← Library‹ さぶ 八の六

掛矢かけやを持もった清七せいしちの威おどしと、栄二えいじの巧たくみな言葉ことばの威おどしとで、われ勝かちの騒さわぎはしずまり、病人びょうにん、女おんなたちに続つづいて、三さん艘そうの伝馬てんま船せんに避難ひなん者しゃが乗のり移うつり、どうやら事ことなく大川おおかわへ漕こぎ出だしてゆき、あとに七十ななじゅう余人よにんの人足にんそくが残のこった。

風かぜはさらに強つよくなったようだし、水嵩みずかさも増ますばかりで、中庭なかにわの広場ひろばに波なみがしらの白しろく砕くだけるのが見みえた。清七せいしちはあるだけの麻あさ繩なわと、蓆むしろや藁繩わらなわを持出もちださせ、大工だいくや左官さかんたちを呼よび集あつめて、油あぶら部屋へやへいった。

「油絞あぶらしぼりの小屋こやは頑丈がんじょうだ」と胸むねまである水みずをわけてゆきながら清七せいしちは云いった、「あれは風ふうでは倒たおれねえ、だが絞しぼった油あぶらの壺つぼが流ながされる」

栄二えいじは役所やくしょの建物たてものにとりついた。そこでは同心どうしんや下か役人やくにんたちが総そうがかりで、雨戸あまどに桟さんを打うちつけたり、廊下ろうか柱はしらを綱つなで止とめたり、杉すぎ丸太まるたで突とっ支し棒ぼうをしたり、また一方いっぽうでは建物たてもののまわりに、水みずを逃にがすための溝みぞを掘ほったりしていた。栄二えいじは溝みぞ掘ほりに加くわわり、一人ひとりの持もっていた鍬くわを「代かわろう」と云いって受取うけとった。

「よう」とその男おとこは鍬くわを渡わたして云いった、「よう、ぶしゅうじゃねえか、やりゃあがったな」

それは赤鬼あかおにの松田まつだ権蔵ごんぞうであった。

「島しまぬけ破牢はろうとはうまいこと云いやあがった」と松田まつだは云いった、「こぶの野郎やろうとおめえのおかげだ、さもなきゃあ人死ひとじにが出でたところだろう、ご褒美ほうびものだぞ」

「おいらのは威おどしじゃあねえ」と鍬くわを使つかいながら栄さかえ二にが云いい返かえした、「本当ほんとうにそう思おもったから云いったまでだ」

「本当ほんとうにそう思おもったって」

「この大おおあらしで、向むこう河岸かしの人間にんげんも気きが立たってる、そこへいきなり水玉みずたま模様もようの仕す着ぎが、船ふねからぞくぞくあがったらどうなる、表向おもてむきにはなんの知しらせもねえんだぜ」と栄二えいじは云いった、「――向むこう河岸かしの人間にんげんになって考かんがえてみな、松田まつださんならどう思おもう」

松田まつだはちょっと黙だまっていたが、どこかへいって鍬くわを持もって戻もどり、栄二えいじと並ならんで溝みぞ掘ほりにかかった。

「おめえはよっぽど」と松田まつだが云いった、「ひでえめにあったことがあるんだな」

「おれだけじゃねえさ、この寄場よせばにいる者ものはみんな、それぞれ世間せけんからひでえめにあわされてるぜ」

「口くちのへらねえ野郎やろうだ」松田まつだは手てを止とめて栄二えいじを睨にらみつけた、「いつでもひとをへこましゃあがる、そんなにおれが嫌きれえなのか」

栄二えいじはおどろいて松田まつだを見みた、「おれが松田まつださんをへこましたって、冗談じょうだんじゃあねえ、おらあ初はじめっからおめえさんが好すきなんだぜ」

「ふん」松田まつだは力ちからいっぱい鍬くわを振ふりおろした、「おだてとともれえ駕籠かごにゃあ乗のらねえぞ」

押おし寄よせて来くる水みずは波なみを打うって、掘ほりあげた溝みぞを越こしては役所やくしょの前庭ぜんていを洗あらい、役所やくしょの建物たてものはぶきみにきしんだ。屋根瓦やねがわらが音おとをたてて吹ふき飛とばされ、軒のきや庇ひさしで風かぜが咆ほえつづけた。空そらはまっ暗くらだが、烈風れっぷうのため、雲くもが異常いじょうな早はやさで北きたへ北きたへとはしり、その雲くもの切きれめに、ときたま星ほしのきらめくのが認みとめられた。

