用が済んだので、栄二は先に勝手口から出た。見本紙や尺取りの帳面を入れた包みを持って、格子戸を出るとおすえの姿が見えた。井戸のところに立っていて、待っていたようにこっちへ走って来、栄二の眼をみつめながら頬笑んだ。みつめる眼にはいっしょうけんめいな、思い詰めたような光があり、その頬笑みはまるで泣きべそでもかくように歪んでいた。
「さっきのこと、堪忍して下さいね」
「なにをさ」と栄二がきき返した。
「大きくなったって云ったこと」とおすえは眼をそらさずに云った、「あたしほんとに、立派になったって云いたかったんです」
「いいよ、そんなこと」栄二は包みを持ち直しながら云った、「怒ってなんかいやしねえよ」
「ほんとね」と囁きかけながら、おすえは涙をこぼした、「よかったわ」
「なんだ、あんなこと、つまらねえ」
「あたし初めて栄さんに会ったとき十三だったけれど、栄さんのこと怒りっぽいこわい人だなって、思ったのを覚えてるわ」
栄二はなにか云いそうにして赤くなり、それから怒ったような口ぶりで云った、「――おれだっておめえのこと覚えてたよ」
おすえは「ありがと」と囁き声で云い、くるっと向き直って小走りに去った。栄二はそっちを見なかった。顔は赤くなったままで、深い呼吸をするために、胸が見えるほど波打っていた。
「栄二」と呼ぶ声がした、「ちょっと」
格子戸の中から多市が覗いていた。栄二は悪いことでもみつけられたように、どぎまぎしながらそっちへいった。
「先に帰ってくれ」と多市は云った、「旦那の酒のお相手だ、うんざりだがしようがねえ、親方にそう云っといてくれ」
上り端の六帖では、小僧がまだ麻袋を重たそうに板へ打ちつけていた。栄二は多市に頷いて、そこから去った。
「大きくなった、か」道をあるきながら、栄二はそっと呟いて微笑した、「てめえだって大きくなったくせに、――躯つきも顔もあのころとちっとも変っちゃいねえ、十三のときもいまのまんまだった」
女は十三になるともう、顔も躯も娘になってしまうのかな、おかしなもんだなと思って、栄二はまた微笑した。
小舟町へ帰ると、休みだから店は閉めてあり、栄二は横の木戸からはいった。すると、裏の狭い空地でさぶが糊の仕込みをしていた。裾を端折り、襷を掛け、五升樽くらいの桶に向って、小さな腰掛にかけたまま、桶の中へ両手を入れて揉み出しをしていた。小麦粉をよく水で練りあげ、袋に入れ揉むと白い水が出る、それを沈澱させたうえ、壺に入れて日蔭の土に壺の半分を埋めて貯える。表具とか屏風の裏打ち用には、そうして作った糊しか使わないし、壺の中でねかせる期間も二年から三年はかかった。
「さぶ、どうしたんだ」栄二は近よってゆきながら呼びかけた、「休みじゃあねえか、なにをしてるんだ、おまけにこんな裏なんかへ出たりしてさ、え」
さぶは答えもせず、振り向きもしなかった。栄二は彼の横顔が濡れているのを認めた。
「どうしたんだ」栄二は声を低めた、「なにかあったのか」
「なんでもねえ」さぶは首を振った、「なんでもねえんだよ」
「泣いてるじゃねえか」
「泣いてやしねえ」と云って、さぶは腕で眼のまわりをこすった、「捏ねをやってるときに、粉が眼にへえったんだ」
栄二はなお、さぶの横顔をみつめていたが、さぶは振り向こうとはしなかった。
「二人でどこかへいこうと思って、いそいで帰って来たんだが」と栄二が云った、「それを始めちゃったとするとだめだな」
揉み出しを始めれば、壺へ仕込むまで手は放せない。栄二はさぶと飲みにでも出て、おすえのことが話したかった。なにを話したいかは自分でもわからないが、とにかく話さないうちはおちつけないような気持であった。
「いいじゃないか、いってきなよ」さぶは白くなった手で袋を揉みながら云った、「おれのことは構わなくってもいいよ」
「ばか云え、一人でなんかいけるかい、おめえが仕事をするんならおれだってすらあ」と栄二は云った、「綿文で襖の尺を取って来たんだから、紙を揃えにかかったっていいんだ、おめえもこんなところでなく、仕事場へはいってやったらどうだ」
「おらあここがいいんだ」さぶは喉の詰ったような声で云った、「うっちゃっといてくれ」
そして急に、両手を桶の中へ突いて前跼みになり、声をころして泣きはじめた。
「いったいどうしたんだ、さぶ」と栄二が跼みこんで云った、「おれにも話せねえのか」
「独りにしてくれ」と咽びながらさぶは顔をそむけた、「ほんとになんでもねえんだ、頼むからおれを放っといてくれ」
「ほんとにそれでいいのか」
さぶは大きく頷いた。ずんぐりした躯を前跼みにした恰好や、まるっこい頭でこくっと頷いたようすは、いかにも愚直で子供っぽく、栄二は心の中で可哀そうなやつだな、と思った。