「おれのことなら諦めてくれ」と栄二は顔をそむけて云った、「おらあおめえを初めて見たときから好きだった、そして、女房を貰うならおめえだと、独りで心にきめていた」
さぶちゃんから聞いたわ、とおすえは口の中で呟いた。
「だから金や荷物を預かってもらったんだ、あのときはまだおめえといっしょになって、小さな経師屋でもやるつもりだった」栄二は吐きけでもこみあげてきたように、するどく眉と口を歪めた、「――だがもういけねえ、なにもかもご破算だ、この島から出たらおれがなにをするかは、いま云ったとおりだ、おれはまえの栄二じゃあねえ、おめえともさぶとも縁のねえ人間なんだ」
「そうきめないで、栄さん」嗚咽しながらおすえはかぶりを振った、「そんなふうにきめてしまわないでよ」
「死んじまった鳥にうたわせることができるか」
「栄さんは鳥でもないし死んでもいないわ」とおすえは云い返した、「あんたがどんな辛いくやしいおもいをしているか、覚えのないあたしにはわからないかもしれないけれど、あんたがいなくなったあと、さぶちゃんがどんな気持であんたを捜しまわったか、さぶちゃんの手紙を読んで、あたしがどんな気だったかも、あんたにはわからないでしょ、――そこをお互いにわかり合おうとすればこそ、友達があり夫婦があるんじゃありませんか」
「無事にくらしているうちはな」と云って栄二は立ちあがった、「――おれの気持はもう話した、おめえもこれっきり来てくれるな、さぶにも来るなと云ってくれ、いいな」
「さぶちゃんのことは知りません」おすえは涙を拭いて、きっぱりと云った、「あたしはあたしのしたいようにします」
栄二はそこにひろげてある品に眼もくれず、黙って廊下へ出ていった。
三十日の押籠めが解けると七月になった。もっこ部屋では栄二を祝うため、みんなの手銭で酒を買った。差配役に頼んで特に眼をつぶってもらったのだが、赤鬼の松田権蔵は例によって毒づいたのち、自分も幾らかの銭を出した。
「おめえにゃあ借りがある」松田は栄二を脇へ呼んで云った、「あのときおめえがこぶのやつを止めてくれなかったら、あのきちげえ野郎がどこまで騒ぎをでっかくしたかわからねえ、野郎はおとよのことがあるから、このおれにも恨みをはらす気だったろう、それがあのくれえのことでおさまったのはおめえのおかげだ、おそまきながら礼を云うぞ」
「忘れてくれよ」と栄二は微笑しながら云った、「おまえさんのためにしたことじゃあねえんだから」
「だろうとも」松田はむっとしたのだろう、その顔が急に赤く、ふくれるようにみえた、「――今夜の酒はおれの礼ごころで眼をつぶる、寄場人足が酒盛りをするなんて、この島はじまって以来の法度やぶりだ、もしも上役に知れでもしたら、このおれなんざ八丈送りになるかもしれねえ、おらあ自分で自分を底抜けのくそ野郎だと思ってるんだぞ」
「心配しなさんな、酔うほど飲ましゃあしねえよ」と栄二はまじめに云った、「なんなら、用心のために松田さんも来ませんか」
松田のふくれた顔が、いっぺんにだらしなくほぐれた。とんでもねえ、仮にも差配役にそんなまねができるかと云い、てれくさそうに去っていった。
小頭でいちばん年長の伝七が世話役となり、外使いの者が鳥や魚を買って来た。それに寄場の勝手からねだった野菜と米とで、手早く二十五人分の膳を作った。一つはこぶの清七のもので、彼は膳が揃ったところで呼ばれた。――ひと皿に盛りつけられた鳥と野菜の甘煮、焼魚と浸し物、味噌汁に白いめしというのを見て、みんなのあいだにどよめきが起こった。寄場の食事は量こそ多いが麦めしで、正月の三日間は雑煮と塩鮭、五節句や鎮守稲荷の祭には赤飯、土用中にはどじょう汁、七夕にはそうめんなどという特例があるほか、ふだんがごく粗末なものなので、どんな僅かな馳走にも歓声をあげたくなるのだろう。――みんなが坐ったところで、世話役の伝七が念を入れて注意したのち、酒が出され、まず栄二と清七が盃を持った。
「ありがとうよ」清七はそっと栄二にそう云った、「みんなおめえのおかげだ、おまけに三十日も迷惑をかけて申し訳がねえ、堪忍してくんなよ」
「おたげえさまだ」と栄二が答えた、「これからも仲よくやろうぜ」
盃というのは二つだけ、あとの者は湯呑で、飲めない与平と他の二人が、量の按配をしながら酌をしてまわった。
「へんてこなもんだな」と万吉が酒を啜りながら、首をひねって云った、「――こんなふうに薬みてえに啜ってると、胃の腑の中をくすぐられてるような心持だぜ」
「銭にするとどのくれえの値打ちだ」と隣りにいる男がきいた。
万吉はつられて、ひょいとそれに答えようとし、ふと気がついて「よしゃあがれ」と云った。それでみんなが笑いだした。
「こんなことが月に一遍でもできるんなら」と一人が実感のこもった声で云った、「おらあ生涯この寄場にいてもいいと思うな」
「そのこった」と他の男が云った、「生き馬の舌を抜くような、せちがれえしゃばにいるより、この島のほうがよっぽど安楽だ」
「そいつあ知らなかった」と早速べつの男が云った、「しゃばじゃあ生き馬の舌を抜くかね」
そこでまたみんなが笑いだした。