← Library‹ さぶ 五の二

栄二えいじはうしろ手でに縛しばられ、番小屋ばんごやの土間どまの隅すみにころがっていた。彼かれは相手あいてがなに者ものだか知しらなかったが、唾つばを吐はきかけられた目明めあかしは怒おこり、十手じってでさんざんに打うちすえたのち、子分こぶんの者ものに栄二えいじを縛しばらせ、足蹴あしげにしたり、手桶ておけの水みずをぶっかけたりして突つき転ころがした。

栄二えいじは半なかば気きを失うしなっていたが、これまた肉にく躰からだ的てきな苦痛くつうというより、精神せいしん的てきな極度きょくどの激発げきはつのためのようであった。顔かお半分はんぶんの血ちと泥どろはすでに乾かわきかけてい、そのため石膏せっこうのように血ちのけのない顔かおが、ぞっとするほどすさまじくみえる。半なかばひらいている眼めはうつろで、なにを見みているともなく、浅あさく短みじかい呼吸こきゅうをするたびに、元結もとゆいの切きれたさんばら髪かみの幾筋いくすじかが、かすかに、一定いっていのまをおいて揺ゆれていた。

「弓町ゆみちょうの助じょ二郎じろうだな」という男おとこの声こえを、栄二えいじはおぼろげに聞きいた、「おまえはいつも少すこし度たびがすぎる、どういう仔細しさいだ」

侍さむらいだな、と栄二えいじはぼんやりと思おもった。侍さむらいの口くちぶりだ、与力よりきか同心どうしんだな。――どういう仔細しさいだときかれて、相手あいての助じょ二郎じろうはくどくどとなにか説明せつめいした。しゃがれ声ごえの低ひくい早はやくちで、栄二えいじにはよく聞きこえなかったし、また聞ききたいという気持きもちもなかった。――なんとでもなれ、どうにでもしろ。そんなことを、はっきりしない意識いしきの中なかで繰返くりかえし呟つぶやき続つづけていた。

「とにかく繩なわを解といて火ひにあたらせろ」と侍さむらいの声こえが云いった、「そのままで置おいたらこごえ死しんでしまうぞ」

栄二えいじは抱だき起おこされた。繩なわが解とかれ、二人ふたりに抱かかえられて火ひの側がわへいったが、火ひのあたたかみが感かんじられるまでには、かなり暇ひまがかかった。これもあとでわかったことだが、目明めあかしを叱しかっていたのは町廻まちまわり与力よりきの青木あおき功いさお之の進すすむと、同心どうしんの安井やすい友右衛門ともえもん、それに下役したやくの岡村おかむら次兵衛じへえという三さん人にんで、見廻みまわりの途中とちゅうここへ立たち寄よったのであった。

下役したやくの岡村おかむらが手拭てぬぐいを湯ゆに浸ひたして、栄二えいじの顔かおや手足てあしを拭ふき、裂さけた唇くちびるや傷きずのできているところには、膏薬こうやくを塗ぬってくれた。傷きずにさわられるときだけ、栄二えいじの顔かおは痛いたそうにしかめられたが、そのほかのときは痴呆ちほうのように無む表情ひょうじょうであり、誰だれの顔かおをも見みないし、なにをきかれても答こたえなかった。――本町ほんちょうの鳶頭とびがしらから目明めあかしの助じょ二郎じろうがどんな話はなしを聞きいたか、それを青木あおき功いさお之の進すすむにどう告つげたか、栄二えいじはまったく知しらなかったが、訊問じんもんする青木あおきの口くちぶりから察さっすると、栄二えいじは住所じゅうしょも名なも職しょくも云いわず、本町ほんちょうの綿めん文ぶんでゆすりをはたらいた、ということになっているようであった。

「見みたところ、そのような人間にんげんとは思おもえない」と青木あおきは云いった、「おれは町廻まちまわり与力よりきの青木あおき功いさお之の進すすむという者ものだ、これにはなにかわけがあるように考かんがえられるが、申もうすことはないのか」

栄二えいじは答こたえなかった。青木あおきは待まった。

「あの店みせには火ひをつけてやる」と栄二えいじは喉声のどごえで独ひとり言ごとを云いった、「三さん人にんの火消ひけし人足にんそくは殺ころしてやる、それから、あとの岡おかっ引ぴき二人ふたりもだ」

腫はれあがった唇くちびるのあいだからの呟つぶやきで、はっきりしてはいないが、青木あおきの耳みみには聞きこえたのだろう、彼かれは眼めを細ほそめて栄二えいじを見みた。青木あおき功いさお之の進すすむは二十にじゅう七ななか八はち、痩やせがたで背丈せたけが高たかく、細ほそおもての浅黒あさぐろい顔かおは、際立きわだって目鼻めはながはっきりしていた。いかにも自制じせい心しんと意志いしの強つよさを示しめしているような顔かおつきであった。

