← Library‹ さぶ 一の三

「陰気いんきじゃない」とその女おんなは云いった、「誰だれもいないの」

「いいんだ」と栄二えいじがそっぽを向むいたままで云いった、「酌しゃくはいらないんだ」

「お通夜つやみたい」と女おんなが云いった、「それとも人ひとに聞きかせられないような悪わるい相談そうだんでもするの」

栄二えいじが振ふり向むいて「うるせえな」と云いった。女おんなはちょっと笑わらいかけたが、栄二えいじの眼めを見みると顔かおをひきしめ、ごめんなさい、と低ひくい声こえで云いって障子しょうじを閉しめた。女おんなが笑わらったとき、また八重歯やえばが覗のぞき、それが栄二えいじの眼めに残のこった。

三さん月がつ一日ついたちには栄二えいじは休やすめなかった。日本橋にほんばし本町ほんちょうの綿文わたぶんという大おおきな両替商りょうがえしょうで、客きゃく座敷ざしきの襖ふすまを張はり替かえるのに、紙かみ合あわせと下見したみのため、兄弟きょうだい子しの多た市しといっしょにでかけたのである。綿めん文ぶんも芳かおる古こ堂どうにとっては古ふるいとくいで、一いち年ねんに一いち度どは襖ふすまの張替はりかえをする。栄二えいじは十じゅう三さんの年としから毎年まいとし、多た市しや重じゅう七ななたちの下廻したまわりでゆき、家族かぞくや召使めしつかいたちとも顔馴染かおなじみになっていた。――主人しゅじんの徳兵衛とくべえは肥こえていて躯むくろが大おおきく、いつでも酒臭さけくさい息いきをして、店みせへは殆ほとんど出でず骨董こっとういじりや俳諧はいかいに凝こっていた。妻女さいじょはおみよといって、躯むくろも細ほそくて小柄こがらだし、顔かおもちまちまとして、大店おおだなの主婦しゅふというより、横丁よこちょうあたりのおかみさんのような感かんじであった。男おとこの子こはなく、おきみ、おそのという娘むすめが二人ふたり、としは二ふたつ違ちがいで、どちらも評判ひょうばんのきりょうよしだが、姉あねは父親ちちおやに似にてゆったりした躯むくろつきだし、性質せいしつものんびりしていた。妹いもうとは痩やせがたで顔かおも細ほそく、ませた口くちをきくし、することがすばしこかった。

綿めん文ぶんは角店かどみせで、土蔵どぞうが二に戸こ前まえ。二に階かい造つくりの店みせとはべつに、中庭なかにわを隔へだてて、平屋ひらや建だての住居じゅうきょがあった。住居じゅうきょのほうは横よこに門もんがあり、正面しょうめんが玄関げんかん。右みぎへ火除ひよけ用ようの厚あつい土塀どべいに沿そって廻まわると、向むこうに屋根やねを掛かけた釣瓶つるべ井戸いどがあり、その手前てまえの左側ひだりがわに勝手口かってぐちがあった。炊事すいじ場じょうではなく、家族かぞくや内ない客きゃくや、諸しょ商人しょうにん、職人しょくにんなどの出入でいりするところで、客きゃくの多おおい家いえだから下足げそく番ばんを兼かねた小僧こぞうが一人ひとり、あがり端はなの六ろく帖じょうで小粒こつぶ金きんや小判こばんのはいった麻袋あさぶくろを、板いたの上うえで叩たたいていた。袋ふくろをあげては板いたへ落おとす、という単調たんちょうでまのぬけた動作どうさであるが、そうやっていると、微量びりょうの金きんが麻袋あさぶくろに付つくので、一定いっていの期間きかんをおいて袋ふくろを焼やけば、溜たまった金屑きんくずがとれるのだという。役人やくにんにみつかっては悪わるいから店みせではやらないのだろうが、両替りょうがえ商しょうならどこでもすることだそうで、栄二えいじはそれを聞きいたとき、こんな大店おおだなのくせにけちなことをするものだと、ひどく軽蔑けいべつしたものであった。

見本みほんの紙かみの包つつみを持もって、多た市しと二人ふたり、座敷ざしきへとおされると、十じゅう五、六ごろくになる中なか働はたらきのおすえが茶ちゃと菓子かしを持もって来きた。――栄二えいじは一昨いっさく年ねんと去年きょねんはこの家いえへ来こなかったが、三さん年ねんまえまでは毎年まいとし来きていて、二人ふたりの娘むすめたちとも親したしかったし、おすえともよく知しっていた。

「暫しばらくね、栄さかえさん」とおすえは多た市しに挨拶あいさつしてから栄二えいじを見みた、「ずいぶん大おおきくなったじゃありませんか、あたし初はじめはちょっと見違みちがえちゃったわ」

「よせよ」と云いって多た市しが笑わらった、「可哀かわいそうにこれでもはたちになったんだぜ」

「ごめんなさい」おすえは赤あかくなった、「あたし立派りっぱになったっていうつもりだったのに、つい口くちがすべっちゃったんです」

栄二えいじも赤あかくなったが、おすえのほうへは眼めも向むけなかった。

「おすえちゃんは幾いくつになった」

「十じゅう六ろくです」とおすえは多た市しに答こたえた、「躯むくろが小ちいさいから十じゅう二、三にさんにしきゃみえないって、よくみんなにからかわれるんですよ、恥はずかしい」

廊下ろうかに人ひとが立たち、こっちを覗のぞきこんだ。この家いえの姉娘あねむすめであるが、そこへまた一人ひとり、妹娘いもうとむすめが通とおりかかって、姉あねのうしろから首くびだけ出だして覗のぞき、あら栄さかえちゃんだわと云いった。姉あねはそこを動うごかなかったが、妹いもうとのおそのは座敷ざしきへとびこんで来き、栄二えいじの前まえにばたんと坐すわって、大おおきな眼めでじっと彼かれをみつめた。おすえは会釈えしゃくをして出でてゆき、栄二えいじが眼めの隅すみでそのうしろ姿すがたをちらっと見みた。

「まあおどろいた、あんた栄さかえちゃんじゃないの」とおそのが顔かおを輝かがやかせながら云いった、「大おおきくなったわね、びっくりしちゃったわ」

多た市しが唇くちびるだけで笑わらった、「いまそれを云いわれたばかりなんですよ」

「栄さかえちゃん」とおそのは多た市しには構かまわず、栄二えいじの眼めをみつめたままで云いった、「あたし誰だれだかわかって」

「おそのさんですよ」と栄二えいじは答こたえた、「何なん年ねんも会あわなかったわけじゃない、たった二に年ねんここへ来こなかっただけじゃありませんか」

「あたしも大おおきくなったでしょ」

「こんちは」と栄二えいじは廊下ろうかにいるおきみに呼よびかけた、「暫しばらくでした」

おきみはおっとりと頷うなずいて、いらっしゃいと、ゆっくり云いった。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%