「待て、この野郎」松田はそうどなると、肩を掴んだ手で栄二の躯を自分のほうへ向かせ、平手で頬を殴った、「きさまおれをなめてるな」
栄二は躯の力をぬき、両手を垂れたまま松田の顔をみつめた。松田はもういちど殴ろうとして手をあげたが、栄二のようすをなんと思ったか、あげた手をゆっくりおろし、掴んでいた肩を押しやった。
「きさまは癪に障る野郎だ」と松田はくいしばった歯のあいだから云った、「せっかくこのおれが、――ええいくだらねえ」彼は足踏みをして喚いた、「いいからうせやがれ」
栄二は長屋へ帰った。
もっこ部屋の人足たちは、みな栄二にいちもくおくようになった。次郎吉の六は栄二の眼につくことを恐れ、部屋にいるときはもちろん、仕事場がいっしょになりでもすると、できる限り栄二からはなれようとするし、いつも肩腰をちぢめているというふうにみえた。――これらの中で一人、若い小頭の才次だけはそうではなかった。彼はあからさまな反感を栄二に示し、仕事の割振りにも、仕事をしているときでも、栄二にだけ特にきびしく当った。その眼つきや態度には、「さあどうだ、これでもねをあげないか」という意味が露骨にあらわれていた。
周囲のこういう変化に対して、栄二はなんの反応も示さなかった。女衒の六にも二度と眼を向けず、誰とも口をきかず、自分の中へ固く閉じこもっていた。才次がどんな意地の悪いことをしても、決して反抗するようなことはなかったが、それは屈服しているのではなく、無視しているのだというようすが誰にでもわかった。それが才次をいっそう苛立たせ、怒りに駆りたてたのだろう、護岸工事が終りに近くなった或る日、がまんをきらした彼は栄二に挑みかかった。栄二が石垣に組む石を運んでいたときで、それは角を欠いた五貫めほどのみかげ石だったが、栄二は刺子の布切を当てた肩に担ぎ、両手で押えてあるいていると、うしろから才次が来て、両手で背中を突きとばした。栄二は前へのめり、肩から落ちる石を抱えるようなかたちで、転倒した。
「野郎どうした」と才次がどなりつけた、「そんなちっぽけな石も満足に担げねえのか、怠けると承知しねえぞ」
栄二は振り向いて才次を見あげ、それからゆっくりと立ちあがった。まだねぼけている者が起きあがるような、極めて緩慢な動作だったが、起きあがって、手に付いた泥をはたくかとみえた瞬間、拳にした右手の肱をうしろへひき、それを力いっぱい才次の顔へ叩き込んだ。その打撃はすばやく、的確に才次の鼻柱に当り、才次がよろめくところを、栄二は身を跼め、相手の胸へ烈しい頭突きをくれた。才次は仰向けに倒れ、片手で鼻を押えてなにか喚きながら、躯をくの字なりにして起きあがろうとした。その顔を栄二は踏みつけ、避けようとするところを蹴あげた。そのやりかたには少しの遠慮も仮借もなかった。草鞋ばきの足で相手の顔や胸を踏みにじり、そして蹴あげては踏みにじった。
「もうよせよ、あにい」金太がうしろから、栄二を羽交い絞めにして引きはなした、「頼むからよしてくんな、おめえ小頭を殺しちまうぜ」
才次は血と泥にまみれた顔をのけぞらし、地面の上へ仰向けにのびたまま、気でも失ったように、口をあいて喘いでいた。
「はなせよ」と栄二が金太に云った、「みっともねえから放してくれ」
向うから人見張役の小島良二郎が、六尺棒を持って走って来た。それを見ると、この騒ぎを眺めていた人足たちはすばやく散ってゆき、栄二も地面に落ちていた刺子の布切を拾って肩に掛け、転げている石を担ぎあげた。
「これはなにごとだ」駆けつけた小島はあまったるい声で云った、「誰だ、こんな乱暴なまねをしたのは、誰がこんなことをしたのか、誰だ」
人足たちはそれぞれの仕事にかかっていて、小島の呼びかけに答える者はなかった。他の二人の小頭、伝七と倉太が工事場の端のほうにいるのを認め、小島はそっちへいって事情を糺した。二人はなにも知らなかったというようすで、小島といっしょにこっちへ来、三人がかりで才次をはこび去った。「強えんだな、あにい」と三十がらみになる人足の一人が栄二に云った、「やるんならあにいみてえに思いっきりやらなくちゃあいけねえ、久しぶりに胸がすうっとしたぜ」
栄二はその男を見もせず、なにも聞えなかったように黙って石を運んでいた。人足たちは感嘆と恐れの入り混じった眼つきで、ちらちらと栄二をぬすみ見ていたが、ただ一人、与平という男だけは悲しげな顔つきで、ときどき栄二を見ては首を振っていた。それはあたかも、可哀そうに、あんなことをしなければよかったのに、とでも云っているような感じにみえた。