← Library‹ さぶ 九の三

栄二えいじはわれ知しらず微笑びしょうした。相あい変かわらず歯切はぎれのいい口くちぶりだし、自分じぶんの手てで出だしながら「あたしの土産みやげ」とはっきり云いうところなど、いかにもおのぶらしかったからである。

「さぶがどうかしたのか」

「やっぱり知しらさなかったのね」おのぶはたたんだ手拭てぬぐいで額がくの汗あせを拭ふきながら云いった、「あのひと小舟こぶね町まちから暇ひまを出だされたのよ」

栄二えいじは疑うたがわしげな眼めをした、「だってあいつは、病気びょうきで葛西かさいへ帰かえってるんだろう」

「それが六ろく月がつ限かぎりで暇ひまを出だされたんですって、おまけに手紙てがみ一いち本ほんでよ」

「誰だれから聞きいた」

「さぶちゃんからじかによ」とおのぶは自分じぶんのことのようにけしきばんで云いった、「――そんな手紙てがみを貰もらったので、さぶちゃんはすぐに小舟こぶね町まちへいったんですって、その帰かえりにすみよしへ寄よったの」

「脚気かっけのうえに腹はらまでわるくしていたって聞きいたがな」

「そうよ、ひどい恰好かっこ」おのぶは眉まゆをしかめた、「顔かおも手ても痩やせっこけちゃって、足あしだけがこんなにむくんでるの、おじいさんみたいに杖つえをついて、一ひとつ拾ひろいにそろそろあるく恰好かっこったら、ほんとに見みられたもんじゃなかったわ」

ひどい下痢げりが十とお日かも続つづいたあとで、まだ寝ねていたのだが出でて来きた。小舟こぶね町まちへいったが親方おやかたには会あえず、兄弟きょうだい子しの五郎ごろうが応対おうたいに出でた。仕事しごとがひまになったので人ひとべらしをする、おまえの病気びょうきは治なおりにくいようだし、先さきの見込みこみもあまりないから、この辺へんで身みをひいてもらうことになった。そう云いって、預あずかっていた給きゅう銀ぎんに一両いちりょう添そえて出だした、ということであった。

「そのときすぐ隣となりの部屋へやで、おかみさんが誰だれかと話はなしていたんですって」とおのぶはきつい眼めつきをして云いった、「大おおきな声こえで話はなしたり笑わらったりしているくせに、おしまいまで顔かおも見みせないし声こえもかけなかったっていうわ」

栄二えいじは静しずかに首くびを振ふった、「そいつはなにかわけがあるな、仕事しごとがひまになったからって、夏場なつばになれば毎年まいとしのこった、おまけにさぶは病気びょうきじゃあねえか、いくらなんだってそんなことで病人びょうにんに暇ひまを出だす筈はずがねえ、そいつはなにかわけがあるに相違そういねえ」

「あたしもそう思おもったわ、それでいろいろきいてみたんだけれど、さぶちゃんにはなんにも思おもい当あたることがないって云いうの」

「あいつはてんで鈍にぶいからな」

「そう思おもって、栄さかえさん」おのぶは怒おこったように栄二えいじを見みた、「さぶちゃんが思おもい当あたることはないって云いったのは、さぶちゃんがてんで鈍にぶいから、だっていうの」

栄二えいじは眼めを細ほそめて、じっとおのぶの顔かおを見みまもった。

「栄ひさしさんは苦労くろう知しらずよ」とおのぶは静しずかな口くちぶりで云いった、「――金襴きんらんの切きれのことや、そのあと、あんたがどんなひどいめにあったかということは聞きいたわ、あんたがすみよしで酔よいつぶれたとき、あたしそんな栄ひさしさんは嫌きらいだって云いったわね、わけを聞きいたときすぐにそれを思おもいだして、たとえ知しらなかったにしてもなんて悪わるいことを云いったんだろうって、あたしずいぶん自分じぶんを憎にくんだもんだわ」

あたしはすぐにとんで来きたかった、自分じぶんが思おもい遣やりのないことを云いったからではない、さぶちゃんは与力よりきの青木あおきさんていう人ひとから詳くわしい話はなしを聞きいたし、三さん月がつには金襴きんらんのこともわかった。さぶちゃんからそれをうちあけられて、あんたがどんな気持きもちでいるかと思おもうと、いても立たってもいられなくなった。けれどもさぶちゃんはあたしを止とめ、おすえさんにもまだないしょにしている、栄さかえさんは気きが立たっていて会あいたがらないし、いま会あいにゆけば、却かえって怒いかりをかきたてるだけだろう、もう少すこしようすをみてからにするほうがいいと、繰返くりかえし云いった。

「病気びょうきで葛西かさいへ帰かえるまで、さぶちゃんの頭あたまは栄さかえさんのことでいっぱいだったのよ、あんたの身みになって考かんがえて、会あいにいこうとするあたしのこともよせと止とめたし、おすえさんには心配しんぱいさせまいとして、なにもかもないしょにしていたのよ、――それだのに」と云いっておのぶは声こえを低ひくくした、「あんたはそうやってあぐらをかいて、さぶはてんで鈍にぶいやつだなんて云いって、すましてる、そんなにひどいめにあったっていうのに、栄さかえさんはちっとも変かわってはいないわ、元もとどおり頭あたまのいい、おとこまえの、苦労くろう知しらずよ」

「褒ほめてもらうほどのことじゃあねえさ」と栄二えいじが云いい返かえした、「けれども、さぶを鈍にぶいやつだと云いったのは悪わるくちじゃあねえぜ」

「そんなことわかってるわよ、あんたとさぶちゃんの仲なかですもの、あんたが悪わるい気持きもちでそんなことを云いう筈はずがないじゃないの」

「そんならなにを怒おこってるんだ」

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