南の護岸修理が終りかけていた。
九月も下旬になり、よく晴れた日が続いて、干潟へおりると、富士の山がきれいに見えることもあった。万吉はその眺めに千両二分という値をつけた。二分とはなんのことだ、と側にいた男がきいた。千両はとおり相場だから、おれはそれに二分だけ掛けたんだ、と万吉ははらの太いところをみせた。
七月のあらしがあってから、寄場の中にはそれまでにない、なごやかで親密な気風がうまれたようであった。それに反して、栄二はまた口数が少なくなり、誰が話しかけても相手にしないし、諄いことを云うとどなりつけるか、そっぽを向いてよそへいってしまうかする。そして、いつもできるだけ独りでいようとするのであった。
おすえは月に三度、一日、十一日、二十一日の、休みごとにたずねて来たが、栄二は会わなかった。その後は岡安も諦めたのか、しいて会わせようとはせず、差入れの品だけを部屋へ届けてよこした。栄二はそれを部屋の者に与え、自分では手もつけず、なにがはいっているのか見ようともしなかった。――休みの日には、栄二はきまったように南の海辺へゆき、岸に近いところの草の上へ腰をおろしたり寝ころんだりして、殆んど一日をすごすのが例になった。
「さぶか、ばかなやつだ」彼は唇を歪めながら呟く、「頼みもしねえのに、おれのことでうろうろして、十年の余も勤めた店から暇を出されやあがった、こんどこそおれの気持がちっとはわかったろう」
「よしゃあがれ、おれに構うな」と低い声で叫ぶこともあった、「ほっといてくれ、おれは去年の暮に死んだも同然なんだ、どんなにおだてたってこの気持は変りゃあしねえ、うっちゃっといてくれ」
「へ、砂金掘りか、くだらねえ」と冷笑し、肩をすくめる、「――まじめに砂金を持って交換にいき、帰りに熊にやられて死んだ男は不運か、しかもなかまの二人は騙されたと思って、その男を呪いさえしたっていう、ちげえねえ、慥かにそいつは不運だろう、しかし、それがこのおれとなんのかかわりがある、冗談じゃあねえ、こっちは人間どうしのこった、金持が金の力で、目明しがお上の威光をかさに、なんの咎もねえ者を罪人にし、半殺しのめにあわせたんだぜ、――その男を殺した熊はけだものだが、こっちは現に江戸市中で、大手を振ってのさばってるんだ、あいつらに思い知らせてやらねえうちは、おらあ死んでも死にきれねえんだ」
栄二の眼から涙がこぼれ落ちる。彼は唇をひきむすんで嗚咽をこらえ、海のかなたへ眼をやりながら、そっと頭を左右に振る。あくまで青く澄んだ海の上を、大きな帆をあげた船が何十艘となく、房州のほうから品川のほうへと、群れをなしてすべっている。それらが木更津周辺の漁船で、網を曳いて魚を捕りながら芝浜へ着き、芝浜で魚をおろすと、また魚を捕りながら房州へ帰る、ということは、誰から聞くともなく聞いていた。
「七月のあらしのときはどうしたろう」栄二は眼を細めて、みごとな白帆の群れを眺めながら呟く、「――漁に出ていた船もあったろうし、出ていたとすれば逃げきれずに、沈んじまった船もあるだろう、女房や子のある男は、もう助からないとわかったときどんな気持だったか、亭主に死なれた女房や子はどんなに嘆いたか、おそらく海を呪い、漁師という稼業を憎んだことだろう、それでもやっぱり、ああして漁をする者が絶えないんだな」
南の海辺ですごすとき、栄二はひっきりなしに独り言を云う、その大半はさぶとおすえのことであり、自分をなだめようとする役人たちへの嘲笑であった。
十月になり、護岸修理もあと一日か二日で終るところまできていた。そのためもっこ部屋の人足たちの多くは、埋立て工事のため出仕事にまわされ、南の浜現場には小頭の伝七とも七人しか働いていなかった。――その日は朝から風が強く、海はひどく波立っていて、杭打ちをするには干潮を待たなければならなかった。潮がすっかりひいても、大潮の季節とは違うため、岸から五十間あまりしか干潟にならず、一刻たらずでその潮は岸まで戻るのであった。
「杭はあと五本だ」と小頭の伝七は云った、「うまくゆけば今日じゅうに片づいちまうぞ」
石垣の外に沿って杉丸太の杭を打込む。もちろん荒波から石垣を護るためで、これまでに五十七本も打込んできた。石垣の外は砂を五、六尺も掘ると土の地盤が出る、その地盤に穴を掘って、先端を尖らした杉丸太を嵌め、逆槌で打込むという単純な仕事だった。栄二は地盤に穴を掘る役にまわった。逆槌というのは槌の部分が上にあり、三つの柄が下に付いていて、三人がその柄を取り、杉丸太の上へ槌の部分をのせて、下へ向けて打ちおろすのである。三人が力を合わせ、いっしょに掛け声をあげながらする仕事なので、栄二は独りでできる穴掘りを選んだのであった。
あと五本だという、その四本めの穴を掘っていたとき、突然、石垣が崩れて栄二をその下へ押しつぶした。五、六尺も掘りひろげた砂の穴の上へ、崩れ落ちた石は不規則なかたちで、砂といっしょに穴を埋め、栄二は背骨を強く打たれて息が詰った。
「大変だ、来てくれ」という誰かの声が聞えた、「誰か埋まっちゃったぞ、石垣の崩れた下に誰かがいるぞ」