海はまだ土色に濁っていたが、空気は澄みあがって、はるかに、房州の山が青ずんで見えた。
「あたしいろいろ考えたんです」とおすえは風呂敷包みを抱え直しながら云った、「――自分ではこれからも五日おきにきっと来よう、栄さんが会ってくれなくってもいい、さぶちゃんがしたように、これが必要だなと思う物を揃えて、届けるだけでも届けようって、――でもうちへ帰ってからいろいろ考えてみると、栄さんが誰にも会いたくない、誰にも構ってもらいたくない、っていう気持がわかるように思えてきたんです」
一枚の布切のため、右からも左からも無法に痛めつけられ、一生をめちゃめちゃにされてみれば、人を憎み世間を憎むのは当然なことだ。いまはその憎む心でいっぱいなのだ、無事平穏にくらしている者を見れば、ただ憎悪をかきたてられるだけであろう。これは栄さんの気持がしずまるまで、近よらないほうがいいかもしれない。
「あたしそう思ったのよ」とおすえは弱よわしい声になって云った、「――それでもときどきがまんできなくなって、夢中でうちをでかけたこともあるわ、栄さんがこの寄場で人足なんかをしていると思うと、胸のここが裂けるように苦しくなって、どうしてもじっとしていられないの、かあっとなってとびだして、よく向うの鉄砲洲河岸まで来たものよ」
けれども河岸へ来て石川島を見ると、急にこわくなって足がすくんでしまう。自分がゆけばまた、世間や人を憎む栄さんの怒りを煽るだけだろう、いってはいけない、もう少し辛抱しよう、そう思い返し、自分をなだめすかすようにしてそこから帰った。
「こんどの大あらしで、まっ先に考えたのはここのことだったわ」とおすえはちょっとまをおいて続けた、「――夜なか過ぎだわね、だんだん風は強くなるばかりだし、お父っつぁんは上げ潮が心配だって云うの、この風が潮のいっぱいになる刻までやまなければ、深川の海っぺりは水につかるだろうって、――深川が水につかるならここはなおさらでしょ、町木戸やなにかがなければ、あたしそのままここへとんで来たかったわ」
女衒の六はなぜそんなことをした、と栄二は思っていた。六は避難する船に乗ったが、船からおりるとき、繩細工をする老人が海へ落ち、それを救おうとしてとび込んだ。そして老人といっしょに溺れ死んだ、というのである。――避難した人足たちは、五日めまでに一人残らず帰ったが、その出来事を見た者が六、七人もいたし、六の死躰はそのまえに発見されていた。その船は中洲へ着いたのであるが、六の死躰は干潮時に流され、佃島の岸の杭にひっかかってい、水玉模様の仕着で、すぐに寄場へ知らせがあった。老人の死躰はもっと遠くまで流されたのだろう、まだどこからもみつかった知らせはないけれども、六がその老人を救おうとしたという話は、寄場ぜんたいに大きな驚きと賞讃を呼びおこした。――あれだけの烈風と怒濤では、よほど水練に長じた者でも、溺れる人間を救うことは不可能だろう。おそらく水練を知らないからこそ六はとび込んだのであろうが、女衒などという卑しいことをして、多くの女たちの血を啜ったような男が、どんな気持でそんなまねをしたのか、栄二には理解がつかなかった。
「本当になんでもなかったんですか」とおすえは云い続けていた、「あんなに壊れたり流されたりした建物があるのに、栄さんにけがはなかったんですか」
「え、ああおれか」栄二は海を眺めたままで、ぼんやりと答えた、「おれはごらんのとおりさ、がっかりしたかい」
「栄さん」とおすえが云った。
「人間てやつはおかしなもんだ」栄二は独り言のように呟いた、「まったくおかしなもんだ、わけがわからねえ」
「それはどういうこと」
「おめえには関係のねえ話さ」と云って、栄二は感情のない眼つきでおすえを見た、「もう帰ったほうがいいぜ、おらあ片づけ仕事のさいちゅうなんだ、いそがしいんだから」
おすえは袂から幾通かの手紙を出し、包みの上へのせて栄二に渡した。
「さぶちゃんの手紙よ」とおすえは顔をそむけて云った、「向う河岸まで来たけれど、いつも持って帰っちゃったの、それで四通も溜っちゃったけれど、堪忍してちょうだい」
そしておすえは、栄二から逃げるように去っていった。