← Library‹ さぶ 八の四

なごやかな時間じかんが一刻ときあまり続つづき、そのあいだに五ご人にんの男おとこが、栄二えいじのところへ盃さかずきの交換こうかんに来きた。酌しゃくも盃さかずきのやりとりもしないのが自分じぶんの癖くせだから、と栄二えいじは断ことわったが、五ご人にんとも気きを悪わるくしたようすはなく、自分じぶんの酒さけを大事だいじそうに舐なめながら、今後こんごは互たがいに助たすけあってゆこう、などとたのもしそうに語かたっていた。――仁兵衛にへえというのが三十さんじゅう四、五しご、武たけというのが三十さんじゅうがらみで、参平さんぺい、吉造きちぞう、富三郎とみさぶろうという三さん人にんは栄二えいじとほぼ同年どうねんぐらいにみえた。

「すっかりにんき者しゃになっちまったね」寝ねるときに与平よへいが来きてそう囁ささやいた、「あたしはここへ来きて八はち年ねんになるが、こんなにみんなの気きが合あったのは初はじめて見みましたよ、私わたくしは酒さけはひと口くちもだめだが、みんながあんなにたのしそうに飲のんでるのを見みたら、うれしくってね、こっちまでが酔よったような気分きぶんになっちまいました」

栄二えいじは暫しばらく黙だまっていて、それから相手あいての本心ほんしんをさぐるような口くちぶりできいた、「――与平よへいさんはいまでも、この島しまで一生いっしょうくらすつもりかね」

「そのつもりですよ」と与平よへいは答こたえた、「私わたくしはしゃばではくらしにくい人間にんげんのようですからね」そしてまた云いった、「――さっき誰だれかが、生いき馬うまの眼めを抜ぬくような、せちがらい世間せけん、ということを云いったが、この島しまではそんなことはない、人ひとの小股こまたをすくったり、人ひとをだしぬいたりぺてんにかけたりすることもない、そんなことをしてもなんの得とくにもならないからだ、そうでしょう」

ここにもむろんいやなことはある。ひねくれ者ものや意地いじの悪わるいやつもいるし、したくない仕事しごともしなければならない。それでも人ひとを凌しのいで儲もうけたり、出世しゅっせしたりすることはできないし、やれと云いわれた仕事しごとをおのれの分ぶんだけやればいいのだから、世間せけんのように煮にえ湯ゆをのまされる心配しんぱいはない、と与平よへいは云いった。

「こんなことを云いうのも、つまり私わたくしが能のうのない年寄としよりで、半分はんぶん死しんだも同然どうぜんだからでしょうがね」

「年寄としよりったって、まだ働はたらきざかりじゃあないのかい」

「としは四十よんじゅう一いちさ」と与平よへいは力ちからのない笑わらいかたをして云いった、「けれどもね、いつか話はなしたあの晩ばん、女房にょうぼうを殺ころそうとしたあのひと晩ばんで、私わたくしは二十にじゅうも三十さんじゅうもとしをとっちまったような気きがするんですよ、ええ、気きがするだけじゃあなく、躯むくろまですっかり年寄としよりになっちまってるんです、おまえさんには信しんじられないかもしれないがね」

そして与平よへいは自分じぶんの寝床ねどこのほうへ去さっていった。

栄二えいじは寝ねてから考かんがえた。この寄場よせばにいる人間にんげんたちの中なかに、二に度どと世間せけんへ出でたくない、一生いっしょうこの島しまでくらしたい、と云いう者ものが少すくなくない。気きが弱よわく、とびぬけた才能さいのうもなく、善良ぜんりょうであるだけでは、広ひろい世間せけんでの生活せいかつは苦くるしいだろう。だがそれだけではあるまい、かれらは生活せいかつの苦くるしさに加くわえ、いろいろな意味いみで世間せけんから非情ひじょうに扱あつかわれ、こづきまわされた。女衒ぜげんの六ろくがなかまの復讐ふくしゅうを怖おそれたとき、広ひろい世間せけんにではなく、この島しまをかくれがに選えらんだように、かれらにとってもまた、ここが安全あんぜんなかくれがなのであろう。なんという可哀かわいそうな人ひとたちだ、と栄二えいじは思おもった。

「なんという残酷ざんこくな世間せけんだろう」と彼かれは口くちの中なかで呟つぶやいた、「――だがおれは違ちがうぞ、おれは必かならず仕返しかえしをしてやる、おれがあじわった痛手いたでを倍ばいにして返かえしてやるぞ」

いつからか風かぜが吹ふきはじめたらしく、雨戸あまどがうるさく揺ゆれ、板壁いたかべからなまあたたかい風かぜが吹ふき込こんで来きた。栄二えいじはそれを聞ききながら、久ひさしぶりの酔よいに包つつまれて眠ねむった。

自分じぶんは自分じぶんのしたいようにする、とおすえが云いった。おすえは死人しにんのように蒼あおざめた顔かおで、元結もとゆいが切きれたのか、髪かみの毛けはばらばらに解とけてい、栄二えいじを睨にらむ眼めは青あおい火ひが燃もえるようにみえた。どうする気きだ、と栄二えいじがきいた。するとおすえの口くちがぐっとひろがり、両端りょうたんが耳みみのところまで裂さけた。その裂さけた口くちの中なかはまっ赤かで、蛇へびのように長ながい舌したが覗のぞいた。栄二えいじは恐怖きょうふのために息いきが詰なじり、逃にげだそうとしてもがいた。もがきながら、これは間違まちがいだと彼かれは云いった。これはこぶの清七せいしちの夢ゆめだ、おれではなく清七せいしちが夢ゆめをみているんだ、と栄二えいじは云いい続つづけた。

「あにい」と誰だれかがどなった、「起おきてくんな、あにい、大おおあらしになったぜ」

栄二えいじが眼めをさますと、部屋へやの中なかはまっ暗くらで、起おきだしたみんなのざわめきと、風かぜのすさまじい咆哮ほうこうとが耳みみにおそいかかった。

「もうじき潰つぶれるぞ」と暗くらい中なかで誰だれかがどなった、「突支棒つっかいぼうをしなきゃだめだ」

強風きょうふうに揉もまれて、建物たてものぜんたいが悲鳴ひめいをあげ、板壁いたかべの歪ゆがむ音おとがした。栄二えいじは着替きがえをし帯たいをしめながら、みんなおちつけよとどなった。しかしその声こえは、板屋根いたやねの吹ふき飛とばされる音おとに消けされ、穴あなのあいた屋根やねから吹ふき込こむ風かぜが部屋へやの中なかいっぱいに渦うずを巻まいた。

「あの酒さけだぜ」と誰だれかが叫さけんだ、「赤鬼あかおには眼めをつぶったが、おてんとさまはそうじゃなかった、このあらしは酒さけの罰ばちだぜ」

「外そとへ出でろ」と栄二えいじが叫さけんだ、「屋根やねを剥むかれちゃあもう保もたねえ、みんな外そとへ出でろ」

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