もっこ部屋へ帰るとすぐに、あとから小島良二郎が追って来た。小島は風呂敷包みを持っていて、いまの男からおまえに差入れだ、と云った。栄二はその包みを冷たい眼で見たが、あれは自分の知らない人間であり、そんな物を受取る筋はない、と頑固にはねつけた。
「そうか」小島は頷いたが、さぐるような眼で栄二をみつめながら云った、「――しかし念のために云っておくが、あのさぶという男は、おまえの風邪が治ったかどうか、と心配していたぞ」
栄二の表情が動かなくなった。眉も眼も口も、仮面のように動かなくなり、それから急に顔をそむけた。
「それでも知らない人間か」
「知りません」と栄二はかすれたような声で答えた、「見たこともありません」
「それならこの差入れの品は、役所のほうで処分するがいいか」
どうぞいいように、と栄二は答えた。
その夜寝てから、栄二は幾たびも「ばかなやつだ」と呟いた。夜具は五布で三人いっしょに寝る規則だが、人数に対して夜具にゆとりがあるため、三人の小頭と栄二、また女衒の六のほか二人ばかりは、めいめい一人で寝ていた。
「風邪が治ったか、だなんて」栄二は掛夜具を頭までかぶり、囁き声で呟いた、「――あいつは相変らずだ、あのとき風邪をひいてたからって、百日ちかくも経っているのに、治ったかどうかだなんて」
ばかなことを云うやつだ、と呟きながら、彼は掛夜具を掴み、こみあげてくる嗚咽をけんめいにこらえていた。――へんなときに風邪をひいて、くしゃみや水洟に悩まされた。生れて初めて非道なめにあい、悲しみと怒りで身の置場もないような気持でいるとき、くしゃみが出、水洟が出たのだ。芝居でする仁木弾正が、刃傷場でくしゃみをするようなもんだ、栄二はそう思って笑おうとしたが、続いて綿文の座敷が眼にうかんできた。火のけのないあの座敷でくしゃみをしていた自分の姿、それから押込んで来た頭と若い者たち、――そして雪の積りだした道へひきずり出され、二人がかりでぶん殴り、踏んだり蹴ったりされた。次には番小屋で、――こういう回想がなまなましく頭にうかび、全身の血管が怒りでふくれあがるように感じられた。
「ちくしょう」栄二は掛夜具に両手でしがみつきながら歯ぎしりをした、「――どうするかみてやがれ、いまにどうするかみてやがれ」
その数日のち、もっこ部屋の人足たちのうち十七人が、島の外へ仕事に出されるようになった。外稼ぎに出される者は、平生の行状がよく、逃亡のおそれがないと認められた者に限っていた。栄二はその選に入らず、残って他の仕事をしたが、そのため、寄場の中のいろいろな手職や作業を見たり、経験したりした。牡蠣灰を焼くのも楽ではないが、もっとも激しい作業は油絞りで、これにはよほど躰力のすぐれた者でも、長くは続かないということであった。ほかには彫物、竹笠作り、駕籠作り、紙漉き、元結、草履、繩細工、米搗き、大工、左官、百姓、炭団、などという職種があり、もっこ部屋の残された人足たちは、これらの仕事の助け役をするわけで、材料を船からおろしたり、成品を積み込んだり、手のたりないところを手伝ったりするのであった。――栄二は命ぜられたことはしたが、自分からはなにをしようともしなかった。安物の唐紙を作る部屋に五人いて、これはいつも注文に追われているようすだったが、栄二はその仕事だけは手を出さなかった。小頭に命じられ、人見張役にも命じられたが、首を振るだけで決して近よらなかった。その仕事は彼に絶望的な怒りを感じさせるからであった。
「あにい知ってるか」と或るとき金太が云った、「才次のやつは伝馬町へ移されたぜ」
叺に詰めた牡蠣灰を、灰焼場から船へ積み込んでいるときで、二人とも頭から灰だらけになっていた。
「いつのことだ」
「三日めえだ」と金太が云った、「あにいは知らなかったらしいな」
「どうして移された」
「しゃばでやって、隠してたことがばれたらしい」金太はさかしげに云った、「よくわからねえが、なにかでけえことをやらかして、その罪をごまかすためにちっちゃなことをやって寄場へもぐっていたらしい、そんなような話だったよ」
「ような話なんぞするな」と栄二が云った。
「だって才次の野郎はあにいを恨んでたろう」と金太は云った、「いつでも隙があったら喉笛へくらいつきそうな顔をしてたぜ」
「だからどうだってんだ」栄二は叺を担ぎあげながら云った、「おらあそれを待ってたんだぞ」
金太はだらっと口をあいた。