← Library‹ さぶ 十の三

――あのとき気きを失うしなったままでいたら、それともいっそ死しんでいたらどんなによかったろうか。

あとになって栄二えいじは幾いくたびもそう思おもった。いちど失神しっしんした彼かれは、折おれた脛すねの傷きずに塩水しおみずのしみる痛いたさでわれに返かえった。それから本当ほんとうの恐怖きょうふと苦くるしみが始はじまったのだ。失神しっしんしていた時間じかんがどのくらいかわからないが、われに返かえってみるとまだ石いしに敷しかれたままで、そのうえあげ潮しおの波なみがそこまで来きていたし、水みずは上うえと下したとからじりじりと砂すなを崩くずした。幾いくつかは取とりのけられたのだろうが、上うえから圧おしつける石いしの重おもさは変かわらず、背せから腰こしへかけてまったく躯むくろが動うごかない。その圧迫あっぱくで呼吸こきゅうが三さん分ぶんの一いち量りょうぐらいしかできないためか、胸むねを掻かき毮むしりたいような苦痛くつうで眼めが昏くらんだ。

それは苦痛くつうなどというものではなかった。栄二えいじは自分じぶんがまだ死しにきれずにいることを呪のろい、「さぶ、助たすけてくれ」と、さらに二に度どまで叫さけんだ。その叫さけびは声こえにはならなかったが、なにも見みえないまっ赤かな空間くうかんに、さぶのおろおろしているような顔かおが、おぼろげに見みえつ消きえつした。砂すなを混まじえた水みずはすでに彼かれの顔かおを浸ひたし始はじめた。恐怖きょうふのため感覚かんかくが麻痺まひしていて、半なかばあいている口くちの中なかへ、砂すな混まじりの水みずがはいって来きても、それがなにを意味いみするかを理解りかいすることはできなかった。

――もう勘弁かんべんしてくれ、おれが悪わるかった、と彼かれは恐怖きょうふの中なかで云いった。なにもかもおれの間違まちがいだ、頼たのむ、みんな勘弁かんべんしてくれ。

与平よへいの泣なき叫さけぶ声こえが、遠とおいかなたで聞きこえていた。他ほかの男おとこたちの喚わめき声ごえも聞きこえたが、逆上ぎゃくじょうしたような与平よへいの泣なき声ごえだけが、いつまでも続つづいているようであった。そのあいだに次々つぎつぎと石いしが取とりのけられた。油あぶら部屋へやの者ものが駆かけつけて来き、こぶの清七せいしちがその強力ごうりきにものをいわせたのだ。

「しっかりしろぶしゅう」と清七せいしちはどなり続つづけた、「気きをおとしちゃだめだ、もうすぐだぞ、しっかりするんだぞ」

栄二えいじはまた失神しっしんしたが、それは短みじかい時間じかんだったらしい。水みずを吐ぬかされて咳せきこみ、気きがつくと仰向あおむけに寝ねていて、自分じぶんの口くちから出でる激はげしい喘あえぎが耳みみについた。

「そっとしてそっとして」と云いう声こえがすぐ脇わきで聞きこえた、「動うごかすな、足あしの骨ほねが折おれてる」

医者いしゃだな、と栄二えいじは思おもった。さんてつ先生せんせいとかいうほかには姓名せいめいもよくは知しらなかった。中年ちゅうねんの痩やせた人ひとで、眼めつきのするどい顔かおだけは覚おぼえがある、暴風ぼうふうで病人びょうにんを運はこび出だすときにはいなかったようだが、そういえば心学しんがく教師きょうしもこの医者いしゃも、殆ほとんど無む報酬ほうしゅうでやっていると聞きいた。いよいよおれが世話せわになる番ばんか、などと栄二えいじは思おもった。

「この骨折こっせつのほかに大おおきなけがはないようです」と医者いしゃが云いった、「うちみはかなりあるようですが、ほかに骨ほねの折おれたところはないでしょう、あとでよく診みなければ慥たしかなことはいえませんが」

「よかった、それはよかった」と云いう岡安おかやす喜兵衛きへえの声こえが聞きこえた、「石いしと石いしが支ささえあったんだな、知しらせを聞きいてとんで来きたときにはもうだめかと思おもった」

「ぶしゅう、大丈夫だいじょうぶか」と清七せいしちが覗のぞき込こんで声こえをかけた。

「あとであとで」と医者いしゃが慌あわてて制止せいしした、「いまはなにも云いうな、口くちをきかせてはいけないんだ、みんなもう部屋へやへ戻もどるがいいぞ」

「担かついでゆく者ものがいるでしょう」

戸板といたを持もって来こい、吊台つりだいのように紐ひもを掛かけて、下したに蒲団ふとんを敷しいて、などと医者いしゃが指図さしずをした。

栄二えいじは口くちの中なかがじゃりじゃりするので、注意ちゅういぶかく頭あたまを横よこにし、二に度ども三さん度ども唾つばをした。そのたびごとに、するどい痛いたみが全身ぜんしんにひろがった。けれども、その痛いたみがどこから起おこるのかもわからないし、口くちの中なかの砂すなはきれいにならなかった。骨折こっせつした脛すねはすぐに切開せっかいしないと、骨ほねを継つぐことができなくなる。なるべく早はやく山城やましろ河岸かしの中島なかじま先生せんせいに使つかいを出だしてくれ、と医者いしゃが云いい、岡安おかやす喜兵衛きへえがそのことを下役したやくに命めいじた。

――忘わすれないぜ、みんな、と栄二えいじは心こころの中なかで叫さけんだ。おれは片かた意地いじで、ぶあいそうで、誰だれのために気きをつかったこともなく、誰だれ一人ひとりよせつけもしなかった。

おれは自分じぶんだけのことしか考かんがえなかったのに、みんなはおれのために、日ひごろは仲なかのよくない者ものまでが力ちからを合あわせて、おれを助たすけ出だすためけんめいになってくれた。

――みんなの声こえは生涯しょうがい、忘わすれないぞ、と栄二えいじは声こえには出ださずに叫さけんだ。まるで自分じぶんのきょうだいか子こでもあるように、みんないっしょうけんめいだった。与平よへいさんは泣ないてくれたっけ、岡安おかやすさんもそうだ、これまでひねくれどおしだったこのおれは、さぞいまいましく憎にくったらしいやつだったろう、だがやっぱりとんで来きてくれた、――そうだ、それからさぶもだ。

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