おのぶはまた、栄二の顔をまともにじっとみつめた。
「さぶちゃんが小舟町からなぜ暇を出されたか、あたし栄さんならすぐに思い当るとおもってたわ」
「のぶ公はどうなんだ」
「あたしはばかだからだめ」と云っておのぶはべそをかくような顔をした、「でもさぶちゃんの話す口裏から、およそのことは察しがついたわ、そう云えばあんたにも察しがつくでしょ、栄さん」
栄二は壁の一点をみつめたまま考えてい、口の中で「まさか」と呟いてから、おどろいたようにおのぶへ振り向いた。
「まさか、そんな」と彼は云った。
おのぶはゆっくり頷いた、「そうなのよ、本当のわけはそれなのよ」
「だってさぶは用心した筈だ、人に気づかれない用心ぐらいした筈じゃないか」
「五日ごとにどこかへでかければ、どんなに用心したって、人の眼につかずにはいないでしょ」とおのぶは云った、「――それでなくっても栄さんのことで、小舟町では神経を尖らしてたでしょうもの、そんなためしのないさぶちゃんが、五日めごとにそっとでかけるのを、気づかずにいる道理がないじゃありませんか」
栄二は口をつぐみ、腕組みをして眼をつむった。そうだ、寄場にいるおれをたずねたため、さぶは暇を出されたのだ。疑われないように用心したことだろうが、さぶにはそれほど巧みなことはできない。おれのところへ差入れに来る、ということがわかったら、芳古堂でそのままにしておけないのは当然だろう。親方の芳兵衛にとっては、なにより「芳古堂」の名が大切なのだ。栄二は歯を噛みしめた。それで顎の肉の動くのが見えた。
「あたしがなぜこんなことを云いに来たか、栄さんにわかって」とおのぶが云った、「――ねえ、栄さんは自分のされたことがゆるせなくって、ここから出たら思う存分に仕返しをする、っていうつもりらしいわね」
栄二はなにも云わなかった。
「その気持はよくわかるけれど、それはあんまり自分本位すぎやしないかしら、ねえ、うまく仕返しができればいいわ、でも相手だってそれをぼんやり待ってやしないでしょ、向うには金も力もあるのよ、現に無実の罪であんたがここへ送り込まれたじゃないの、もちろん、それだって人間の一心ほど強いものはないというから、仕返しをしようとすればできるかもしれないし、うまくできれば栄さんの気は晴れるでしょ、栄さんの気持だけはね」と云っておのぶは眼をきらきらさせた、「――けれどもそのとき、さぶちゃんはどうなるの、おすえさんはどうなると思うの」
栄二はまだ腕組みのままで、かなりながいこと身動きもしなかった。
「なにかが始まると」と云いかけた栄二は、大きな咳をして、組んだ腕を解き、片手で膝を撫でながら云った、「――それを終らせるのは容易なこっちゃねえな」
「終らないものにかかりあうことはないでしょ、いますぐにとは云わないけれど、仕返しなんていうつまらないことより、栄さんのために苦労もし心配もしている人たちのことを考えてちょうだい」
栄二は立ちあがって窓のところへゆき、暫く外を眺めていた。そっちは北側で、伸びあがれば大川が見える。八月の晴れた空に、眩しいほど白い雲が幾つか浮かび、それを背景に、ごみのようなものが飛んでいると思ったら、赤蜻蛉の群れであった。
「女衒の六は死んだよ」と栄二はおのぶに背を向けたままで云った、「このまえの大あらしのときに、船から落ちた年寄りを助けようとして溺れたんだそうだ」
「――女衒の六ですって」
「ここでは次郎吉と名を変えてた」と云って彼は向き直った、「なかまに追われてたって聞いたが、あいつは江戸から逃げだしたんじゃあなく、この寄場へもぐり込んでいたんだ」
「そして、――人を助けたんですって」
「助けようとして溺れ死んだんだ、おれは知らねえが幾人もそれを見た者がいる、――あの人でなしの六がだぜ」
おのぶはふた息ばかり栄二を見ていて、それからきいた、「どうして六だとわかって」
「話してる口ぶりで気がついたんだ、それから」と云いかけたが、彼は首を振った、「――人間てやつはときによって、どんなことをするか予測のつかねえもんだと思ったよ」
「そうね、――それでもここから出れば、たぶんまた人を泣かせたでしょうにね」おのぶはそう云って溜息をついた、「でもあたしには本当とは思えないわ、あいつはしんそこげじげじで、昔っから首くくりの足を引張るようなまねしきゃできない男だったのにね」
「いまは小塚っ原の無縁墓だ」と栄二はまた窓の外へ眼をやりながら云った、「――げじげじなんて云われるほどあくどいことをしても、結局いいめは出なかったんだな」
おのぶは黙って自分の膝を見ていた。
頭のいい、おとこまえの、苦労知らず。おのぶにきめつけられたその言葉が、栄二の頭に根深く刻み込まれた。自分本位で、自分がくやしいから仕返しをする、そのことだけを思い詰めて、栄二のために苦労している者のことを考えない。ふん、のぶ公のやつ、自分こそ苦労知らずだということを知らねえな。おれのやられた四半分でもやられてみるがいい、そうすれば、人間が仕返しをしずにはいられない、という気持がわかるだろう。そう反撥してみるのだが、それでもなお、頭のいい、おとこまえの、苦労知らず、という言葉は彼の頭から消えなかった。
「ええ、くだらねえ」栄二は仮小屋を建てる板を運びながら呟いた、「――将軍さまにくどかれたって、やるといったらおらあやるんだ、みていやあがれ」