← Library‹ さぶ 七の四

栄二えいじが立停たちどまると、万吉まんきちは身みを跼かがめて向むこうをうかがった。雨あめにでもなりそうな空そらもようで、星ほし一ひとつ見みえない闇夜あんやだったが、海うみの上うえには遠とおい、釣舟つりぶねのものらしい灯あかりが、淡あわい橙色だいだいいろにまたたいていた。

「どうした」と栄二えいじが囁ささやいた、「いるのか」

万吉まんきちはまた「しっ」と云いい、足音あしおとを忍しのばせてあるきだしたが、五、六ごろく歩ほいったところで立停たちどまり、そっと前方ぜんぽうを指ゆびさした。雑草ざっそうの伸のびはじめた空地くうちに、腰こしをおろしている人ひとの姿すがたが、闇やみの中なかで黒くろいしみのように見みえた。

「野郎やろうだ」と万吉まんきちが栄二えいじの耳みみへ口くちをよせて囁ささやいた、「こぶだぜ」

するとこちらのけはいを聞ききつけたのか、黒くろい人影ひとかげが動うごいて、おとよか、と呼よびかけてきた。栄二えいじは黙だまってそっちへあゆみ寄よった。引ひき止とめようとしたがまにあわず、万吉まんきちはそのままようすを見みていた。

「おとよか」とまた向むこうの男おとこが云いった。

「そうじゃあねえ」と栄二えいじは答こたえた、「もっこ部屋へやの者ものだ」

相手あいては腰こしをおろしたまま、首くびだけ振ふり向むけて栄二えいじを見みあげた。栄二えいじは腕組うでぐみをし、相手あいての右側みぎがわに立たって海うみを見みやった。

「上あげ潮しおだな」と栄二えいじは呟つぶやいた。

「もっこ部屋へやだって」と男おとこがきいた、「名なはなんていうんだ」

「気きにするな」

「名めいめえをきいてるんだ」

「気きにするなよ」と栄二えいじは云いった、「おらあ海うみを見みに来きただけなんだ」

男おとこは口くちをつぐみ、黙だまって栄二えいじを見みあげていた。まをおいて石垣いしがきを打うつ波なみの音おとが、上あげ潮しおどきのたっぷりした水量すいりょうを感かんじさせ、海うみの遠とおいかなたから、櫓ろの音おとが聞きこえて来きた。

「おれはここで人ひとと逢あうことになってるんだ」と男おとこが暫しばらくして云いった、「おめえがそこにいると邪魔じゃまになるんだがな」

栄二えいじは口くちの中なかで、静しずかな晩ばんだな、と独ひとり言ごとのように呟つぶやいた。男おとこは身動みうごきをした、彼かれがこぶなら殴なぐりかかるだろうと思おもったが、ちょっと身動みうごきをしただけで、男おとこは立たとうともしなかった。栄二えいじは気きが挫くじけてきた。万吉まんきちの話はなしによれば、こぶは手てのつけられない乱暴らんぼう者しゃであり、松造しょうぞうとおとよの仲なかをやっかんで、二人ふたりが逢あうのを覗のぞきに来きて邪魔じゃまをするという。それが事実じじつなら、おれをここから追おい払はらおうとするだろう。けれども彼かれは動うごかないし、その口くちぶりも乱暴らんぼうではなく、むしろ当惑とうわくしているような調子ちょうしだった。

おかしなぐあいだなと思おもい、栄二えいじが男おとこに話はなしかけようとしたとき、小走こばしりに来くる足音あしおとが近ちかづき、清せいさんどこ、と云いう女おんなの声こえが聞きこえた。男おとこは振ふり向むいてここだと答こたえ、闇やみをすかして栄二えいじを見みあげた。いそぎ足あしに来きた女おんなは、そこに栄二えいじのいるのを見みて立停たちどまり、息いきをきらしながら、この人ひとだあれ、と男おとこにきいた。

「もっこ部屋へやの者ものだそうだ」と男おとこが答こたえた、「海うみを見みに来きたんだとよ」

「へんなことをきくようだが」と栄二えいじは腕組うでぐみをした手てをほどきながら男おとこに云いった、「――悪わるかったら堪忍かんにんしてくれ、おまえさんは油絞あぶらしぼりで、こぶっていう仇名あだなで呼よばれる人ひとか」

「そうならどうした」

「そして」栄二えいじは女おんなのほうへ手てを振ふった、「こっちはおとよという人ひとか」

男おとこは立たちあがった。腰こしをおろしているときはわからなかったが、立たちあがったのを見みると、万吉まんきちの話はなしよりはるかに大おおきく、背丈せたけは六ろく尺しゃくゆたかであり、肩かたは雄牛おすうしのように厚あつく、肉にくが盛もり上あがっていた。

「おめえいったいなに者ものなんだ」と男おとこが云いった、「さっきは海うみを見みに来きただけだと云いったが、本当ほんとうはそれだけじゃあねえな」

「悪わるかった、おれが悪わるかった」栄二えいじはそう云いいながらうしろへさがった、「どうやらなにか聞きき違ちがえたらしい、邪魔じゃまはしないよ、おれはもう帰かえるから勘弁かんべんしてくれ」

そしてゆっくり歩あるきだした。

畑はたけのあいだを戻もどってゆくと、どこに隠かくれていたのか、万吉まんきちが出でて来きて肩かたを並ならべた。いまのを聞きいたか、と栄二えいじが云いった。うん聞きいた、わけがわからねえ、と万吉まんきちは首くびを捻ひねった。

「おめえは騙だまされたんだ」

「そんな筈はずはねえんだ」と万吉まんきちが云いった、「松まつつぁんはそんな男おとこじゃあねえんだから」

「いま見みたことはどうだ」

「だからわけがわからねえ」万吉まんきちは首くびをかしげながら云いった、「さっき話はなしたことは松まつつぁんばかりじゃあねえ、あのおとよって女おんなからも聞きいたんだ、あたしたちではどうにもならない、なんとかこぶを近ちかよせないようにはできないものだろうかって」

栄二えいじは振ふり向むいて万吉まんきちを見みた、「それがいまあそこにいた女おんなか」

「おれは幾いくたびも話はなしたことがあるんだ」

栄二えいじはこぶの巨躯きょくと、当惑とうわくしたような口くちぶりを思おもい返かえしながら、おまえはいい男おとこだよ、と万吉まんきちに向むかって云いった。

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