可哀そうに、と栄二は思った。才次とはもういちどやるつもりだった、あのときは自分が先手を取ったけれども、こんどは才次のほうでも用心するだろう、対等で勝ち負けをきめることができる。庇ったり劬ったり、慰めや励ましにはごまかしがある。一度こっちになにか起これば、そんなおためごかしは煙のように消えてしまい、昨日までのえびす顔がいきなり鬼の面に変っちまうんだ。道具袋の中に金襴の切がはいっていたというだけで、十年続いた心と心のつながりが、凧の糸の切れるようにぷつんと切れてしまうんだ。それに比べると、才次がおれをめのかたきにする気持にはごまかしも嘘もない、おれをやっつけてやろうと、隙を覘っている気持はしんけんだ。人間がしんけんに思い詰めるということは、よかれあしかれ本物だし立派だ。こんどこそ対等に、本気であいつとぶっつかることができたんだ。
――それなのにいま、隠していた余罪がばれたという。
本当にそんなことがあったのだろうか、おれがひっかかったように、あいつもまた世間のやつらの罠におとされたんじゃないのか。そうだとすると、あんなひどいことをするんじゃあなかった、と栄二は思った。
それからのち彼はようやく、周囲の人間や出来事を、注意して見るようになった。才次のことがきっかけになり、この寄場にいる人間がみな、世間からのけ者にされた、という事実に気づいたのだ。ここにいるのは自分のなかまなのだ、世間のやつらは敵だが、この寄場にいる者は自分と同じように、世間から痛めつけられ、騙されたりぺてんにかけられたりしたのだ。与平という男は妻や子供たちによって、寄場人足にまで追いおとされた。ほかの者も一人ひとりが、それぞれの暗くおぞましい経験をしたことだろう。
「女衒の六のやつはべつとしてな」と彼は呟いた、「あいつは人間の屑だ、なかまに義理の悪いことをして、江戸から逃げたとおのぶは云ったが、じつは名を変えてこんなところにもぐり込んでいたのだ、人間の屑のやりそうなこった」
次郎吉の六はあれ以来ずっとねをひそめていた。彼も外出の仕事には当てられなかったが、どんなときでも栄二には近よらず、棒の両端が合わないように、いつも遠くはなれていようとした。――いつか才次をやっつけたとき、胸がすっとしたと呼びかけた男があった。その後もおりさえあれば近づこうとする、栄二はずっと相手にならなかったが、男はお構いなしによく話しかけた。彼の名は万吉、としは二十七、「に組」の火消しだったという。喧嘩が好きで、暇なときは両国広小路あたりをねじろに「喧嘩を拾って」あるいた。それで頭からきびしく喧嘩を封じられたのだが、二年まえの九月、辛抱しきれなくなって派手な喧嘩をし、相手の三人にけがをさせたため、頭が怒って勘当になり、この寄場へ送られたのだということであった。万吉はあらゆる物事を、金銭の高で評価する癖があった。
「才次をやっつけたときのよ」と万吉は云う、「あにいの勾配の速さってものは、まず小判一枚の値打ちってとこだな」
今日の天気は十三文だとか、次郎吉の野郎はびた銭一文の値打ちもねえとか、その話には一分払うぜ、などという類で、栄二もわれ知らず笑わされることがあった。
「あにいだけはよしてくれ」と或るとき栄二が云った、「おめえのほうがとし上だろう」
「あにいと舎弟はとしじゃあねえや」と万吉は答えた、「に組の纏持ちで大さんてえあにいがいたが、としはおれより三つも下だった、それがおめえてえした人間でよ、火事のときに纏を持って消し口に立った恰好なんぞ、掛値なしに千両ってとこだったぜ」
それからふと気がついたように、「おめえ初めて口をきいてくれたな、あにい」と云った。――慥かに、それから栄二は少しずつ人と口をきくようになった。もともと口数の少ないほうだったし、好きになれない者には相変らずだが、一人、二人というふうに、挨拶をしあう者が殖えていった。――それを誰よりもよろこんだのは与平であった。彼は出仕事の組に選まれ、島の外へ毎日でかけてゆくが、ときに菓子を買って来たりして、気の合った者二、三人と、茶を啜りながら話すようになった。