← Library‹ さぶ 四の五

さぶはうまく云いいつくろおうとしてけんめいになった。だが言葉ことばにあやをつけたり、含ふくみのある表現ひょうげんをしたりすることは、彼かれにはまったく不ふ可能かのうであった。親方おやかたの芳兵衛よしべえはすぐに綿めん文ぶんへ詫わびにゆき、栄二えいじは店内てんないから放逐ほうちくすると約束やくそくした。それから浅草あさくさの和助わすけを呼よんで、東ひがし仲町なかちょうの店みせにも置おくな、と命めいじたということがわかった。

「そうだろう、そんなこったろうと覚悟かくごはしていたんだ」

「浅草あさくさの和助わすけあにいはいろいろとりなしたんだ」とさぶは自分じぶんの失策しっさくのように、口くちごもりながら云いった、「――いまそこまで仕置しおきをするのは酷こくだ、当人とうにんのためも少すこしは考かんがえてやらなければって」

「もうよせ」と栄二えいじは首くびを振ふり、自分じぶんの膳ぜんの上うえにある汁椀しるわんの蓋ふたを取とった、「そうはっきりきまれば云いうこたあねえ、おれも飲のもう」

栄さかえちゃん、とさぶが呼よびかけ、おすえは待まっていたように酌しゃくをした。

「親方おやかたはまっすぐな人ひとだ」栄二えいじは注そそがれた酒さけをみつめて云いった、「自分じぶんも人ひとからうしろ指ゆびを差さされるようなことはしねえ代かわりに、子飼こがいの人間にんげんでも曲まがったことは決けっして許ゆるさねえ、だからこそ、芳かおる古こ堂どうの屋台やたい骨ほねにゆるぎがねえんだろう、結構けっこうだ、立派りっぱなもんだよ」

栄二えいじはそこで酒さけをひと息いきに呷あおった。

「こんなことを云いったからって、おれがやけになってるなんて思おもわねえでくれ」と彼かれは続つづけた、「芳かおる古こ堂どうと縁えんが切きれた以上いじょう、おれがなにをしようと親方おやかたに迷惑めいわくはかからねえ、また、親方おやかたも店内てんないの誰だれにも、おれにどうしろこうしろと云いう権利けんりはもうなくなった、そうだろう、さぶ」

「それはまあ、そうだろうが」さぶは不安ふあんそうに栄二えいじの顔かおを見みた、「いまここでそんなふうにきめなくっても、まだ店内てんないのあにいたちに口くちをきいてもらう、ってえ手てもあるし」

「まっぴらだ」栄二えいじはなにかを叩たたっ切きるように云いった、「芳かおる古こ堂どうがどんなに立派りっぱな店みせで、店みせの名ながどれほど大事だいじかは知しらねえが、こんどのやりかたをみておらああいそが尽つきた、向むこうから戻もどってくれって頼たのんできても、二に度どと再ふたたびあの店みせの敷居しきいを跨またぐもんか、まっぴらごめんだ」

おすえは蒼白あおじろくひきつったような顔かおで、黙だまって栄二えいじに酌しゃくをし、ついでさぶにも酌しゃくをした。栄二えいじはその二に杯はいめもひと息いきに呷あおり、三さん杯はいめを注そそがせたが、さぶは酒さけには口くちをつけず、おどおどした眼めつきで栄二えいじのようすを見みまもっていた。

「さぶ、おめえに頼たのみがある」

「いいとも、なんでも云いってくれ」

「東ひがし仲町なかちょうへいって、おれの荷物にもつを持もって来きてくれ」と栄二えいじが云いった、「たぶん小舟こぶね町まちに預あずけてあった金かねも届とどいてると思おもうが、もし届とどいていなかったら小舟こぶね町まちから受取うけとって、そいつもここへ持もって来きてもらいたいんだ」

「そんなことならぞうさもねえが」と云いってさぶはおすえを見みた、「――ここへ持もって来くるより、おちつく先さきをきめて」

「あたしのうちがいいわ」とおすえがいそいで云いった、「栄ひさしさんにはたったいまからお金かねが大切たいせつなのよ、あたしのうちならむだなお金かねを使つかわずに済すむし、仕事しごとを始はじめる足掛あしがかりにもなるわ」

栄二えいじはきっぱりと首くびを振ふった、「――そいつはおれの身みがきれいになってからだ」

おすえがなにか云いおうとし、栄二えいじは手てをあげてそれを抑おさえた。

「ぬすっとの汚名おめいを消けすのが第だい一いち、もう一ひとつは躯むくろのけがれだ」と彼かれは云いった、「――さぶも知しってるとおり、おれは二十にじゅう三さんになるまで道楽どうらくはしなかった、酒さけこそ飲のんだけれどいろまちへは近ちかよったこともねえ、――それにはおめえがいたからなんだ、おすえちゃん、いつかおめえをかみさんに貰もらいたいと思おもい、それまではきれいな躯むくろでいたいと思おもったからだ」

おすえは低ひくくうなだれ、左手ひだりてに燗徳利かんどくりを持もったまま、右手みぎての指ゆびで両りょうの眼めがしらを抑おさえた。

「それを忘わすれたわけじゃあねえが」と栄二えいじは続つづけていた、「まったく覚おぼえのねえぬれぎぬをきせられて、十じゅう年ねんも勤つとめた店みせを追おい出だされ、ひと言ことのいい訳わけもきいてもらえなかったのでかっとなった、生うまれて初はじめて、世間せけんも人ひとも信しんじられなくなり、どうにでもなれと、すてばちな気持きもちで飲のみあるいたうえ、ゆき当あたりばったりに女おんなと寝ねてしまった」

どこで幾いく人にんの女おんなと寝ねたかも、寝ねた相手あいてがどんな顔かおかたちだったかも記憶きおくがない。少すこしも覚おぼえていない相手あいてと寝ねた、ということが、いっそう自分じぶんをけがらわしく感かんじる。この、自分じぶんをけがらわしく感かんじる気持きもちが消きえるまでは、おすえには近ちかづきたくないのだ。

「本当ほんとうに綿めん文ぶんから暇ひまを取とったんなら、金杉かなすぎにあるといううちへ帰かえっていてくれ」と栄二えいじはおすえに云いった、「これならどうにかやってゆける、という段取だんどりがついたら、おれのほうから改あらためて話はなしを持もっていくよ、尤もっとも、断ことわっておくが、いつのことになるかわからない、半年はんとしでそういう気持きもちになるか二に年ねんさきになるか、いまのおれには見当けんとうもつかない、だから、ぜひ待まっていてくれとは云いえないんだよ、おすえちゃん」

おすえは大おおきくみはった眼めで、栄二えいじをじっとみつめながら頷うなずいた。

「これで話はなしはきまった」と栄二えいじは酒さけを呷あおってから云いった、「よかったらさぶはこれから浅草あさくさへいって来きてくれ、おすえちゃんは金杉かなすぎへ帰かえるんだ、勝手かってなようで済すまねえが、いまはおれを独ひとりにしてくれ」

さぶは持もっていた椀わんの蓋ふたの、冷つめたくなった酒さけを啜すすり、おすえは燗かん徳利とっくりを置おいて、うちは金杉かなすぎ三さん丁目ちょうめ裏うらの弥六店やろくだな、父ちちの名なは平蔵へいぞうだと云いった。

「もういちど云いうが、おれを待まっていなくてもいいんだよ、おすえちゃん」と栄二えいじがそっぽを向むきながら云いった、「――この世よに生いきていると、いつどんなことが起おこるかわかりゃあしないんだからな」

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