栄二はうしろ手に縛られ、番小屋の土間の隅にころがっていた。彼は相手がなに者だか知らなかったが、唾を吐きかけられた目明しは怒り、十手でさんざんに打ちすえたのち、子分の者に栄二を縛らせ、足蹴にしたり、手桶の水をぶっかけたりして突き転がした。
栄二は半ば気を失っていたが、これまた肉躰的な苦痛というより、精神的な極度の激発のためのようであった。顔半分の血と泥はすでに乾きかけてい、そのため石膏のように血のけのない顔が、ぞっとするほどすさまじくみえる。半ばひらいている眼はうつろで、なにを見ているともなく、浅く短い呼吸をするたびに、元結の切れたさんばら髪の幾筋かが、かすかに、一定のまをおいて揺れていた。
「弓町の助二郎だな」という男の声を、栄二はおぼろげに聞いた、「おまえはいつも少し度がすぎる、どういう仔細だ」
侍だな、と栄二はぼんやりと思った。侍の口ぶりだ、与力か同心だな。――どういう仔細だときかれて、相手の助二郎はくどくどとなにか説明した。しゃがれ声の低い早くちで、栄二にはよく聞えなかったし、また聞きたいという気持もなかった。――なんとでもなれ、どうにでもしろ。そんなことを、はっきりしない意識の中で繰返し呟き続けていた。
「とにかく繩を解いて火にあたらせろ」と侍の声が云った、「そのままで置いたらこごえ死んでしまうぞ」
栄二は抱き起こされた。繩が解かれ、二人に抱えられて火の側へいったが、火のあたたかみが感じられるまでには、かなり暇がかかった。これもあとでわかったことだが、目明しを叱っていたのは町廻り与力の青木功之進と、同心の安井友右衛門、それに下役の岡村次兵衛という三人で、見廻りの途中ここへ立ち寄ったのであった。
下役の岡村が手拭を湯に浸して、栄二の顔や手足を拭き、裂けた唇や傷のできているところには、膏薬を塗ってくれた。傷にさわられるときだけ、栄二の顔は痛そうにしかめられたが、そのほかのときは痴呆のように無表情であり、誰の顔をも見ないし、なにをきかれても答えなかった。――本町の鳶頭から目明しの助二郎がどんな話を聞いたか、それを青木功之進にどう告げたか、栄二はまったく知らなかったが、訊問する青木の口ぶりから察すると、栄二は住所も名も職も云わず、本町の綿文でゆすりをはたらいた、ということになっているようであった。
「見たところ、そのような人間とは思えない」と青木は云った、「おれは町廻り与力の青木功之進という者だ、これにはなにかわけがあるように考えられるが、申すことはないのか」
栄二は答えなかった。青木は待った。
「あの店には火をつけてやる」と栄二は喉声で独り言を云った、「三人の火消し人足は殺してやる、それから、あとの岡っ引二人もだ」
腫れあがった唇のあいだからの呟きで、はっきりしてはいないが、青木の耳には聞えたのだろう、彼は眼を細めて栄二を見た。青木功之進は二十七か八、痩せがたで背丈が高く、細おもての浅黒い顔は、際立って目鼻がはっきりしていた。いかにも自制心と意志の強さを示しているような顔つきであった。
「住居があり、身許引受人がいるなら、このまま帰してやろう」と青木は忍耐づよく云った、「住居はどこだ」
栄二は答えなかった。
「黙っていてはなにもわからない、どうしても返答をしないなら、奉行所へ曳いてゆかなければならないぞ」
だが栄二は答えなかった。
「目明しが手荒なことをしたようだ、それではらを立てているのだろうが」と青木はなお穏やかに云いきかせた、「よく聞くがいい、役目で不審な者をしらべるには、来客をもてなすようなわけにはいかない、多少の違いはあっても、いずれは手荒な手段をとらなければならないだろう、おまえが強情を張れば張るほど余罪ありと疑われ、やがては牢問いにもかけられなければならない、そこをよく思案したうえ、仔細を残らず話したらどうだ」
栄二の着物から湯気がたちはじめ、躯にあたたかみが感じられると、全身の筋肉や骨のふしぶしが、熱をもったように痛みだした。ちくしょう綿文のやつら、あの火消し人足、それから岡っ引め、みんなぶち殺してくれるぞ。たとえ三十年が五十年かかっても、必ずみんなぶち殺してやるぞ、と栄二は躯じゅうの痛みにかけて誓うように、心の中で思った。
「ではやむを得ない」やがて青木は太息をつきながら云った、「奉行所へいって吟味するとしよう」
そして番太の老人に、駕籠を呼んでやれ、と命じた。
栄二は駕籠にのせられて、北町奉行所へ連れてゆかれ、仮牢へ入れられた。牢へ入れるには町奉行の許可を必要とするが、青木は役所詰の与力で又左衛門という者と話しあい、空いている仮牢へ入れたのであった。又左衛門の姓はやはり青木であり、功之進の一族でとしも四十五歳、北の奉行所では上席与力の一人であった。――栄二はこれらのことには無関心だった。むろん牢舎のことなどはなにも知らないし、そこが北町奉行所だということさえ知らなかった。彼は自分の中にかたく閉じこもって、外からはなにものも入れまいと思った。世間ぜんたいが敵だ、これを忘れてはいけない。金持は金の力で、役人は権力で、罪のない者を罪人にすることができる。自分のように金もなく権力もない者には、かれらに対抗することはできない。これが事実なんだ、と彼は思った。すると、怒りがまたつきあげてきた。
栄二はあたりを見まわした。三方が板壁、廊下に面した方が牢格子になっている。つきあげてくる怒りでめまいがしそうになり、そのがっちりとした牢格子が、遠のいたり近よったりするように見えた。
「ちくしょう」栄二は劈くように叫ぶと、急に立ちあがった、「おれをここから出せ」
彼は牢格子へ激しく躰当りをくれた。肉や骨にするどい痛みを感じたが、狂ったように二度、三度と躯を叩きつけ、両手で牢格子を力の限りゆすぶった。
「おれを出しゃあがれ」と彼は叫び続けた、「きさまたち一人残らず叩っ殺してくれるぞ」