← Library‹ さぶ 七の一

可哀かわいそうに、と栄二えいじは思おもった。才さい次つぎとはもういちどやるつもりだった、あのときは自分じぶんが先手せんてを取とったけれども、こんどは才さい次つぎのほうでも用心ようじんするだろう、対等たいとうで勝かち負まけをきめることができる。庇かばったり劬いたわったり、慰なぐさめや励はげましにはごまかしがある。一いち度どこっちになにか起おこれば、そんなおためごかしは煙けむりのように消きえてしまい、昨日きのうまでのえびす顔がおがいきなり鬼おにの面めんに変かわっちまうんだ。道具どうぐ袋ふくろの中なかに金襴きんらんの切きれがはいっていたというだけで、十じゅう年ねん続つづいた心こころと心こころのつながりが、凧たこの糸いとの切きれるようにぷつんと切きれてしまうんだ。それに比くらべると、才さい次つぎがおれをめのかたきにする気持きもちにはごまかしも嘘うそもない、おれをやっつけてやろうと、隙すきを覘ねらっている気持きもちはしんけんだ。人間にんげんがしんけんに思おもい詰つめるということは、よかれあしかれ本物ほんものだし立派りっぱだ。こんどこそ対等たいとうに、本気ほんきであいつとぶっつかることができたんだ。

――それなのにいま、隠かくしていた余罪よざいがばれたという。

本当ほんとうにそんなことがあったのだろうか、おれがひっかかったように、あいつもまた世間せけんのやつらの罠わなにおとされたんじゃないのか。そうだとすると、あんなひどいことをするんじゃあなかった、と栄二えいじは思おもった。

それからのち彼かれはようやく、周囲しゅういの人間にんげんや出来事できごとを、注意ちゅういして見みるようになった。才さい次つぎのことがきっかけになり、この寄場よせばにいる人間にんげんがみな、世間せけんからのけ者ものにされた、という事実じじつに気きづいたのだ。ここにいるのは自分じぶんのなかまなのだ、世間せけんのやつらは敵てきだが、この寄場よせばにいる者ものは自分じぶんと同おなじように、世間せけんから痛いためつけられ、騙だまされたりぺてんにかけられたりしたのだ。与平よへいという男おとこは妻つまや子供こどもたちによって、寄場よせば人足にんそくにまで追おいおとされた。ほかの者ものも一人ひとりひとりが、それぞれの暗くらくおぞましい経験けいけんをしたことだろう。

「女衒ぜげんの六ろくのやつはべつとしてな」と彼かれは呟つぶやいた、「あいつは人間にんげんの屑くずだ、なかまに義理ぎりの悪わるいことをして、江戸えどから逃にげたとおのぶは云いったが、じつは名なを変かえてこんなところにもぐり込こんでいたのだ、人間にんげんの屑くずのやりそうなこった」

次郎吉じろきちの六ろくはあれ以来いらいずっとねをひそめていた。彼かれも外出そとでの仕事しごとには当あてられなかったが、どんなときでも栄二えいじには近ちかよらず、棒ぼうの両端りょうたんが合あわないように、いつも遠とおくはなれていようとした。――いつか才さい次つぎをやっつけたとき、胸むねがすっとしたと呼よびかけた男おとこがあった。その後あともおりさえあれば近ちかづこうとする、栄二えいじはずっと相手あいてにならなかったが、男おとこはお構かまいなしによく話はなしかけた。彼かれの名なは万吉まんきち、としは二十にじゅう七なな、「に組くみ」の火消ひけしだったという。喧嘩けんかが好すきで、暇ひまなときは両国りょうこく広小路ひろこうじあたりをねじろに「喧嘩けんかを拾ひろって」あるいた。それで頭かしらからきびしく喧嘩けんかを封ふうじられたのだが、二に年ねんまえの九きゅう月がつ、辛抱しんぼうしきれなくなって派手はでな喧嘩けんかをし、相手あいての三さん人にんにけがをさせたため、頭あたまが怒おこって勘当かんどうになり、この寄場よせばへ送おくられたのだということであった。万吉まんきちはあらゆる物事ものごとを、金銭きんせんの高たかで評価ひょうかする癖くせがあった。

「才さい次つぎをやっつけたときのよ」と万吉まんきちは云いう、「あにいの勾配こうばいの速はやさってものは、まず小判こばん一いち枚まいの値打ねうちってとこだな」

今日きょうの天気てんきは十じゅう三さん文ぶんだとか、次郎吉じろきちの野郎やろうはびた銭せん一いち文ぶんの値打ねうちもねえとか、その話はなしには一いち分ふん払はらうぜ、などという類たぐいで、栄二えいじもわれ知しらず笑わらわされることがあった。

「あにいだけはよしてくれ」と或あるとき栄二えいじが云いった、「おめえのほうがとし上うえだろう」

「あにいと舎弟しゃていはとしじゃあねえや」と万吉まんきちは答こたえた、「に組くみの纏まとい持もちで大だいさんてえあにいがいたが、としはおれより三みつも下しただった、それがおめえてえした人間にんげんでよ、火事かじのときに纏まといを持もって消けし口くちに立たった恰好かっこなんぞ、掛値かけねなしに千せん両りょうってとこだったぜ」

それからふと気きがついたように、「おめえ初はじめて口くちをきいてくれたな、あにい」と云いった。――慥たしかに、それから栄二えいじは少すこしずつ人ひとと口くちをきくようになった。もともと口数くちかずの少すくないほうだったし、好すきになれない者ものには相あい変かわらずだが、一人ひとり、二人ふたりというふうに、挨拶あいさつをしあう者ものが殖ふえていった。――それを誰だれよりもよろこんだのは与平よへいであった。彼かれは出で仕事しごとの組くみに選えらまれ、島しまの外そとへ毎日まいにちでかけてゆくが、ときに菓子かしを買かって来きたりして、気きの合あった者もの二に、三さん人にんと、茶ちゃを啜すすりながら話はなすようになった。

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