二人が堀江町の「すみよし」へいったのは二た月のちの四月十五日だった。
夕めしのあとででかけたから、店にはもう灯がはいり、客も五、六人来ていた。このまえに会ったおかめという女は、栄二とさぶを見たが忘れてしまったのだろう、いらっしゃいと云ったまま、客の相手をしていて動かなかった。栄二はちょっと迷った。客はみな中年者で、この店の馴染らしく、場ちがいの自分たちがどこへ腰掛けたらいいか、見当がつかなかったのである。すると、土間のつきあたりにあるのれんを分けて、これもこのまえ小座敷を覗いた若い女が出て来、栄二とさぶをみつけ、大きく眼をみはって、両手をぱしっと打ち合わせながら、とんで来た。
「いらっしゃい」とその女は云った、「あたしあんたたちを知ってたのよ、このまえの座敷がいいでしょ、どうぞ」
そう云って身を翻し、またのれんの向うへ去った。栄二はさぶに眼まぜをし、女のあとからついていった。女は例の小座敷にあがり、座蒲団を並べたり莨盆を出したり、小屏風を立てたりしていた。
「あんまりせかせかするなよ」と栄二は座敷へあがりながら云った、「眼まぐるしくってしようがねえじゃねえか」
「みんなにそう云われるのよ」と女は肩をすくめてみせた、「お酒とお肴、お肴はなんにしましょうか」
「めしを喰べて来たんだ、腹に溜らねえ物を二つか三つもらおう」
「あのときとそっくりね」女は栄二を見、それからさぶを見た、「一人ずつだとわからなかったかもしれないけれど、二人いっしょだからすぐにわかったわ、あ、そうじゃなかった、このまえのときあんたたちが帰ってからわかったのよ、あっ、あの人たちだなって」
「うるせえな」と栄二が眉をしかめた、「早く注文をとおして来いよ」
「その、うるせえなっていうの」と云って女は栄二の前へ自分の顔をさしだした、「――あたしのこと、覚えていない」
「似ているのは知ってるよ」
「似ているって、あたしじゃなく」
栄二はおそのに似ていると思い、鼠が食いつこうとおもっていた、という言葉を回想して笑いそうになった。女は、あらいやだ、薄情ねと云いながら、注文をとおしにいった。
「お肴はいますぐよ」と酒だけ持って戻って来た女は、膳を一つ、二人のあいだに置いて燗徳利を取り、さぶに酌をしながら栄二を見た、「――まだあたしのこと思いださない」
栄二が盃を持ちながら、うるせえなと云うと、女はまた両手をぱしっと打ち合わせた。
「それよ、そのうるせえな、よ」と女はせきこんで云った、「両国橋のとこでさ、あんたあたしに云ったじゃない、うるせえなって」
「ああ」とさぶがまのびのした調子で、盃を持ったまま頷いた、「――傘だな」
「傘よ」と女が云った。
「五年まえだ」とさぶが云った、「そうだ、雨が降っていて、おまえさんは穴のあいた傘をさしていたっけ」
「ほんと、そのとおりよ」
「なんの話だ」と栄二がきいた。
「ほら、五年めえにおれが」と云いさしてさぶは口ごもった、「ほら、東両国から横網のほうまで、二人であるいてったことがあるじゃねえか、雨に濡れながらさ」
栄二はいま眠りからさめたような眼で、そこにいる女に振り向いた。
「ああそうか」と彼は云った、「あのとき傘をさしていけって、うるさく云った子がいたっけ、――それがおめえか」
「名まえはおのぶ」女は八重歯を見せてにっと笑い、おじぎをした、「どうぞよろしく」
「おれは栄二、こっちはさぶっていうんだ、あのときはちびだったんで思いだせなかったが、大きくなったな」栄二は自分だけの腹いせめいた気持でにやっとした、「――その八重歯には覚えがあるよ」
「あらいやだ、いじわるね」おのぶは片手で口を押えながら栄二をにらみ、またさぶに酌をした、「この八重歯は抜けるんですって、あたしいま十八でしょ、はたちになれば抜けるんですってよ」
「十八か、――それにしちゃあちびだな」
「きれえだよ」とさぶがとりなすような口ぶりで云った、「ほんとにきれえだ」
「お肴を持って来るわね」とおのぶが云った。
おのぶが去ると、さぶが栄二に酌をしようとした。栄二はそれを断わり、手酌でひと口啜った。
「まだ気になってしようがねえんだが」と栄二が脇を見ながら低い声で云った、「――先月の一日、いったいなにがあったんだ」
さぶはどきっとして、眩しそうに眼を伏せ、頭を垂れた。
「もう云ってもいいじゃあねえか」
「あのときは済まなかった」とさぶは口の中で呟いた、「栄ちゃんに心配させて済まなかったと思う、――それでおら、思うんだが」
「それはよせよ」栄二が遮った、「おめえが思うと云うといつもあと戻りをするばかりだ、肝心なことを話してくれ」
「うん」と頷いて、さぶは酒を啜ってから云った、「あの日、おみつちゃんが来たんだ」