちに断わっとくことがあるんだ」
「あたし待っていたいんですけれど」と女の細い声が云った、「ここにいていいでしょうか」
「ええいいわ、もうすぐに客が来て、あたしは手がぬけなくなるでしょ、あんたが栄さんの面倒をみてくれれば助かるわ」とおのぶが云った、「でも、お店のほうはいいの」
「ええ構いません、そういうふうにして来ましたから」
おすえだな、と栄二は思った。慥かにおすえの声だ、どうしてこんなところへ来たんだろう。彼はそう思いながら半身を起こし、枕許に用意してあった水差の水を、湯呑には注がず、じかに水差の口から飲んだ。氷のように冷たい水が、こころよく喉をすべると、それが鼻にまでしみるようで、続けさまにくしゃみが三つも四つも出た。
おのぶが障子をあけて覗き、起きたのときいた。栄二は起き直って、掻巻を肩へひきよせながら身ぶるいをした。
「風邪をひいたんじゃないの、くしゃみなんぞして」
「誰か来ているようだな」
「ええ」と云っておのぶは振り向いた、「本町のお店の人ですって、あなたこっちへいらっしゃいよ」
おのぶがうしろへさがると、おすえが顔を見せて会釈した。瀬戸物で作ったように、白くて冷たい、無表情な顔つきであった。いま行燈を持って来るわね、と云っておのぶは去った。
「お帰んなさい」と栄二が云った、「ここはあんたの来るようなところじゃありません」
おすえは泣きだした。