← Library‹ さぶ 六の二

次郎吉じろきちは松田まつだ権蔵ごんぞうのうしろへまわり込こもうとしたが、松田まつだは捉つかまえていた手てで、反対はんたいに彼かれを栄二えいじのほうへ押おしやった。

「乱暴らんぼうはならん」と松田まつだはしゃがれ声ごえでどなった、「乱暴らんぼうなことをしてはならん、喧嘩けんかや暴力ぼうりょく沙汰さたは禁きんじられている、人ひとは忍耐にんたいが肝心かんじんだ、こらえ性しょうのない者ものは損そんをするぞ、ええい、そこだぶしゅう、しっかりやれ」

栄二えいじは次郎吉じろきちの頭あたまを左右さゆうから殴なぐった、両手りょうての拳こぶしで力ちからいっぱいに、右みぎから殴なぐり左ひだりから殴なぐった。そのたびに次郎吉じろきちの躯むくろは左ひだりへ右みぎへとよろめいたが、突然とつぜんおかしな悲鳴ひめいをあげてむしゃぶりついてきた。栄二えいじは足あしがらをかけて投なげとばし、馬乗うまのりに押おさえつけて、またその顔かおを左右さゆうから殴なぐりつけた。

「助たすけてくれ」と次郎吉じろきちは泣なき声ごえをあげた、「おら殺ころされちまうよう」

松田まつだが歩あゆみ寄よって、栄二えいじの肩かたを叩たたいた、「もういいだろう、役所やくしょへ知しれるといかん、よしにしろ」

栄二えいじは殴なぐるのをやめ、次郎吉じろきちを押おさえつけたまま荒あらい呼吸こきゅうをしていたが、やがて起おきあがると、そこにいる人ひとたちから逃にげるように、まっ暗くらな中庭なかにわの向むこうへ去さっていった。――長屋ながやの前まえを南みなみのほうへ、病人びょうにん置場おきば、女おんな置場おきばの前まえを通とおりすぎて、護岸ごがん工事こうじをしている水際みずぎわまでゆき、そこの枯草かれくさの上うえへ腰こしをおろした。彼かれは呼吸こきゅうのしずまるまで、じっと眼めをつむっていた。つい五ご、六ろく尺しゃく先さきで、岸きしに寄よせる波なみの、やわらかな囁ささやきが聞きこえ、あるかなきかの微風びふうは潮しおの匂においがした。

「よせばよかった」彼かれはつむっていた眼めをあきながら呟つぶやき、太息といきをついた、「――あんなことをしてなんになる、腰抜こしぬけの、あんな虫むしけらみたようなやつ、唾つばでも吐はきかけてやれば済すんだことじゃないか」

暗くらい海うみのかなたに、夜釣よづりをする舟ふねの灯あかりが水みずに映うつって見みえた。三みつか四よんつだと思おもっていたが、暫しばらくみつめていると、遠とおく近ちかく、停とまったままのや動うごいている灯あかりが、かなりたくさん認みとめられた。

「のぶ公こう、おめえの代かわりに六ろくのやつを痛いためてやったぜ」と栄二えいじは舟ふねの灯あかりを見みまもりながら呟つぶやいた、「あんな腰こしぬけの臆病おくびょう者しゃのために死しぬなんて、おめえの姉あねさんもだらしのねえ人にんだったんだな」

のぶ公こうは負まけなかった。六ろくなどにも負まけなかったし、親おやたちを威おどしさえしたという。あたしたちのように貧乏びんぼうだと、他人たにんより親おやのほうが恐おそろしい場合ばあいもある、とおのぶは云いった。そうかもしれない、親おやのことは自分じぶんは知しらないが、十じゅう年ねんものあいだ「親方おやかた」として尊敬そんけいし、信しんじきっていた芳兵衛よしべえ。奥おくの人ひとたちとさえ親したしくしてきた綿文わたぶん。かれらが実際じっさいには自分じぶんをどう扱あつかったか、――おのぶの姉あねを心中しんじゅうにまで追おい詰つめたのは、彼女かのじょの両親りょうしんとぐうたらな男おとこきょうだいであった。さぶは葛西かさいに実家じっかがあり、祖父そふや父母ふぼやきょうだいがいる、けれども、そこにさぶの生いきる場所ばしょはない。どういうことなんだ、これはどういうことなんだ、と栄二えいじは心こころの中なかで誰だれにともなく問といかけた。

「どうした」と云いう声こえがして、うしろへ近ちかづいて来きた者ものがあった、「後悔こうかいでもしているのか」

赤鬼あかおにだな、と栄二えいじは思おもったが、返辞へんじはしなかった。

「おまえどうしてあのくそ野郎やろうを殴なぐった」と松田まつだは栄二えいじの右側みぎがわに立たったままできいた、「しゃばでなにか恨うらみがあったのか」

「あんたには関係かんけいのねえことです」

「そのせりふはもう聞きいたぞ」と松田まつだはどなり返かえし、ふっと大おおきな息いきを吐はきだしてから、少すこし穏おだやかに云いった、「――部屋へやの者ものの話はなしでは、あのくそ野郎やろうのことを、おまえは女衒ぜげんの六ろくとかって呼よんだそうだが、いったいそれはどういうことだ」

栄二えいじは黙だまっていた。松田まつだはどしんと足踏あしふみをし、よくわからない言葉ことばであくたいをついた。おれはきさまにあのくそ野郎やろうを殴なぐらせてやったんだぞ、あのおべっか野郎やろうはうすぎたねえちくしょうで、あいつのつらを見みるだけでも反吐へどが出でそうになる、だからおめえに殴なぐらせてやったんだ、と松田まつだ権蔵ごんぞうは云いった。それにおれはきさまが気きにいってる、きさまにはひいきのうしろ盾だてがあるそうだが、そんなものにびくびくするおれじゃあねえ、おれは自分じぶんが気きにいってるから、おめえが勝手かってなまねをしても見逭みのがしてるんだ、今夜こんやのことだってもしおれがそうしようと思おもえば、きさまに仕置しおきをすることだってできるんだぞ、なあぶしゅうと云いって、松田まつだはそこへ跼しゃがんだ。

「あのくそ野郎やろうのことを聞きかしてくれ、あの野郎やろうはしゃばになにか余罪よざいがありそうだ」と松田まつだは云いった、「おめえが知しってることを話はなしてくれれば、あの野郎やろうの正せい躰からだを洗あらい出だしてやる、どうだぶしゅう、話はなしを聞きかせねえか」

栄二えいじはなおも黙だまっていて、やがて立たちあがり、そのまま長屋ながやのほうへあるきだした。松田まつだもすぐに立たって追おいつき、うしろから栄二えいじの肩かたを掴つかんだ。

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