← Library‹ さぶ 九の一

海うみはまだ土色つちいろに濁にごっていたが、空気くうきは澄すみあがって、はるかに、房州ぼうしゅうの山やまが青あおずんで見みえた。

「あたしいろいろ考かんがえたんです」とおすえは風呂敷ふろしき包つつみを抱かかえ直なおしながら云いった、「――自分じぶんではこれからも五いつ日かおきにきっと来こよう、栄さかえさんが会あってくれなくってもいい、さぶちゃんがしたように、これが必要ひつようだなと思おもう物ものを揃そろえて、届とどけるだけでも届とどけようって、――でもうちへ帰かえってからいろいろ考かんがえてみると、栄さかえさんが誰だれにも会あいたくない、誰だれにも構かまってもらいたくない、っていう気持きもちがわかるように思おもえてきたんです」

一いち枚まいの布ぬの切きれのため、右みぎからも左ひだりからも無法むほうに痛いためつけられ、一生いっしょうをめちゃめちゃにされてみれば、人ひとを憎にくみ世間せけんを憎にくむのは当然とうぜんなことだ。いまはその憎にくむ心こころでいっぱいなのだ、無事ぶじ平穏へいおんにくらしている者ものを見みれば、ただ憎悪ぞうおをかきたてられるだけであろう。これは栄さかえさんの気持きもちがしずまるまで、近ちかよらないほうがいいかもしれない。

「あたしそう思おもったのよ」とおすえは弱よわよわしい声こえになって云いった、「――それでもときどきがまんできなくなって、夢中むちゅうでうちをでかけたこともあるわ、栄さかえさんがこの寄場よせばで人足にんそくなんかをしていると思おもうと、胸むねのここが裂さけるように苦くるしくなって、どうしてもじっとしていられないの、かあっとなってとびだして、よく向むこうの鉄砲洲河岸てっぽうずがしまで来きたものよ」

けれども河岸かしへ来きて石川いしかわ島とうを見みると、急きゅうにこわくなって足あしがすくんでしまう。自分じぶんがゆけばまた、世間せけんや人ひとを憎にくむ栄さかえさんの怒いかりを煽あおるだけだろう、いってはいけない、もう少すこし辛抱しんぼうしよう、そう思おもい返かえし、自分じぶんをなだめすかすようにしてそこから帰かえった。

「こんどの大おおあらしで、まっ先さきに考かんがえたのはここのことだったわ」とおすえはちょっとまをおいて続つづけた、「――夜よなか過すぎだわね、だんだん風かぜは強つよくなるばかりだし、お父ちちっつぁんは上あげ潮しおが心配しんぱいだって云いうの、この風かぜが潮しおのいっぱいになる刻こくまでやまなければ、深川ふかがわの海うみっぺりは水みずにつかるだろうって、――深川ふかがわが水みずにつかるならここはなおさらでしょ、町まち木戸きどやなにかがなければ、あたしそのままここへとんで来きたかったわ」

女衒ぜげんの六ろくはなぜそんなことをした、と栄二えいじは思おもっていた。六ろくは避難ひなんする船ふねに乗のったが、船ふねからおりるとき、繩なわ細工さいくをする老人ろうじんが海うみへ落おち、それを救すくおうとしてとび込こんだ。そして老人ろうじんといっしょに溺おぼれ死しんだ、というのである。――避難ひなんした人足にんそくたちは、五いつ日かめまでに一人ひとり残のこらず帰かえったが、その出来事できごとを見みた者ものが六、七ろくしち人にんもいたし、六ろくの死し躰からだはそのまえに発見はっけんされていた。その船ふねは中洲なかすへ着ついたのであるが、六ろくの死し躰からだは干潮かんちょう時じに流ながされ、佃島つくだじまの岸きしの杭くいにひっかかってい、水玉みずたま模様もようの仕す着ぎで、すぐに寄場よせばへ知しらせがあった。老人ろうじんの死し躰からだはもっと遠とおくまで流ながされたのだろう、まだどこからもみつかった知しらせはないけれども、六ろくがその老人ろうじんを救すくおうとしたという話はなしは、寄場よせばぜんたいに大おおきな驚おどろきと賞讃しょうさんを呼よびおこした。――あれだけの烈風れっぷうと怒濤どとうでは、よほど水練すいれんに長ちょうじた者ものでも、溺おぼれる人間にんげんを救すくうことは不ふ可能かのうだろう。おそらく水練すいれんを知しらないからこそ六ろくはとび込こんだのであろうが、女衒ぜげんなどという卑いやしいことをして、多おおくの女おんなたちの血ちを啜すすったような男おとこが、どんな気持きもちでそんなまねをしたのか、栄二えいじには理解りかいがつかなかった。

「本当ほんとうになんでもなかったんですか」とおすえは云いい続つづけていた、「あんなに壊こわれたり流ながされたりした建物たてものがあるのに、栄さかえさんにけがはなかったんですか」

「え、ああおれか」栄二えいじは海うみを眺ながめたままで、ぼんやりと答こたえた、「おれはごらんのとおりさ、がっかりしたかい」

「栄ひさしさん」とおすえが云いった。

「人間にんげんてやつはおかしなもんだ」栄二えいじは独ひとり言ごとのように呟つぶやいた、「まったくおかしなもんだ、わけがわからねえ」

「それはどういうこと」

「おめえには関係かんけいのねえ話はなさ」と云いって、栄二えいじは感情かんじょうのない眼めつきでおすえを見みた、「もう帰かえったほうがいいぜ、おらあ片かたづけ仕事しごとのさいちゅうなんだ、いそがしいんだから」

おすえは袂たもとから幾いく通つうかの手紙てがみを出だし、包つつみの上うえへのせて栄二えいじに渡わたした。

「さぶちゃんの手紙てがみよ」とおすえは顔かおをそむけて云いった、「向むこう河岸かしまで来きたけれど、いつも持もって帰かえっちゃったの、それで四よん通つうも溜たまっちゃったけれど、堪忍かんにんしてちょうだい」

そしておすえは、栄二えいじから逃にげるように去さっていった。

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