「おらあ今年で三十一だ」と清七が重たい口ぶりで云った、「――二年めえにおとよと知りあうまで、女ってえものをてんで知らなかった、笑われるかもしれねえが、おらちっちえときから女がこわかった、こんなちっちゃな女の子でさえ、じっと顔を見ていると、いまにも口が耳まで裂けるような気がしたもんだ、――この話はもうしたっけかな」
「聞いたようだな」と栄二があいまいに云った、「おふくろさんと岩風呂へはいったときのことだな」
彼の国は上州のどことかで、貧しい百姓の三男坊に生れた。五つか六つのとき、村からほど近い谷川の奥へ母親に伴れられて湯治にいったことがある。そこは川に沿って岩の穴が幾つかあり、底から温泉が湧いており、屋根もなにもない野天風呂であった。清七が母親に抱かれて湯に浸っていると、あとから知らない女がはいって来た。彼は下から見あげる位置にあって、その女が片足から岩風呂へはいるのを見たとたん、思わず母親の首にしがみついて「お化けだよう」と悲鳴をあげた。そのときの印象が強烈だったのだろう、ずっと大きくなってからも、女の顔をみつめていると、その口が急に耳まで裂け、赤い舌をぺろっと出すように思える。夢の中では母親の口さえ裂けるのだという話を、栄二はもう幾たびも聞いていた。
「おかしなことに、おとよだけはちっともこわくなかった」と清七は続けた、「初めて口をきいたのが夜だったからかもしれねえ、やっぱり南の海っぱたで、月夜だったっけ、まだ護岸工事をするまえだから、石垣の崩れたところから波が打込んで、砂の窪みが幾つもできていた、そうさ、その窪みへはいると、はたからは姿が見えなくなったもんだ」
栄二は手鎖の音をさせながら蚊を追った。そこは大川に面した長屋の空き部屋で、二人はもう十余日もいっしょに、その部屋へ押籠められていた。あの騒ぎのあと、栄二は役所詰元締同心の岡安喜兵衛に会い、詳しく事情を話して、清七に穏便の沙汰のあるように懇願した。清七の暴行で下役人の二人が手と足の骨を折られ、止めにはいった油絞りの人足が一人、頭を割られた。医者の診断では、足の骨を折られた下役の一人は跛になるかもしれないが、あとの二人はたいして心配はない、ということであった。――清七は平生から、手のつけられない乱暴者だといわれていたため、役所のほうでは強硬で、大牢へ送るということになりかねなかった。そこで栄二は、清七を大牢へ送るなら自分も送ってくれと居直った。罰を受けるならいっしょだと、男の面目にかけて約束し、それを信じて清七は掛矢を捨てたのである。男が男を信じた、それを裏切ることはできないと云い張った。――騒ぎの原因となったおとよの処置について、差配役の松田権蔵が調べられ、人足たちも訊問された。慥かに、清七はおとよのことを差配役に頼んであった。だが差配役にすれば、松造はしゃばへ出て世帯が持てるからだであるし、清七が島を出るにはまだ期間があった。しぜん、おとよが希望すれば許さないわけにはいかなかった、という事情がわかり、結局は栄二の主張が認められ、清七は三十日の手鎖押籠めという処分にきまった。栄二が同じ処分を受けるまでには、役所とのあいだに飽きるほどの問答が繰返され、寄場奉行から町奉行のほうへも伺いが出されたらしい。まったく異例なことではあるが、これも栄二の頑固な言い分がとおったのであった。
こうして十余日、二人は押籠めの日を送ってきたのだが、いっしょに寝起きをしてみると、清七は手に負えない乱暴者どころか、極めて温和しい小心者であり、愚かしいほど善良だということがわかった。彼は十五の年に故郷を出奔し、土方や人足をしながら、二十二歳で江戸へ出た。ここでも土方か人足をするほかに知恵も能力もなく、いつも人からばかにされ、こき使われ、ひと仕事終ると放りだされた。そうしていまから四年まえ、三人を相手に喧嘩をし、三人にけがをさせたため、大勢の人足たちに袋叩きにされたうえ、役人の手へ渡された。彼には請人もなく、故郷のことは云えないので、無宿人の扱いを受け、五年という期限付きで寄場へ収容された。ここへ来て初めて、人間らしいくらしができるようになった、と清七はいった。油絞りは苦しい重労働であるが、百姓生れの辛抱づよさと、ずばぬけた躰力とで、彼は誰にも負けない存在となった。いまでは彼をばかにする者は一人もないし、むしろ恐れられているくらいだ。おらは一生ここでくらしたい、とさえ清七は云うのであった。
「女っていいもんだ、この世に女ほどいいものはねえな」と清七は続けていた、「――初めておとよのからだへ触ったとき、あんまりやわらけえのとあったけえので、うっかりすると溶けちまうかと思った」
これもまた繰返しなのだが、清七自身にはどれほど繰返しても飽きないし、新鮮さが失われることもないようであった。
「おまけにあの声がまたなんとも云えねえ、あの声を聞くたびに、おらあ眼まいがしそうになっちまうんだ」
外へ人の来る足音がし、雨戸があけられた。すると、夕方の光といっしょに風が吹き入り、部屋の中のむれたような空気に、潮の香が爽やかにしみ込んだ。はいって来たのはいつもの下役人ではなく、元締同心の岡安喜兵衛であった。
「ぶしゅう、会いたいという者が来た」と岡安は云った、「手鎖を外してやるから出ろ」