或る夜。与平は、茶を淹れて、駄菓子の袋をあけ、栄二のほかに二人呼んで、世間話を始めた。――寄場人足は月に四百文から一貫文までの賃金が与えられ、必要費があればその半分は自由に使うことができる。残りの半分は役所で預かっておき、島を出るときに渡される、ということはまえに記したが、――そのためここでは、与平のように茶菓のたのしみぐらいはできるのであった。
そのとき茶話に加わった二人は、ご一、伊助という中年者で、どちらも三十四、五だろう、ご一は百姓部屋、伊助は彫物部屋の者であった。
「わしゃあこの寄場へ来てから、もう五年の余になるが」とご一が云った、「――二度と再びしゃばへ戻ろうとは思わねえ、一生ここでくらして、ここで骨になるつもりだよ」
「そうきめたものでもないのさ」と与平が話をひきだすように云った、「火傷をしたからって火を恐れても、生きていくにはやっぱり火がなくっちゃあ済まないもんだよ」
「まあね、火に譬えればそうだろうがね」とご一はゆっくり頷いた、「――どんなとんまな人間でも、やがて火の使いようぐらいは覚えるだろうが、世間のからくりや、悪知恵のある人間にはかなわねえ、牛か馬のようにこき使われて、腰の骨のおっぴしょれるほど働いたあげくが、家も田畑も取られてしまうんだからな」
「珍しくはねえさ」と伊助が独り言のようにぼそぼそと云った、「めいめいが云ったらきりもねえ話だ、世間てえものはそういう仕組みにできてるもんさ、珍しくはねえよ」
「それがさ、当人にはそうじゃないんだな」と与平が云った、「火傷の痛みは火傷をしてみないとわからないらしいし、人によってその痛みも違うらしいんだな、おてんとさまの昇るのを見て胆をつぶすことさえあるんですから」
栄二は心が萎えるように感じた。ご一や伊助がどんなひどいめにあったかは聞くまでもない、男ざかりともいうべきとしで、かれらはもう世間にも、自分の将来にもみきりをつけている。かれらをこんなにも打ちのめすようなからくりが「世の中」を動かしているのだろうか、なんとかいう名奉行は、罪を憎んで人を憎まずと云ったそうであるが、与平が妻を殺そうとしたとき、罪はどちらにあるのか、妻を殺そうとした与平か、それとも与平をそんな気持にさせた妻にあるのか。この寄場は牢ではないと云い、その扱いも牢にいる罪人とは慥かに違うが、いずれにせよ、世間から隔離されるだけの理由があった。自分は一枚の金襴によって、無実の罪に問われ、誰がそんなことをしたか、はっきりさせようとして逆に暴行され、ついにこんなところへ送り込まれた。この場合、罪はいったいどこにあるのか。小さな錺職人が必要に迫られ、小粒金を鋳つぶして材料に使うことがある、みつかれば通用金をつぶした罪で罰せられる。綿文では小僧を使って、殆んど公然と小判を削っている。両替商ならどこでもすることだというが、それが罪にならないのはどういうわけか。――小粒金を鋳つぶした錺職人は、貧しくて地金が買えないからであり、綿文が小判を削るのは、必要からではなく利欲のためだ。しんじつ罪に問われるとしたらどっちなんだ、と栄二は心の中でなに者にともなく反問した。
「おやじが早く死んだので、わしは十一のとしからもう野良仕事をやり始めた」とご一は語っていた、「おふくろのほかに双子の弟二人と、乳呑み児の妹がいた、わしは稼ぎに稼いで、笹藪だらけの荒地を七反歩もおこし、水を引いて田に作った、地主との約束は、もし田に作れたら十年は小作料なしにする、ということだった」
ところがいまから七年まえ、地主から借金の取立てがきた。それは七反歩の新田の小作料に加えて、死んだ父のものだという借金の証文であった。七反歩の小作料は、新田を拓いた年から累算されていたし、二十五両という借用証文は十七年もまえのものであった。
「死んだおやじは明きめくらだったから、証文といっても拇印だけで、それが本当におやじの捺したものかどうかさえ調べることはできない」とご一は呟くように云った、「――また、新田の小作料は十年間無料というのも、口約束だから証拠はない、わしはいろいろな人に相談し、しまいには公事師にも金を使ってみたが、どうしようもないということがわかった」
もともとご一の家の持物だった田地五反歩と、新田の七反歩とは、近在でもっとも良質の米がとれる。それは亡父の丹精とご一の努力によるのだが、地主はその田地が欲しくなったのであった。
「おやじは死ぬまでなにも云わなかったから、二十五両という借金が本当か嘘かはわからない、けれども田地のことはわしが現に知っている」とご一は感情のこもらない口ぶりで続けた、「――十一のとしからまる十八年、新田を拓いてからでも十二年、わしはおふくろと二人の弟とで、腰の骨の折れるほど働いてきた、わしは嫁さえ貰わなかった、それを或る日、地主の差配人が村役人を連れて来て、田畑も家も借金のかたに取る、一家の者はすぐに立退けという、いやおうなしの追いたてだった、そのときわしがどう思ったか、みんなにわかるだろうか」
栄二は低く頭を垂れた。彼は三人に気づかれないように歯噛みをし、両手を拳にして、まるで捻じ込みでもするように膝へ押しつけた。そしてご一がやけになり、地主の屋敷へ放火しようとして捉まった、というところまで聞くと、黙って立って外へ出た。
「まる十八年」彼は南へ向ってあるきながら呟いた、「――まる十八年だぜ、ばかな」
笹藪だらけの荒地を拓くことが、どんなに骨のおれる仕事か栄二は知らない。荒地を拓いて水を引いて、どこよりもいい米のとれる田に仕上げた。嫁も貰わずにまる十八年も働きとおしたのち、持田もろとも新田も、家までも奪い取られた。真偽もわからない古証文一枚と、十年間小作料なしという証文を書かなかったために。――そんなことがあるだろうか、そんな非道なことがおこなわれるのを、まわりの者は黙って見ていたのだろうか。その村にも人間はいたであろうし、ご一の十八年間の苦労も知っていたことだろう。にもかかわらず彼を助ける者はなかったのだろうか。栄二は呻き声をあげた。
空には星がまたたいていたが、あたりは暗く、張番所の障子だけが灯に染まっていた。長屋の前をすぎると女置場がある、その建物は矢来で囲ってあり、男の出入りは禁じられていたが、栄二があるいてゆくと、その矢来囲いの木戸から、黒い人影がぬけ出て、小走りに南の海辺のほうへゆくのが見えた。
「――ああ、あれが」と呟いて栄二は立停った、「あれがおとよというんだな」