「もう掘ほるのはよせ」という岡安おかやす喜兵衛きへえの声こえが聞きこえた、「それはもう役やくに立たたない、みんなあがれ」

「水みずもこれ以上いじょうは来こねえ」と松田まつだが栄二えいじに云いった、「満潮まんちょうはもう過すぎた、あがろうぜ」

「おらあこぶのようすをみてくる」

「こぶがどうした」

「油あぶらの壺つぼを流ながされねえようにって、油あぶら部屋へやのほうへいった」

「よせ、あっちはまともに波なみをかぶってる、おめえがいったってどうなるもんか、野郎やろうは大丈夫だいじょうぶだ」

「念ねんのためだ」と栄二えいじは叫さけんだ、「ちょっといってみてくる」

よせ、ぶしゅうと松田まつだが喚わめいた。栄二えいじは鍬くわを突ついて地面じめんをさぐりながら、水みずの中なかをあるきだした。水みずというより荒波あらなみといったほうがいい、少すこしゆくと胸むねまである水みずが、絶たえず波立なみだってぶっつかるし、その波なみの砕くだけるしぶきは砂すなでも叩たたきつけるようにばしばしと顔かおを打うった。そのうえに、水みずは休やすみなく寄よせたり引ひいたりするから、うっかりすると足あしを取とられそうになる。栄二えいじは鍬くわを杖つえのように使つかって、水みずの力ちからとたたかいながらけんめいに進すすんだ。

油あぶら部屋へやの建物たてものは役所やくしょから二十にじゅう間けんたらずのところにあったが、そこへ辿たどり着つくまでに半刻はんときもかかったかと思おもわれた。いってみると、その建物たてものは水みずの中なかにがっしりと建たっていて、中なかで大勢おおぜいの唄うたをうたう声こえが、風かぜの音おとをとおして聞きこえてきた。戸口とぐちは閉しめてあるし、小屋こやぜんたいが繩なわや綱つなで巻まいてあった。

「おい、大丈夫だいじょうぶか」栄二えいじは引戸ひきどを力ちからいっぱい叩たたきながら喚わめいた、「みんな無事ぶじか」

中なかの唄声うたごえが止とまり、栄二えいじの頭上ずじょうから呼よびかける者ものがあった。ふり仰あおぐとそこに小窓こまどがあり、誰だれかが首くびを出だしていた。

「もっこ部屋へやのぶしゅうだ」と栄二えいじが仰向あおむいてどなった、「清きよしさんは大丈夫だいじょうぶか」

小窓こまどの首くびが消きえ、代かわりに清七せいしちが首くびを出だした。もちろん顔かおは見みえないが、声こえで清七せいしちだということがわかった。

「おらあ大丈夫だいじょうぶだ」と清七せいしちが云いった、「おめえはまたなんだってこんなとけえ来きた」

「ようすをみにだ」

「聞きこえねえ」と清七せいしちが云いった、「いま綱つなをおろすから、それにつかまってくれ」

投なげられた綱つなは風ふうに吹ふき払はらわれるので、栄二えいじがそれを掴つかむまでに、三さん度どもやり直なおさなければならなかった。何なん人にんかが力ちからを合あわせて引ひきあげ、栄二えいじが小窓こまどからはいると、そこは棚たなのようになった中ちゅう二に階かいで、闇やみの中なかからわっという歓声かんせいがあがった。

「頭あたまに気きをつけてくれ」と清七せいしちが云いった、「ここは菜種なたね袋ふくろを積つんで置おくところで、幅はばは九きゅう尺しゃくしきゃあねえし、頭あたまの上うえはすぐに天てん床ゆかだ、まあここへ坐すわってくれ」

よく来きたなぶしゅうとか、外そとのようすはどうだとか、誰だれともわからない声こえが左右さゆうから聞きこえた。みんなうきうきとはずんだ調子ちょうしであった。油あぶらの壺つぼはどうだときくと、みんな綱つなで括くくり合あわせたし、この小屋こやは大丈夫だいじょうぶだと清七せいしちが答こたえた。

「この中なかにもっこ部屋へやの者ものはいるか」

「こっちにいるぜ、あにい」と栄二えいじの問といかけに答こたえる金太きんたの声こえが聞きこえた、「久七きゅうしち小頭こがしらと与平よへいさんもいっしょだ」

「もうひとねばりだ」と栄二えいじがどなった、「みんなふんばろうぜ」

わっと、また歓声かんせいがわきあがった。突風とっぷうがおそいかかって、小屋こやぜんたいがふるえ、柱はしらや梁木はりがきしんだ。すると誰だれかが唄うたをうたいだし、その唄うたを知しっている者ものが四、五しご人にん、いっしょに声こえ高たかく合あわせてうたった。栄二えいじにはなんの唄うたかわからなかったし、文句もんくもよく聞ききとれなかったが、おかしなことに眼めの裏うらが熱あつくなり、涙なみだがあふれ出でてきた。

「――おまえ見みたさに……」とその唄うたの文句もんくが途切とぎれて聞きこえた、「――馬草まぐさ刈かる手ても……おまや来らいもせず、……影かげばかり」

栄二えいじはそっと眼めを拭ふいた。突風とっぷうがまた小屋こやを揺ゆりたて、どこかで板いたでも裂さけるような、激はげしい物音ものおとがした。

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