← Library‹ さぶ 六の三

「待まて、この野郎やろう」松田まつだはそうどなると、肩かたを掴つかんだ手てで栄二えいじの躯むくろを自分じぶんのほうへ向むかせ、平手ひらてで頬ほおを殴なぐった、「きさまおれをなめてるな」

栄二えいじは躯むくろの力ちからをぬき、両手りょうてを垂たれたまま松田まつだの顔かおをみつめた。松田まつだはもういちど殴なぐろうとして手てをあげたが、栄二えいじのようすをなんと思おもったか、あげた手てをゆっくりおろし、掴つかんでいた肩かたを押おしやった。

「きさまは癪しゃくに障さわる野郎やろうだ」と松田まつだはくいしばった歯はのあいだから云いった、「せっかくこのおれが、――ええいくだらねえ」彼かれは足踏あしぶみをして喚わめいた、「いいからうせやがれ」

栄二えいじは長屋ながやへ帰かえった。

もっこ部屋へやの人足にんそくたちは、みな栄二えいじにいちもくおくようになった。次郎吉じろきちの六ろくは栄二えいじの眼めにつくことを恐おそれ、部屋へやにいるときはもちろん、仕事場しごとばがいっしょになりでもすると、できる限かぎり栄二えいじからはなれようとするし、いつも肩かた腰こしをちぢめているというふうにみえた。――これらの中なかで一人ひとり、若わかい小頭こがしらの才さい次つぎだけはそうではなかった。彼かれはあからさまな反感はんかんを栄二えいじに示しめし、仕事しごとの割振わりふりにも、仕事しごとをしているときでも、栄二えいじにだけ特とくにきびしく当あたった。その眼めつきや態度たいどには、「さあどうだ、これでもねをあげないか」という意味いみが露骨ろこつにあらわれていた。

周囲しゅういのこういう変化へんかに対たいして、栄二えいじはなんの反応はんのうも示しめさなかった。女衒ぜげんの六ろくにも二に度どと眼めを向むけず、誰だれとも口くちをきかず、自分じぶんの中なかへ固かたく閉とじこもっていた。才さい次つぎがどんな意地いじの悪わるいことをしても、決けっして反抗はんこうするようなことはなかったが、それは屈服くっぷくしているのではなく、無視むししているのだというようすが誰だれにでもわかった。それが才さい次つぎをいっそう苛立いらだたせ、怒いかりに駆かりたてたのだろう、護岸ごがん工事こうじが終おわりに近ちかくなった或ある日ひ、がまんをきらした彼かれは栄二えいじに挑いどみかかった。栄二えいじが石垣いしがきに組くむ石いしを運はこんでいたときで、それは角かどを欠かいた五ご貫かんめほどのみかげ石いしだったが、栄二えいじは刺子さしこの布ぬの切きれを当あてた肩かたに担かつぎ、両手りょうてで押おさえてあるいていると、うしろから才さい次つぎが来きて、両手りょうてで背中せなかを突つきとばした。栄二えいじは前まえへのめり、肩かたから落おちる石いしを抱かかえるようなかたちで、転倒てんとうした。

「野郎やろうどうした」と才さい次つぎがどなりつけた、「そんなちっぽけな石いしも満足まんぞくに担かたげねえのか、怠なまけると承知しょうちしねえぞ」

栄二えいじは振ふり向むいて才さい次つぎを見みあげ、それからゆっくりと立たちあがった。まだねぼけている者ものが起おきあがるような、極きわめて緩慢かんまんな動作どうさだったが、起おきあがって、手てに付ついた泥どろをはたくかとみえた瞬間しゅんかん、拳こぶしにした右手みぎての肱ひじをうしろへひき、それを力ちからいっぱい才さい次つぎの顔かおへ叩たたき込こんだ。その打撃だげきはすばやく、的確てきかくに才さい次つぎの鼻柱はなばしらに当あたり、才さい次つぎがよろめくところを、栄二えいじは身みを跼かがめ、相手あいての胸むねへ烈はげしい頭突ずづきをくれた。才さい次つぎは仰向あおむけに倒たおれ、片手かたてで鼻はなを押おさえてなにか喚わめきながら、躯むくろをくの字じなりにして起おきあがろうとした。その顔かおを栄二えいじは踏ふみつけ、避さけようとするところを蹴あげた。そのやりかたには少すこしの遠慮えんりょも仮借かしゃくもなかった。草鞋わらじばきの足あしで相手あいての顔かおや胸むねを踏ふみにじり、そして蹴あげては踏ふみにじった。

「もうよせよ、あにい」金太きんたがうしろから、栄二えいじを羽交はがい絞しめにして引ひきはなした、「頼たのむからよしてくんな、おめえ小頭こがしらを殺ころしちまうぜ」

才さい次つぎは血ちと泥どろにまみれた顔かおをのけぞらし、地面じめんの上うえへ仰向あおむけにのびたまま、気きでも失うしなったように、口くちをあいて喘あえいでいた。

「はなせよ」と栄二えいじが金太きんたに云いった、「みっともねえから放はなしてくれ」

向むこうから人ひと見張みはり役やくの小島こじま良りょう二郎じろうが、六ろく尺しゃく棒ぼうを持もって走はしって来きた。それを見みると、この騒さわぎを眺ながめていた人足にんそくたちはすばやく散ちってゆき、栄二えいじも地面じめんに落おちていた刺子さしこの布ぬの切きれを拾ひろって肩かたに掛かけ、転ころげている石いしを担かつぎあげた。

「これはなにごとだ」駆かけつけた小島こじまはあまったるい声こえで云いった、「誰だれだ、こんな乱暴らんぼうなまねをしたのは、誰だれがこんなことをしたのか、誰だれだ」

人足にんそくたちはそれぞれの仕事しごとにかかっていて、小島こじまの呼よびかけに答こたえる者ものはなかった。他ほかの二人ふたりの小頭こがしら、伝七でんしちと倉くら太ふとしが工事こうじ場じょうの端はしのほうにいるのを認みとめ、小島こじまはそっちへいって事情じじょうを糺ただした。二人ふたりはなにも知しらなかったというようすで、小島こじまといっしょにこっちへ来き、三さん人にんがかりで才さい次つぎをはこび去さった。「強つええんだな、あにい」と三十さんじゅうがらみになる人足にんそくの一人ひとりが栄二えいじに云いった、「やるんならあにいみてえに思おもいっきりやらなくちゃあいけねえ、久ひさしぶりに胸むねがすうっとしたぜ」

栄二えいじはその男おとこを見みもせず、なにも聞きこえなかったように黙だまって石いしを運はこんでいた。人足にんそくたちは感嘆かんたんと恐おそれの入いり混まじった眼めつきで、ちらちらと栄二えいじをぬすみ見みていたが、ただ一人ひとり、与平よへいという男おとこだけは悲かなしげな顔かおつきで、ときどき栄二えいじを見みては首くびを振ふっていた。それはあたかも、可哀かわいそうに、あんなことをしなければよかったのに、とでも云いっているような感かんじにみえた。

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