そこへ主人の徳兵衛がはいって来、多市が紙見本をひろげた。徳兵衛は相変らず酒臭い息をしていた。
「ちょっと来てよ、栄ちゃん」とおそのが云った、「あんたに見せたいものがあるのよ」
「そのちゃん」と廊下でおきみが云った。
「ねえ、お父っさんいいでしょ」とおそのが父親に鼻声で云った、「栄ちゃんにちょっと見せたいものがあるのよ、あっちへ来てもらってもいいわね」
姉がまた「そのちゃんったら」とたしなめ、徳兵衛は無関心に手を振って、「うるさい、好きなようにしろ」と云った。栄二は救いを求めるように多市を見たが、多市は笑いもせずに、顎をしゃくって、ゆけよ、という表情をした。
「さあ、栄ちゃん」とおそのは彼の手を取った、「ねえ、早く」
あのころのままだな、と栄二は思った。兄弟子たちとここへ仕事に来ると、必ずこの姉妹につかまって遊び相手をさせられた。襖を張り替えるのは毎年十二月だから、かるたとか追い羽根とか、お手玉、おはじきなど、たあいのないものだし、女の子の遊び相手をするなど屈辱さえ感じたものだ。けれども大事なとくい先のことではあり、兄弟子たちがそうしろと云うので、断わるわけにはいかず、しぶしぶつきあっているうちに、どの遊びでも彼がいちばん上手になり、勝気なおそのはくやしがってよく泣いたものであった。
伴れてゆかれたのは姉妹の部屋で、箪笥がそれぞれ二棹ずつに、人形などを置いた飾り棚、琴、三味線、茶道具を入れる茶箪笥、朱塗の衣桁など、みな娘の居間らしい華やかな色と、香料の匂いがあふれていた。
「あたし十六になったでしょ」とおそのが自分の箪笥の前に膝をつきながら云った、「――それでね、また友禅の振袖を作ってもらったのよ、きれいよう」
そして抽出の一つをあけ、中からその品を取り出して、さも大切そうに両手で持って栄二に渡した。
「ひろげてみてよ」とおそのが云った、「四季の千草って云う柄なの、京の田丸屋で染めさしたのよ」
「あたしのは裾模様よ」と姉のおきみが二人の脇から云った、「あたしのも見せてあげるわ」
「あとで」とおそのがきめつけた、「姉さんてばいつでもあたしのまねばかりするのね、邪魔しないでよ」
栄二は着物をひろげてみて、きれいだなと云った。これだけ大きな資産家の娘なら、京染めの友禅ぐらいなんでもないだろうのに、わざわざ人を呼んで見せるところに、この姉妹の気取らない、下町っ子らしい開放的な性質がよくあらわれていた。
妹に決めつけられた姉のおきみは、きげんを悪くするでもなく、そろそろと自分の箪笥をあけた。その裾模様というのを出すつもりであろう、けれどもおそのはそれより早く、こんどは帯を見せてあげる、と云いながら、下の抽出をあけたとたん、悲鳴をあげてとびあがり、両手で栄二に抱きついた。
「こわい」とおそのは栄二にしがみつきながら叫んだ、「鼠よ、鼠がいるのよ」
おきみも吃驚してうしろへさがり、栄二はおそのの腕を放そうとした。だがしがみついたおそのの力はおどろくほど強く、すぐにはふり放すことができなかった。
「放さなくっちゃだめだ」と栄二が云った、「それじゃあ鼠が追えやしないよ」
「いや、こわい」とおそのはもっと腕に力をいれた、「あたし息が止りそうよ」
「鼠を追っぱらうんだから」栄二はようやく躯を自由にし、おそのを押しやった、「さあおきみさんもどいてください」
そして、その抽出の中を覗いてみたが、鼠のいるようすはなかった。手を入れて、重ねてある帯の片方をつぎつぎとあげ、底までさぐってみたけれども、鼠どころか虫一疋もみあたらなかった。栄二は抽出の中を元のようにして立ちあがり、おそのの顔をにらんだ。おきみは両手で胸を抱え、怯えたような表情で栄二を見あげていた。
「ほんとよ、嘘つかない」とおそのは栄二の眼を眩しそうに避けて云った、「帯を取ろうとしたらすぐそこにしゃがんでいて、あたしのこと食いつこうとしたのよ」
栄二がなにか云おうとしたとき、廊下から名を呼ばれ、振り返るとおすえがいた。
「多市さんが呼んでいます」とおすえはこっちを見ずに云った、「尺取りをするから来て下さいって」
栄二はそれに頷いてから、おそのに向って帯のぎっしり詰っている抽出の中を指さしてみせた。そこにはどんな小さな鼠でもしゃがんでいる余地などはない、ということを示したのであろう。おそのはひょいと肩をすくめて云った。
「でもいたのよ、ほんと、こんなふうにしゃがんで、あたしのこと食いつこうと思って、こんなように歯を剥きだしていたのよ」
おそのはそんなような恰好をしてみせたが、栄二はなにも云わずに出ていった。