← Library‹ さぶ 四の三

栄二えいじがもう起おきるようすのないことを認みとめてから、おのぶは小しょう座敷ざしきを出でてゆき、掻巻かいまきを持もって戻もどると、栄二えいじの躯むくろへそっと掛かけてやった。

「のぶ公こうか」栄二えいじは眼めをあいていた、「迷惑めいわくをかけて済すまなかったな」

「栄ひさしさんがこんなになるなんて、嫌きらいよ」

「だろうとも、てめえでもてめえが嫌きらいになった、勘弁かんべんしてくれ」

「いったいどうしたっていうの、十じゅう五ご日にちの日ひに酔よっぱらって、また来くると云いって出でてったっきり、からっ風かぜに飛とばされた枯葉かれはみたいに音おと沙汰さたなし、そのあげくさぶちゃんに背負せおわれて来くるなんて、あんまりだらしがないじゃないの、しっかりしてよ」

「もっとやっつけてくれ」栄二えいじは眼めをつむりながら云いった、「なんとでも云いってくれ、おれあ褒ほめられようとは思おもっちゃいねえんだから」

「眠ねむんなさいよ、眠ねむってさめてっから話はなしを聞きくわ」

「眠ねむれるもんか、こんな、――よせったら、のぶ公こう、おれの躯むくろは本当ほんとうに泥どろまみれなんだ、側がわへ寄よっちゃあいけねえんだよ」

「なにが泥どろまみれよ、着物きものにちょっと土つちが付ついただけじゃないの、ちゃんと払はらってあるわよ」

「その泥どろじゃあねえ」

女おんなと寝ねたんだ、しかも好すきでもなく顔かおも覚おぼえていないような女おんなたちとだ。そう云いおうとしたけれども、舌したが動うごかなかった。

「そんなこと忘わすれなさい」おのぶはまるで彼かれの告白こくはくを聞ききでもしたように云いった、「――こんな話はなしするの初はじめてだけれど、あたし十じゅう一いちのとしに、近所きんじょの六ろくっていうやつに口くちを吸すわれたことがあるの、そのときあたしは自分じぶんの躯むくろがすっかりけがれちゃって、一生いっしょうきれいにはなれないと思おもって泣ないたわ、いっそ死しんじゃおうかとさえ思おもい詰つめたものよ、でも五いつ日かたち十とお日かたつうちに、だんだん気持きもちがおちついてきて、自分じぶんの躯むくろはけがれてなんぞいない、こんなことでけがれてたまるもんかって思おもうようになったわ」

「僅わずか十じゅう一いちの子こにか」

「六ろくっていうやつ、ほら、このまえ話はなしたでしょ、十じゅう五、六ごろくからぐれだしたあげく、しまいには女衒ぜげんにまで成なりさがっちゃったわ」

おれはおのぶの兄あにだと云いった、いつかのならず者もののことを栄二えいじは思おもいだした。

「じゃあ、あのときのやくざか」

「いま行方ゆくえ知しれず、なかま内ないでなにか不ふ義理ぎりなことをして、江戸えどにいられなくなったらしいの、うっかり帰かえって来くれば、それこそ野の詰づめにされるって話はなしよ」おのぶはそう云いってあやすように微笑びしょうした、「どーお、少すこしは胸むねがおさまって」

「眠ねむってみよう」と栄二えいじが云いった。

水みずを持もって来きておこうと、おのぶが去さり、栄二えいじは眼めをつむった。眠ねむれはしないだろうと思おもったのに、そのまま眠ねむってしまったらしい。おのぶが来きて、枕許まくらもとへ水みずを置おいていったのを、おぼろげに記憶きおくしているだけで、人ひとの話はなし声ごえを聞ききつけて眼めをさますと、部屋へやの中なかは昏くれかかっていた。彼かれは掻巻かいまきをはいで眠ねむっていたとみえ、右みぎの肩かたから腕うでがすっかり冷ひえているのに気きづいた。

「もう少すこし寝ねかしておきましょう」とおのぶが云いっていた、「幾いく日かもろくに眠ねむらなかったようだから」

「じゃあおれは店みせまでいって来こよう」とさぶの云いうのが聞きこえた、「あにいたちに断ことわっとくことがあるんだ」

「あたし待まっていたいんですけれど」と女おんなの細ほそい声こえが云いった、「ここにいていいでしょうか」

「ええいいわ、もうすぐに客きゃくが来きて、あたしは手てがぬけなくなるでしょ、あんたが栄さかえさんの面倒めんどうをみてくれれば助たすかるわ」とおのぶが云いった、「でも、お店たなのほうはいいの」

「ええ構かまいません、そういうふうにして来きましたから」

おすえだな、と栄二えいじは思おもった。慥たしかにおすえの声こえだ、どうしてこんなところへ来きたんだろう。彼かれはそう思おもいながら半身はんしんを起おこし、枕許まくらもとに用意よういしてあった水差みずさしの水みずを、湯呑ゆのみには注そそがず、じかに水差みずさしの口くちから飲のんだ。氷こおりのように冷つめたい水みずが、こころよく喉のどをすべると、それが鼻はなにまでしみるようで、続つづけさまにくしゃみが三みつも四よんつも出でた。

おのぶが障子しょうじをあけて覗のぞき、起おきたのときいた。栄二えいじは起おき直なおって、掻巻かいまきを肩かたへひきよせながら身みぶるいをした。

「風邪かぜをひいたんじゃないの、くしゃみなんぞして」

「誰だれか来きているようだな」

「ええ」と云いっておのぶは振ふり向むいた、「本町ほんちょうのお店たなの人ひとですって、あなたこっちへいらっしゃいよ」

おのぶがうしろへさがると、おすえが顔かおを見みせて会釈えしゃくした。瀬戸せと物もので作つくったように、白しろくて冷つめたい、無む表情ひょうじょうな顔かおつきであった。いま行燈あんどんを持もって来くるわね、と云いっておのぶは去さった。

「お帰かえんなさい」と栄二えいじが云いった、「ここはあんたの来くるようなところじゃありません」

おすえは泣なきだした。

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