← Library‹ さぶ 九の四

おのぶはまた、栄二えいじの顔かおをまともにじっとみつめた。

「さぶちゃんが小舟こぶね町まちからなぜ暇ひまを出だされたか、あたし栄さかえさんならすぐに思おもい当あたるとおもってたわ」

「のぶ公こうはどうなんだ」

「あたしはばかだからだめ」と云いっておのぶはべそをかくような顔かおをした、「でもさぶちゃんの話はなす口裏くちうらから、およそのことは察さっしがついたわ、そう云いえばあんたにも察さっしがつくでしょ、栄さかえさん」

栄二えいじは壁かべの一いち点てんをみつめたまま考かんがえてい、口くちの中なかで「まさか」と呟つぶやいてから、おどろいたようにおのぶへ振ふり向むいた。

「まさか、そんな」と彼かれは云いった。

おのぶはゆっくり頷うなずいた、「そうなのよ、本当ほんとうのわけはそれなのよ」

「だってさぶは用心ようじんした筈はずだ、人ひとに気きづかれない用心ようじんぐらいした筈はずじゃないか」

「五いつ日かごとにどこかへでかければ、どんなに用心ようじんしたって、人ひとの眼めにつかずにはいないでしょ」とおのぶは云いった、「――それでなくっても栄ひさしさんのことで、小舟こぶね町まちでは神経しんけいを尖とがらしてたでしょうもの、そんなためしのないさぶちゃんが、五いつ日かめごとにそっとでかけるのを、気きづかずにいる道理どうりがないじゃありませんか」

栄二えいじは口くちをつぐみ、腕組うでぐみをして眼めをつむった。そうだ、寄場よせばにいるおれをたずねたため、さぶは暇ひまを出だされたのだ。疑うたがわれないように用心ようじんしたことだろうが、さぶにはそれほど巧たくみなことはできない。おれのところへ差入さしいれに来くる、ということがわかったら、芳かおる古こ堂どうでそのままにしておけないのは当然とうぜんだろう。親方おやかたの芳兵衛よしべえにとっては、なにより「芳かおる古こ堂どう」の名なが大切たいせつなのだ。栄二えいじは歯はを噛かみしめた。それで顎あごの肉にくの動うごくのが見みえた。

「あたしがなぜこんなことを云いいに来きたか、栄さかえさんにわかって」とおのぶが云いった、「――ねえ、栄さかえさんは自分じぶんのされたことがゆるせなくって、ここから出でたら思おもう存分ぞんぶんに仕返しかえしをする、っていうつもりらしいわね」

栄二えいじはなにも云いわなかった。

「その気持きもちはよくわかるけれど、それはあんまり自分じぶん本位ほんいすぎやしないかしら、ねえ、うまく仕返しかえしができればいいわ、でも相手あいてだってそれをぼんやり待まってやしないでしょ、向むこうには金かねも力ちからもあるのよ、現げんに無実むじつの罪つみであんたがここへ送おくり込こまれたじゃないの、もちろん、それだって人間にんげんの一心いっしんほど強つよいものはないというから、仕返しかえしをしようとすればできるかもしれないし、うまくできれば栄さかえさんの気きは晴はれるでしょ、栄さかえさんの気持きもちだけはね」と云いっておのぶは眼めをきらきらさせた、「――けれどもそのとき、さぶちゃんはどうなるの、おすえさんはどうなると思おもうの」

栄二えいじはまだ腕組うでぐみのままで、かなりながいこと身動みうごきもしなかった。

「なにかが始はじまると」と云いいかけた栄二えいじは、大おおきな咳せきをして、組くんだ腕うでを解とき、片手かたてで膝ひざを撫なでながら云いった、「――それを終おわらせるのは容易よういなこっちゃねえな」

「終おわらないものにかかりあうことはないでしょ、いますぐにとは云いわないけれど、仕返しかえしなんていうつまらないことより、栄さかえさんのために苦労くろうもし心配しんぱいもしている人ひとたちのことを考かんがえてちょうだい」

栄二えいじは立たちあがって窓まどのところへゆき、暫しばらく外そとを眺ながめていた。そっちは北側きたがわで、伸のびあがれば大川おおかわが見みえる。八はち月がつの晴はれた空そらに、眩まぶしいほど白しろい雲くもが幾いくつか浮うかび、それを背景はいけいに、ごみのようなものが飛とんでいると思おもったら、赤蜻蛉あかとんぼの群むれであった。

「女衒ぜげんの六ろくは死しんだよ」と栄二えいじはおのぶに背せを向むけたままで云いった、「このまえの大おおあらしのときに、船ふねから落おちた年寄としよりを助たすけようとして溺おぼれたんだそうだ」

「――女衒ぜげんの六ろくですって」

「ここでは次郎吉じろきちと名なを変かえてた」と云いって彼かれは向むき直なおった、「なかまに追おわれてたって聞きいたが、あいつは江戸えどから逃にげだしたんじゃあなく、この寄場よせばへもぐり込こんでいたんだ」

「そして、――人ひとを助たすけたんですって」

「助たすけようとして溺おぼれ死しんだんだ、おれは知しらねえが幾いく人にんもそれを見みた者ものがいる、――あの人ひとでなしの六ろくがだぜ」

おのぶはふた息いきばかり栄二えいじを見みていて、それからきいた、「どうして六ろくだとわかって」

「話はなしてる口くちぶりで気きがついたんだ、それから」と云いいかけたが、彼かれは首くびを振ふった、「――人間にんげんてやつはときによって、どんなことをするか予測よそくのつかねえもんだと思おもったよ」

「そうね、――それでもここから出でれば、たぶんまた人ひとを泣なかせたでしょうにね」おのぶはそう云いって溜息ためいきをついた、「でもあたしには本当ほんとうとは思おもえないわ、あいつはしんそこげじげじで、昔むかしっから首くびくくりの足あしを引張ひっぱるようなまねしきゃできない男おとこだったのにね」

「いまは小塚こづかっ原ぱらの無縁むえん墓ぼだ」と栄二えいじはまた窓まどの外そとへ眼めをやりながら云いった、「――げじげじなんて云いわれるほどあくどいことをしても、結局けっきょくいいめは出でなかったんだな」

おのぶは黙だまって自分じぶんの膝ひざを見みていた。

頭あたまのいい、おとこまえの、苦労くろう知しらず。おのぶにきめつけられたその言葉ことばが、栄二えいじの頭あたまに根深ねぶかく刻きざみ込こまれた。自分じぶん本位ほんいで、自分じぶんがくやしいから仕返しかえしをする、そのことだけを思おもい詰つめて、栄二えいじのために苦労くろうしている者もののことを考かんがえない。ふん、のぶ公こうのやつ、自分じぶんこそ苦労くろう知しらずだということを知しらねえな。おれのやられた四半しはん分ぶんでもやられてみるがいい、そうすれば、人間にんげんが仕返しかえしをしずにはいられない、という気持きもちがわかるだろう。そう反撥はんぱつしてみるのだが、それでもなお、頭あたまのいい、おとこまえの、苦労くろう知しらず、という言葉ことばは彼かれの頭あたまから消きえなかった。

「ええ、くだらねえ」栄二えいじは仮かり小屋こやを建たてる板いたを運はこびながら呟つぶやいた、「――将軍しょうぐんさまにくどかれたって、やるといったらおらあやるんだ、みていやあがれ」

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