← Library‹ さぶ 一の五

用ようが済すんだので、栄二えいじは先さきに勝手口かってぐちから出でた。見本みほん紙しや尺取しゃくとりの帳面ちょうめんを入いれた包つつみを持もって、格子こうし戸とを出でるとおすえの姿すがたが見みえた。井戸いどのところに立たっていて、待まっていたようにこっちへ走はしって来き、栄二えいじの眼めをみつめながら頬笑ほうえんだ。みつめる眼めにはいっしょうけんめいな、思おもい詰つめたような光ひかりがあり、その頬笑ほうえみはまるで泣なきべそでもかくように歪ゆがんでいた。

「さっきのこと、堪忍かんにんして下くださいね」

「なにをさ」と栄二えいじがきき返かえした。

「大おおきくなったって云いったこと」とおすえは眼めをそらさずに云いった、「あたしほんとに、立派りっぱになったって云いいたかったんです」

「いいよ、そんなこと」栄二えいじは包つつみを持もち直なおしながら云いった、「怒おこってなんかいやしねえよ」

「ほんとね」と囁ささやきかけながら、おすえは涙なみだをこぼした、「よかったわ」

「なんだ、あんなこと、つまらねえ」

「あたし初はじめて栄ひさしさんに会あったとき十じゅう三さんだったけれど、栄さかえさんのこと怒おこりっぽいこわい人ひとだなって、思おもったのを覚おぼえてるわ」

栄二えいじはなにか云いいそうにして赤あかくなり、それから怒おこったような口くちぶりで云いった、「――おれだっておめえのこと覚おぼえてたよ」

おすえは「ありがと」と囁ささやき声ごえで云いい、くるっと向むき直なおって小走こばしりに去さった。栄二えいじはそっちを見みなかった。顔かおは赤あかくなったままで、深ふかい呼吸こきゅうをするために、胸むねが見みえるほど波打なみうっていた。

「栄二えいじ」と呼よぶ声こえがした、「ちょっと」

格子こうし戸との中なかから多た市しが覗のぞいていた。栄二えいじは悪わるいことでもみつけられたように、どぎまぎしながらそっちへいった。

「先さきに帰かえってくれ」と多た市しは云いった、「旦那だんなの酒さけのお相手あいてだ、うんざりだがしようがねえ、親方おやかたにそう云いっといてくれ」

上あがり端ばたの六ろく帖じょうでは、小僧こぞうがまだ麻袋あさぶくろを重おもたそうに板いたへ打うちつけていた。栄二えいじは多た市しに頷うなずいて、そこから去さった。

「大おおきくなった、か」道みちをあるきながら、栄二えいじはそっと呟つぶやいて微笑びしょうした、「てめえだって大おおきくなったくせに、――躯むくろつきも顔かおもあのころとちっとも変かわっちゃいねえ、十じゅう三さんのときもいまのまんまだった」

女おんなは十じゅう三さんになるともう、顔かおも躯むくろも娘むすめになってしまうのかな、おかしなもんだなと思おもって、栄二えいじはまた微笑びしょうした。

小舟こぶね町まちへ帰かえると、休やすみだから店みせは閉しめてあり、栄二えいじは横よこの木戸きどからはいった。すると、裏うらの狭せまい空地あきちでさぶが糊のりの仕込しこみをしていた。裾すそを端折はしょり、襷たすきを掛かけ、五ご升しょう樽だるくらいの桶おけに向むかって、小ちいさな腰掛こしかけにかけたまま、桶おけの中なかへ両手りょうてを入いれて揉もみ出だしをしていた。小麦こむぎ粉こなをよく水みずで練ねりあげ、袋ふくろに入いれ揉もむと白しろい水みずが出でる、それを沈澱ちんでんさせたうえ、壺つぼに入いれて日蔭ひかげの土つちに壺つぼの半分はんぶんを埋うめて貯たくわえる。表具ひょうぐとか屏風びょうぶの裏打うらうち用ようには、そうして作つくった糊のりしか使つかわないし、壺つぼの中なかでねかせる期間きかんも二に年ねんから三さん年ねんはかかった。

「さぶ、どうしたんだ」栄二えいじは近ちかよってゆきながら呼よびかけた、「休やすみじゃあねえか、なにをしてるんだ、おまけにこんな裏うらなんかへ出でたりしてさ、え」

さぶは答こたえもせず、振ふり向むきもしなかった。栄二えいじは彼かれの横顔よこがおが濡ぬれているのを認みとめた。

「どうしたんだ」栄二えいじは声こえを低ひくめた、「なにかあったのか」

「なんでもねえ」さぶは首くびを振ふった、「なんでもねえんだよ」

「泣ないてるじゃねえか」

「泣ないてやしねえ」と云いって、さぶは腕うでで眼めのまわりをこすった、「捏こねをやってるときに、粉こなが眼めにへえったんだ」

栄二えいじはなお、さぶの横顔よこがおをみつめていたが、さぶは振ふり向むこうとはしなかった。

「二人ふたりでどこかへいこうと思おもって、いそいで帰かえって来きたんだが」と栄二えいじが云いった、「それを始はじめちゃったとするとだめだな」

揉もみ出だしを始はじめれば、壺つぼへ仕込しこむまで手ては放はなせない。栄二えいじはさぶと飲のみにでも出でて、おすえのことが話はなしたかった。なにを話はなしたいかは自分じぶんでもわからないが、とにかく話はなさないうちはおちつけないような気持きもちであった。

「いいじゃないか、いってきなよ」さぶは白しろくなった手てで袋ふくろを揉もみながら云いった、「おれのことは構かまわなくってもいいよ」

「ばか云いえ、一人ひとりでなんかいけるかい、おめえが仕事しごとをするんならおれだってすらあ」と栄二えいじは云いった、「綿めん文ぶんで襖ふすまの尺さしを取とって来きたんだから、紙かみを揃そろえにかかったっていいんだ、おめえもこんなところでなく、仕事場しごとばへはいってやったらどうだ」

「おらあここがいいんだ」さぶは喉のどの詰なじったような声こえで云いった、「うっちゃっといてくれ」

そして急きゅうに、両手りょうてを桶おけの中なかへ突ついて前跼まえかがみになり、声こえをころして泣なきはじめた。

「いったいどうしたんだ、さぶ」と栄二えいじが跼かがみこんで云いった、「おれにも話はなせねえのか」

「独ひとりにしてくれ」と咽むせびながらさぶは顔かおをそむけた、「ほんとになんでもねえんだ、頼たのむからおれを放はなっといてくれ」

「ほんとにそれでいいのか」

さぶは大おおきく頷うなずいた。ずんぐりした躯むくろを前まえ跼かがみにした恰好かっこや、まるっこい頭あたまでこくっと頷うなずいたようすは、いかにも愚直ぐちょくで子供こどもっぽく、栄二えいじは心こころの中なかで可哀かわいそうなやつだな、と思おもった。

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