掛矢を持った清七の威しと、栄二の巧みな言葉の威しとで、われ勝ちの騒ぎはしずまり、病人、女たちに続いて、三艘の伝馬船に避難者が乗り移り、どうやら事なく大川へ漕ぎ出してゆき、あとに七十余人の人足が残った。
風はさらに強くなったようだし、水嵩も増すばかりで、中庭の広場に波がしらの白く砕けるのが見えた。清七はあるだけの麻繩と、蓆や藁繩を持出させ、大工や左官たちを呼び集めて、油部屋へいった。
「油絞りの小屋は頑丈だ」と胸まである水をわけてゆきながら清七は云った、「あれは風では倒れねえ、だが絞った油の壺が流される」
栄二は役所の建物にとりついた。そこでは同心や下役人たちが総がかりで、雨戸に桟を打ちつけたり、廊下柱を綱で止めたり、杉丸太で突支棒をしたり、また一方では建物のまわりに、水を逃がすための溝を掘ったりしていた。栄二は溝掘りに加わり、一人の持っていた鍬を「代ろう」と云って受取った。
「よう」とその男は鍬を渡して云った、「よう、ぶしゅうじゃねえか、やりゃあがったな」
それは赤鬼の松田権蔵であった。
「島ぬけ破牢とはうまいこと云やあがった」と松田は云った、「こぶの野郎とおめえのおかげだ、さもなきゃあ人死にが出たところだろう、ご褒美ものだぞ」
「おいらのは威しじゃあねえ」と鍬を使いながら栄二が云い返した、「本当にそう思ったから云ったまでだ」
「本当にそう思ったって」
「この大あらしで、向う河岸の人間も気が立ってる、そこへいきなり水玉模様の仕着が、船からぞくぞくあがったらどうなる、表向きにはなんの知らせもねえんだぜ」と栄二は云った、「――向う河岸の人間になって考えてみな、松田さんならどう思う」
松田はちょっと黙っていたが、どこかへいって鍬を持って戻り、栄二と並んで溝掘りにかかった。
「おめえはよっぽど」と松田が云った、「ひでえめにあったことがあるんだな」
「おれだけじゃねえさ、この寄場にいる者はみんな、それぞれ世間からひでえめにあわされてるぜ」
「口のへらねえ野郎だ」松田は手を止めて栄二を睨みつけた、「いつでもひとをへこましゃあがる、そんなにおれが嫌えなのか」
栄二はおどろいて松田を見た、「おれが松田さんをへこましたって、冗談じゃあねえ、おらあ初めっからおめえさんが好きなんだぜ」
「ふん」松田は力いっぱい鍬を振りおろした、「おだてとともれえ駕籠にゃあ乗らねえぞ」
押し寄せて来る水は波を打って、掘りあげた溝を越しては役所の前庭を洗い、役所の建物はぶきみにきしんだ。屋根瓦が音をたてて吹き飛ばされ、軒や庇で風が咆えつづけた。空はまっ暗だが、烈風のため、雲が異常な早さで北へ北へとはしり、その雲の切れめに、ときたま星のきらめくのが認められた。
「もう掘るのはよせ」という岡安喜兵衛の声が聞えた、「それはもう役に立たない、みんなあがれ」
「水もこれ以上は来ねえ」と松田が栄二に云った、「満潮はもう過ぎた、あがろうぜ」
「おらあこぶのようすをみてくる」
「こぶがどうした」
「油の壺を流されねえようにって、油部屋のほうへいった」
「よせ、あっちはまともに波をかぶってる、おめえがいったってどうなるもんか、野郎は大丈夫だ」
「念のためだ」と栄二は叫んだ、「ちょっといってみてくる」
よせ、ぶしゅうと松田が喚いた。栄二は鍬を突いて地面をさぐりながら、水の中をあるきだした。水というより荒波といったほうがいい、少しゆくと胸まである水が、絶えず波立ってぶっつかるし、その波の砕けるしぶきは砂でも叩きつけるようにばしばしと顔を打った。そのうえに、水は休みなく寄せたり引いたりするから、うっかりすると足を取られそうになる。栄二は鍬を杖のように使って、水の力とたたかいながらけんめいに進んだ。
油部屋の建物は役所から二十間たらずのところにあったが、そこへ辿り着くまでに半刻もかかったかと思われた。いってみると、その建物は水の中にがっしりと建っていて、中で大勢の唄をうたう声が、風の音をとおして聞えてきた。戸口は閉めてあるし、小屋ぜんたいが繩や綱で巻いてあった。
「おい、大丈夫か」栄二は引戸を力いっぱい叩きながら喚いた、「みんな無事か」
中の唄声が止まり、栄二の頭上から呼びかける者があった。ふり仰ぐとそこに小窓があり、誰かが首を出していた。
「もっこ部屋のぶしゅうだ」と栄二が仰向いてどなった、「清さんは大丈夫か」
小窓の首が消え、代りに清七が首を出した。もちろん顔は見えないが、声で清七だということがわかった。
「おらあ大丈夫だ」と清七が云った、「おめえはまたなんだってこんなとけえ来た」
「ようすをみにだ」
「聞えねえ」と清七が云った、「いま綱をおろすから、それにつかまってくれ」
投げられた綱は風に吹き払われるので、栄二がそれを掴むまでに、三度もやり直さなければならなかった。何人かが力を合わせて引きあげ、栄二が小窓からはいると、そこは棚のようになった中二階で、闇の中からわっという歓声があがった。
「頭に気をつけてくれ」と清七が云った、「ここは菜種袋を積んで置くところで、幅は九尺しきゃあねえし、頭の上はすぐに天床だ、まあここへ坐ってくれ」
よく来たなぶしゅうとか、外のようすはどうだとか、誰ともわからない声が左右から聞えた。みんなうきうきとはずんだ調子であった。油の壺はどうだときくと、みんな綱で括り合わせたし、この小屋は大丈夫だと清七が答えた。
「この中にもっこ部屋の者はいるか」
「こっちにいるぜ、あにい」と栄二の問いかけに答える金太の声が聞えた、「久七小頭と与平さんもいっしょだ」
「もうひとねばりだ」と栄二がどなった、「みんなふんばろうぜ」
わっと、また歓声がわきあがった。突風がおそいかかって、小屋ぜんたいがふるえ、柱や梁木がきしんだ。すると誰かが唄をうたいだし、その唄を知っている者が四、五人、いっしょに声高く合わせてうたった。栄二にはなんの唄かわからなかったし、文句もよく聞きとれなかったが、おかしなことに眼の裏が熱くなり、涙があふれ出てきた。
「――おまえ見たさに……」とその唄の文句が途切れて聞えた、「――馬草刈る手も……おまや来もせず、……影ばかり」
栄二はそっと眼を拭いた。突風がまた小屋を揺りたて、どこかで板でも裂けるような、激しい物音がした。