次郎吉は松田権蔵のうしろへまわり込もうとしたが、松田は捉まえていた手で、反対に彼を栄二のほうへ押しやった。
「乱暴はならん」と松田はしゃがれ声でどなった、「乱暴なことをしてはならん、喧嘩や暴力沙汰は禁じられている、人は忍耐が肝心だ、こらえ性のない者は損をするぞ、ええい、そこだぶしゅう、しっかりやれ」
栄二は次郎吉の頭を左右から殴った、両手の拳で力いっぱいに、右から殴り左から殴った。そのたびに次郎吉の躯は左へ右へとよろめいたが、突然おかしな悲鳴をあげてむしゃぶりついてきた。栄二は足がらをかけて投げとばし、馬乗りに押えつけて、またその顔を左右から殴りつけた。
「助けてくれ」と次郎吉は泣き声をあげた、「おら殺されちまうよう」
松田が歩み寄って、栄二の肩を叩いた、「もういいだろう、役所へ知れるといかん、よしにしろ」
栄二は殴るのをやめ、次郎吉を押えつけたまま荒い呼吸をしていたが、やがて起きあがると、そこにいる人たちから逃げるように、まっ暗な中庭の向うへ去っていった。――長屋の前を南のほうへ、病人置場、女置場の前を通りすぎて、護岸工事をしている水際までゆき、そこの枯草の上へ腰をおろした。彼は呼吸のしずまるまで、じっと眼をつむっていた。つい五、六尺先で、岸に寄せる波の、やわらかな囁きが聞え、あるかなきかの微風は潮の匂いがした。
「よせばよかった」彼はつむっていた眼をあきながら呟き、太息をついた、「――あんなことをしてなんになる、腰抜けの、あんな虫けらみたようなやつ、唾でも吐きかけてやれば済んだことじゃないか」
暗い海のかなたに、夜釣りをする舟の灯が水に映って見えた。三つか四つだと思っていたが、暫くみつめていると、遠く近く、停ったままのや動いている灯が、かなりたくさん認められた。
「のぶ公、おめえの代りに六のやつを痛めてやったぜ」と栄二は舟の灯を見まもりながら呟いた、「あんな腰ぬけの臆病者のために死ぬなんて、おめえの姉さんもだらしのねえ人だったんだな」
のぶ公は負けなかった。六などにも負けなかったし、親たちを威しさえしたという。あたしたちのように貧乏だと、他人より親のほうが恐ろしい場合もある、とおのぶは云った。そうかもしれない、親のことは自分は知らないが、十年ものあいだ「親方」として尊敬し、信じきっていた芳兵衛。奥の人たちとさえ親しくしてきた綿文。かれらが実際には自分をどう扱ったか、――おのぶの姉を心中にまで追い詰めたのは、彼女の両親とぐうたらな男きょうだいであった。さぶは葛西に実家があり、祖父や父母やきょうだいがいる、けれども、そこにさぶの生きる場所はない。どういうことなんだ、これはどういうことなんだ、と栄二は心の中で誰にともなく問いかけた。
「どうした」と云う声がして、うしろへ近づいて来た者があった、「後悔でもしているのか」
赤鬼だな、と栄二は思ったが、返辞はしなかった。
「おまえどうしてあのくそ野郎を殴った」と松田は栄二の右側に立ったままできいた、「しゃばでなにか恨みがあったのか」
「あんたには関係のねえことです」
「そのせりふはもう聞いたぞ」と松田はどなり返し、ふっと大きな息を吐きだしてから、少し穏やかに云った、「――部屋の者の話では、あのくそ野郎のことを、おまえは女衒の六とかって呼んだそうだが、いったいそれはどういうことだ」
栄二は黙っていた。松田はどしんと足踏みをし、よくわからない言葉であくたいをついた。おれはきさまにあのくそ野郎を殴らせてやったんだぞ、あのおべっか野郎はうすぎたねえちくしょうで、あいつのつらを見るだけでも反吐が出そうになる、だからおめえに殴らせてやったんだ、と松田権蔵は云った。それにおれはきさまが気にいってる、きさまにはひいきのうしろ盾があるそうだが、そんなものにびくびくするおれじゃあねえ、おれは自分が気にいってるから、おめえが勝手なまねをしても見逭してるんだ、今夜のことだってもしおれがそうしようと思えば、きさまに仕置をすることだってできるんだぞ、なあぶしゅうと云って、松田はそこへ跼んだ。
「あのくそ野郎のことを聞かしてくれ、あの野郎はしゃばになにか余罪がありそうだ」と松田は云った、「おめえが知ってることを話してくれれば、あの野郎の正躰を洗い出してやる、どうだぶしゅう、話を聞かせねえか」
栄二はなおも黙っていて、やがて立ちあがり、そのまま長屋のほうへあるきだした。松田もすぐに立って追いつき、うしろから栄二の肩を掴んだ。