――あのとき気を失ったままでいたら、それともいっそ死んでいたらどんなによかったろうか。
あとになって栄二は幾たびもそう思った。いちど失神した彼は、折れた脛の傷に塩水のしみる痛さでわれに返った。それから本当の恐怖と苦しみが始まったのだ。失神していた時間がどのくらいかわからないが、われに返ってみるとまだ石に敷かれたままで、そのうえあげ潮の波がそこまで来ていたし、水は上と下とからじりじりと砂を崩した。幾つかは取りのけられたのだろうが、上から圧しつける石の重さは変らず、背から腰へかけてまったく躯が動かない。その圧迫で呼吸が三分の一量ぐらいしかできないためか、胸を掻き毮りたいような苦痛で眼が昏んだ。
それは苦痛などというものではなかった。栄二は自分がまだ死にきれずにいることを呪い、「さぶ、助けてくれ」と、さらに二度まで叫んだ。その叫びは声にはならなかったが、なにも見えないまっ赤な空間に、さぶのおろおろしているような顔が、おぼろげに見えつ消えつした。砂を混えた水はすでに彼の顔を浸し始めた。恐怖のため感覚が麻痺していて、半ばあいている口の中へ、砂混りの水がはいって来ても、それがなにを意味するかを理解することはできなかった。
――もう勘弁してくれ、おれが悪かった、と彼は恐怖の中で云った。なにもかもおれの間違いだ、頼む、みんな勘弁してくれ。
与平の泣き叫ぶ声が、遠いかなたで聞えていた。他の男たちの喚き声も聞えたが、逆上したような与平の泣き声だけが、いつまでも続いているようであった。そのあいだに次々と石が取りのけられた。油部屋の者が駆けつけて来、こぶの清七がその強力にものをいわせたのだ。
「しっかりしろぶしゅう」と清七はどなり続けた、「気をおとしちゃだめだ、もうすぐだぞ、しっかりするんだぞ」
栄二はまた失神したが、それは短い時間だったらしい。水を吐かされて咳こみ、気がつくと仰向けに寝ていて、自分の口から出る激しい喘ぎが耳についた。
「そっとしてそっとして」と云う声がすぐ脇で聞えた、「動かすな、足の骨が折れてる」
医者だな、と栄二は思った。さんてつ先生とかいうほかには姓名もよくは知らなかった。中年の痩せた人で、眼つきのするどい顔だけは覚えがある、暴風で病人を運び出すときにはいなかったようだが、そういえば心学教師もこの医者も、殆んど無報酬でやっていると聞いた。いよいよおれが世話になる番か、などと栄二は思った。
「この骨折のほかに大きなけがはないようです」と医者が云った、「うちみはかなりあるようですが、ほかに骨の折れたところはないでしょう、あとでよく診なければ慥かなことはいえませんが」
「よかった、それはよかった」と云う岡安喜兵衛の声が聞えた、「石と石が支えあったんだな、知らせを聞いてとんで来たときにはもうだめかと思った」
「ぶしゅう、大丈夫か」と清七が覗き込んで声をかけた。
「あとであとで」と医者が慌てて制止した、「いまはなにも云うな、口をきかせてはいけないんだ、みんなもう部屋へ戻るがいいぞ」
「担いでゆく者がいるでしょう」
戸板を持って来い、吊台のように紐を掛けて、下に蒲団を敷いて、などと医者が指図をした。
栄二は口の中がじゃりじゃりするので、注意ぶかく頭を横にし、二度も三度も唾をした。そのたびごとに、するどい痛みが全身にひろがった。けれども、その痛みがどこから起こるのかもわからないし、口の中の砂はきれいにならなかった。骨折した脛はすぐに切開しないと、骨を継ぐことができなくなる。なるべく早く山城河岸の中島先生に使いを出してくれ、と医者が云い、岡安喜兵衛がそのことを下役に命じた。
――忘れないぜ、みんな、と栄二は心の中で叫んだ。おれは片意地で、ぶあいそうで、誰のために気をつかったこともなく、誰一人よせつけもしなかった。
おれは自分だけのことしか考えなかったのに、みんなはおれのために、日ごろは仲のよくない者までが力を合わせて、おれを助け出すためけんめいになってくれた。
――みんなの声は生涯、忘れないぞ、と栄二は声には出さずに叫んだ。まるで自分のきょうだいか子でもあるように、みんないっしょうけんめいだった。与平さんは泣いてくれたっけ、岡安さんもそうだ、これまでひねくれどおしだったこのおれは、さぞいまいましく憎ったらしいやつだったろう、だがやっぱりとんで来てくれた、――そうだ、それからさぶもだ。