栄二が立停ると、万吉は身を跼めて向うをうかがった。雨にでもなりそうな空もようで、星一つ見えない闇夜だったが、海の上には遠い、釣舟のものらしい灯が、淡い橙色にまたたいていた。
「どうした」と栄二が囁いた、「いるのか」
万吉はまた「しっ」と云い、足音を忍ばせてあるきだしたが、五、六歩いったところで立停り、そっと前方を指さした。雑草の伸びはじめた空地に、腰をおろしている人の姿が、闇の中で黒いしみのように見えた。
「野郎だ」と万吉が栄二の耳へ口をよせて囁いた、「こぶだぜ」
するとこちらのけはいを聞きつけたのか、黒い人影が動いて、おとよか、と呼びかけてきた。栄二は黙ってそっちへあゆみ寄った。引き止めようとしたがまにあわず、万吉はそのままようすを見ていた。
「おとよか」とまた向うの男が云った。
「そうじゃあねえ」と栄二は答えた、「もっこ部屋の者だ」
相手は腰をおろしたまま、首だけ振り向けて栄二を見あげた。栄二は腕組みをし、相手の右側に立って海を見やった。
「上げ潮だな」と栄二は呟いた。
「もっこ部屋だって」と男がきいた、「名はなんていうんだ」
「気にするな」
「名めえをきいてるんだ」
「気にするなよ」と栄二は云った、「おらあ海を見に来ただけなんだ」
男は口をつぐみ、黙って栄二を見あげていた。まをおいて石垣を打つ波の音が、上げ潮どきのたっぷりした水量を感じさせ、海の遠いかなたから、櫓の音が聞えて来た。
「おれはここで人と逢うことになってるんだ」と男が暫くして云った、「おめえがそこにいると邪魔になるんだがな」
栄二は口の中で、静かな晩だな、と独り言のように呟いた。男は身動きをした、彼がこぶなら殴りかかるだろうと思ったが、ちょっと身動きをしただけで、男は立とうともしなかった。栄二は気が挫けてきた。万吉の話によれば、こぶは手のつけられない乱暴者であり、松造とおとよの仲をやっかんで、二人が逢うのを覗きに来て邪魔をするという。それが事実なら、おれをここから追い払おうとするだろう。けれども彼は動かないし、その口ぶりも乱暴ではなく、むしろ当惑しているような調子だった。
おかしなぐあいだなと思い、栄二が男に話しかけようとしたとき、小走りに来る足音が近づき、清さんどこ、と云う女の声が聞えた。男は振り向いてここだと答え、闇をすかして栄二を見あげた。いそぎ足に来た女は、そこに栄二のいるのを見て立停り、息をきらしながら、この人だあれ、と男にきいた。
「もっこ部屋の者だそうだ」と男が答えた、「海を見に来たんだとよ」
「へんなことをきくようだが」と栄二は腕組みをした手をほどきながら男に云った、「――悪かったら堪忍してくれ、おまえさんは油絞りで、こぶっていう仇名で呼ばれる人か」
「そうならどうした」
「そして」栄二は女のほうへ手を振った、「こっちはおとよという人か」
男は立ちあがった。腰をおろしているときはわからなかったが、立ちあがったのを見ると、万吉の話よりはるかに大きく、背丈は六尺ゆたかであり、肩は雄牛のように厚く、肉が盛り上っていた。
「おめえいったいなに者なんだ」と男が云った、「さっきは海を見に来ただけだと云ったが、本当はそれだけじゃあねえな」
「悪かった、おれが悪かった」栄二はそう云いながらうしろへさがった、「どうやらなにか聞き違えたらしい、邪魔はしないよ、おれはもう帰るから勘弁してくれ」
そしてゆっくり歩きだした。
畑のあいだを戻ってゆくと、どこに隠れていたのか、万吉が出て来て肩を並べた。いまのを聞いたか、と栄二が云った。うん聞いた、わけがわからねえ、と万吉は首を捻った。
「おめえは騙されたんだ」
「そんな筈はねえんだ」と万吉が云った、「松つぁんはそんな男じゃあねえんだから」
「いま見たことはどうだ」
「だからわけがわからねえ」万吉は首をかしげながら云った、「さっき話したことは松つぁんばかりじゃあねえ、あのおとよって女からも聞いたんだ、あたしたちではどうにもならない、なんとかこぶを近よせないようにはできないものだろうかって」
栄二は振り向いて万吉を見た、「それがいまあそこにいた女か」
「おれは幾たびも話したことがあるんだ」
栄二はこぶの巨躯と、当惑したような口ぶりを思い返しながら、おまえはいい男だよ、と万吉に向って云った。