← Library‹ さぶ 八の三

「おれのことなら諦あきらめてくれ」と栄二えいじは顔かおをそむけて云いった、「おらあおめえを初はじめて見みたときから好すきだった、そして、女房にょうぼうを貰もらうならおめえだと、独ひとりで心こころにきめていた」

さぶちゃんから聞きいたわ、とおすえは口くちの中なかで呟つぶやいた。

「だから金かねや荷物にもつを預あずかってもらったんだ、あのときはまだおめえといっしょになって、小ちいさな経師屋きょうじやでもやるつもりだった」栄二えいじは吐はきけでもこみあげてきたように、するどく眉まゆと口くちを歪ゆがめた、「――だがもういけねえ、なにもかもご破算はさんだ、この島しまから出でたらおれがなにをするかは、いま云いったとおりだ、おれはまえの栄二えいじじゃあねえ、おめえともさぶとも縁えんのねえ人間にんげんなんだ」

「そうきめないで、栄さかえさん」嗚咽おえつしながらおすえはかぶりを振ふった、「そんなふうにきめてしまわないでよ」

「死しんじまった鳥とりにうたわせることができるか」

「栄ひさしさんは鳥とりでもないし死しんでもいないわ」とおすえは云いい返かえした、「あんたがどんな辛つらいくやしいおもいをしているか、覚おぼえのないあたしにはわからないかもしれないけれど、あんたがいなくなったあと、さぶちゃんがどんな気持きもちであんたを捜さがしまわったか、さぶちゃんの手紙てがみを読よんで、あたしがどんな気きだったかも、あんたにはわからないでしょ、――そこをお互たがいにわかり合あおうとすればこそ、友達ともだちがあり夫婦ふうふがあるんじゃありませんか」

「無事ぶじにくらしているうちはな」と云いって栄二えいじは立たちあがった、「――おれの気持きもちはもう話はなした、おめえもこれっきり来きてくれるな、さぶにも来くるなと云いってくれ、いいな」

「さぶちゃんのことは知しりません」おすえは涙なみだを拭ふいて、きっぱりと云いった、「あたしはあたしのしたいようにします」

栄二えいじはそこにひろげてある品しなに眼めもくれず、黙だまって廊下ろうかへ出でていった。

三十さんじゅう日にちの押おし籠こめが解とけると七なな月がつになった。もっこ部屋へやでは栄二えいじを祝いわうため、みんなの手て銭ぜにで酒さけを買かった。差さ配役はいやくに頼たのんで特とくに眼めをつぶってもらったのだが、赤鬼あかおにの松田まつだ権蔵ごんぞうは例れいによって毒どくづいたのち、自分じぶんも幾いくらかの銭ぜにを出だした。

「おめえにゃあ借かりがある」松田まつだは栄二えいじを脇わきへ呼よんで云いった、「あのときおめえがこぶのやつを止とめてくれなかったら、あのきちげえ野郎やろうがどこまで騒さわぎをでっかくしたかわからねえ、野郎やろうはおとよのことがあるから、このおれにも恨うらみをはらす気きだったろう、それがあのくれえのことでおさまったのはおめえのおかげだ、おそまきながら礼れいを云いうぞ」

「忘わすれてくれよ」と栄二えいじは微笑びしょうしながら云いった、「おまえさんのためにしたことじゃあねえんだから」

「だろうとも」松田まつだはむっとしたのだろう、その顔かおが急きゅうに赤あかく、ふくれるようにみえた、「――今夜こんやの酒さけはおれの礼れいごころで眼めをつぶる、寄場よせば人足にんそくが酒盛さかもりをするなんて、この島しまはじまって以来いらいの法度はっとやぶりだ、もしも上役うわやくに知しれでもしたら、このおれなんざ八丈はちじょう送おくりになるかもしれねえ、おらあ自分じぶんで自分じぶんを底抜そこぬけのくそ野郎やろうだと思おもってるんだぞ」

「心配しんぱいしなさんな、酔ようほど飲のましゃあしねえよ」と栄二えいじはまじめに云いった、「なんなら、用心ようじんのために松田まつださんも来きませんか」

松田まつだのふくれた顔かおが、いっぺんにだらしなくほぐれた。とんでもねえ、仮かりにも差さ配役はいやくにそんなまねができるかと云いい、てれくさそうに去さっていった。

小頭こがしらでいちばん年長ねんちょうの伝七でんしちが世話せわ役やくとなり、外そと使つかいの者ものが鳥とりや魚さかなを買かって来きた。それに寄場よせばの勝手かってからねだった野菜やさいと米べいとで、手早てばやく二十にじゅう五ご人にん分ぶんの膳ぜんを作つくった。一ひとつはこぶの清七せいしちのもので、彼かれは膳ぜんが揃そろったところで呼よばれた。――ひと皿さらに盛もりつけられた鳥とりと野菜やさいの甘煮うまに、焼魚やきざかなと浸ひたし物もの、味噌みそ汁しるに白しろいめしというのを見みて、みんなのあいだにどよめきが起おこった。寄場よせばの食事しょくじは量りょうこそ多おおいが麦むぎめしで、正月しょうがつの三み日間かかんは雑煮ぞうにと塩鮭しおざけ、五ご節句せっくや鎮守稲荷ちんじゅいなりの祭まつりには赤飯せきはん、土用どよう中ちゅうにはどじょう汁じる、七夕たなばたにはそうめんなどという特例とくれいがあるほか、ふだんがごく粗末そまつなものなので、どんな僅わずかな馳走ちそうにも歓声かんせいをあげたくなるのだろう。――みんなが坐すわったところで、世話せわ役やくの伝七でんしちが念ねんを入いれて注意ちゅういしたのち、酒さけが出だされ、まず栄二えいじと清七せいしちが盃さかずきを持もった。

「ありがとうよ」清七せいしちはそっと栄二えいじにそう云いった、「みんなおめえのおかげだ、おまけに三十さんじゅう日にちも迷惑めいわくをかけて申もうし訳わけがねえ、堪忍かんにんしてくんなよ」

「おたげえさまだ」と栄二えいじが答こたえた、「これからも仲なかよくやろうぜ」

盃さかずきというのは二ふたつだけ、あとの者ものは湯呑ゆのみで、飲のめない与平よへいと他ほかの二人ふたりが、量りょうの按配あんばいをしながら酌しゃくをしてまわった。

「へんてこなもんだな」と万吉まんきちが酒さけを啜すすりながら、首くびをひねって云いった、「――こんなふうに薬くすりみてえに啜すすってると、胃いの腑ふの中なかをくすぐられてるような心持こころもちだぜ」

「銭せんにするとどのくれえの値打ねうちだ」と隣となりにいる男おとこがきいた。

万吉まんきちはつられて、ひょいとそれに答こたえようとし、ふと気きがついて「よしゃあがれ」と云いった。それでみんなが笑わらいだした。

「こんなことが月つきに一いち遍へんでもできるんなら」と一人ひとりが実感じっかんのこもった声こえで云いった、「おらあ生涯しょうがいこの寄場よせばにいてもいいと思おもうな」

「そのこった」と他ほかの男おとこが云いった、「生いき馬うまの舌したを抜ぬくような、せちがれえしゃばにいるより、この島しまのほうがよっぽど安楽あんらくだ」

「そいつあ知しらなかった」と早速さっそくべつの男おとこが云いった、「しゃばじゃあ生いき馬うまの舌したを抜ぬくかね」

そこでまたみんなが笑わらいだした。

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