「住居じゅうきょがあり、身許みもと引受ひきうけ人にんがいるなら、このまま帰かえしてやろう」と青木あおきは忍耐にんたいづよく云いった、「住居じゅうきょはどこだ」

栄二えいじは答こたえなかった。

「黙だまっていてはなにもわからない、どうしても返答へんとうをしないなら、奉行ぶぎょう所しょへ曳ひいてゆかなければならないぞ」

だが栄二えいじは答こたえなかった。

「目明めあかしが手荒てあらなことをしたようだ、それではらを立たてているのだろうが」と青木あおきはなお穏おだやかに云いいきかせた、「よく聞きくがいい、役目やくめで不審ふしんな者ものをしらべるには、来客らいきゃくをもてなすようなわけにはいかない、多少たしょうの違ちがいはあっても、いずれは手荒てあらな手段しゅだんをとらなければならないだろう、おまえが強情ごうじょうを張はれば張はるほど余罪よざいありと疑うたがわれ、やがては牢問ろうどいにもかけられなければならない、そこをよく思案しあんしたうえ、仔細しさいを残のこらず話はなしたらどうだ」

栄二えいじの着物きものから湯気ゆげがたちはじめ、躯むくろにあたたかみが感かんじられると、全身ぜんしんの筋肉きんにくや骨ほねのふしぶしが、熱ねつをもったように痛いたみだした。ちくしょう綿めん文ぶんのやつら、あの火消ひけし人足にんそく、それから岡おかっ引ぴきめ、みんなぶち殺ころしてくれるぞ。たとえ三十さんじゅう年ねんが五十ごじゅう年ねんかかっても、必かならずみんなぶち殺ころしてやるぞ、と栄二えいじは躯むくろじゅうの痛いたみにかけて誓ちかうように、心こころの中なかで思おもった。

「ではやむを得えない」やがて青木あおきは太息といきをつきながら云いった、「奉行ぶぎょう所しょへいって吟味ぎんみするとしよう」

そして番太ばんたの老人ろうじんに、駕籠かごを呼よんでやれ、と命めいじた。

栄二えいじは駕籠かごにのせられて、北町きたまち奉行ぶぎょう所しょへ連つれてゆかれ、仮かり牢ろうへ入いれられた。牢ろうへ入いれるには町まち奉行ぶぎょうの許可きょかを必要ひつようとするが、青木あおきは役所やくしょ詰づめの与力よりきで又左衛門またざえもんという者ものと話はなしあい、空あいている仮かり牢ろうへ入いれたのであった。又左衛門またざえもんの姓せいはやはり青木あおきであり、功いさお之の進すすむの一族いちぞくでとしも四十よんじゅう五ご歳さい、北きたの奉行ぶぎょう所しょでは上席じょうせき与力よりきの一人ひとりであった。――栄二えいじはこれらのことには無む関心かんしんだった。むろん牢舎ろうしゃのことなどはなにも知しらないし、そこが北町きたまち奉行ぶぎょう所しょだということさえ知しらなかった。彼かれは自分じぶんの中なかにかたく閉とじこもって、外そとからはなにものも入いれまいと思おもった。世間せけんぜんたいが敵てきだ、これを忘わすれてはいけない。金持かねもちは金かねの力ちからで、役人やくにんは権力けんりょくで、罪つみのない者ものを罪人ざいにんにすることができる。自分じぶんのように金かねもなく権力けんりょくもない者ものには、かれらに対抗たいこうすることはできない。これが事実じじつなんだ、と彼かれは思おもった。すると、怒いかりがまたつきあげてきた。

栄二えいじはあたりを見みまわした。三さん方ほうが板壁いたかべ、廊下ろうかに面めんした方ほうが牢ろう格子こうしになっている。つきあげてくる怒いかりでめまいがしそうになり、そのがっちりとした牢ろう格子こうしが、遠とおのいたり近ちかよったりするように見みえた。

「ちくしょう」栄二えいじは劈つんざくように叫さけぶと、急きゅうに立たちあがった、「おれをここから出だせ」

彼かれは牢ろう格子こうしへ激はげしく躰からだ当あたりをくれた。肉にくや骨ほねにするどい痛いたみを感かんじたが、狂くるったように二に度ど、三さん度どと躯むくろを叩たたきつけ、両手りょうてで牢ろう格子こうしを力ちからの限かぎりゆすぶった。

「おれを出だしゃあがれ」と彼かれは叫さけび続つづけた、「きさまたち一人ひとり残のこらず叩たたっ殺ころしてくれるぞ」

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