「陰気じゃない」とその女は云った、「誰もいないの」
「いいんだ」と栄二がそっぽを向いたままで云った、「酌はいらないんだ」
「お通夜みたい」と女が云った、「それとも人に聞かせられないような悪い相談でもするの」
栄二が振り向いて「うるせえな」と云った。女はちょっと笑いかけたが、栄二の眼を見ると顔をひきしめ、ごめんなさい、と低い声で云って障子を閉めた。女が笑ったとき、また八重歯が覗き、それが栄二の眼に残った。
三月一日には栄二は休めなかった。日本橋本町の綿文という大きな両替商で、客座敷の襖を張り替えるのに、紙合せと下見のため、兄弟子の多市といっしょにでかけたのである。綿文も芳古堂にとっては古いとくいで、一年に一度は襖の張替えをする。栄二は十三の年から毎年、多市や重七たちの下廻りでゆき、家族や召使たちとも顔馴染になっていた。――主人の徳兵衛は肥えていて躯が大きく、いつでも酒臭い息をして、店へは殆んど出ず骨董いじりや俳諧に凝っていた。妻女はおみよといって、躯も細くて小柄だし、顔もちまちまとして、大店の主婦というより、横丁あたりのおかみさんのような感じであった。男の子はなく、おきみ、おそのという娘が二人、としは二つ違いで、どちらも評判のきりょうよしだが、姉は父親に似てゆったりした躯つきだし、性質ものんびりしていた。妹は痩せがたで顔も細く、ませた口をきくし、することがすばしこかった。
綿文は角店で、土蔵が二戸前。二階造りの店とはべつに、中庭を隔てて、平屋建ての住居があった。住居のほうは横に門があり、正面が玄関。右へ火除け用の厚い土塀に沿って廻ると、向うに屋根を掛けた釣瓶井戸があり、その手前の左側に勝手口があった。炊事場ではなく、家族や内客や、諸商人、職人などの出入りするところで、客の多い家だから下足番を兼ねた小僧が一人、あがり端の六帖で小粒金や小判のはいった麻袋を、板の上で叩いていた。袋をあげては板へ落す、という単調でまのぬけた動作であるが、そうやっていると、微量の金が麻袋に付くので、一定の期間をおいて袋を焼けば、溜った金屑がとれるのだという。役人にみつかっては悪いから店ではやらないのだろうが、両替商ならどこでもすることだそうで、栄二はそれを聞いたとき、こんな大店のくせにけちなことをするものだと、ひどく軽蔑したものであった。
見本の紙の包みを持って、多市と二人、座敷へとおされると、十五、六になる中働きのおすえが茶と菓子を持って来た。――栄二は一昨年と去年はこの家へ来なかったが、三年まえまでは毎年来ていて、二人の娘たちとも親しかったし、おすえともよく知っていた。
「暫くね、栄さん」とおすえは多市に挨拶してから栄二を見た、「ずいぶん大きくなったじゃありませんか、あたし初めはちょっと見違えちゃったわ」
「よせよ」と云って多市が笑った、「可哀そうにこれでもはたちになったんだぜ」
「ごめんなさい」おすえは赤くなった、「あたし立派になったっていうつもりだったのに、つい口がすべっちゃったんです」
栄二も赤くなったが、おすえのほうへは眼も向けなかった。
「おすえちゃんは幾つになった」
「十六です」とおすえは多市に答えた、「躯が小さいから十二、三にしきゃみえないって、よくみんなにからかわれるんですよ、恥ずかしい」
廊下に人が立ち、こっちを覗きこんだ。この家の姉娘であるが、そこへまた一人、妹娘が通りかかって、姉のうしろから首だけ出して覗き、あら栄ちゃんだわと云った。姉はそこを動かなかったが、妹のおそのは座敷へとびこんで来、栄二の前にばたんと坐って、大きな眼でじっと彼をみつめた。おすえは会釈をして出てゆき、栄二が眼の隅でそのうしろ姿をちらっと見た。
「まあおどろいた、あんた栄ちゃんじゃないの」とおそのが顔を輝かせながら云った、「大きくなったわね、びっくりしちゃったわ」
多市が唇だけで笑った、「いまそれを云われたばかりなんですよ」
「栄ちゃん」とおそのは多市には構わず、栄二の眼をみつめたままで云った、「あたし誰だかわかって」
「おそのさんですよ」と栄二は答えた、「何年も会わなかったわけじゃない、たった二年ここへ来なかっただけじゃありませんか」
「あたしも大きくなったでしょ」
「こんちは」と栄二は廊下にいるおきみに呼びかけた、「暫くでした」
おきみはおっとりと頷いて、いらっしゃいと、ゆっくり云った。