「そうじゃねえんだ、この字はへたじゃあねえんだ」と栄二は力をこめて云った、「――おれも初めはそう思ってた、ついこのあいだまで、なんてまあへたくそな字だろうって思ってた、ところがおちついてよくよく見ると、へたどころか本筋の字だってことに気がついたんだ」
手習いをするのにうまい字を書こうと思うな、と芳古堂の親方が諄いほど云った。うまい字を書こうとすると嘘になる、字というやつはその人の本性をあらわすものだ。いくらうまい字を書いても、その人間の本性が出ていないものは字ではない。上手へたは問題ではない、自分を偽らずただ正直に書け、親方はいつもそう云っていた。
「覚えてるだろう、さぶ」栄二はさぶから手紙を取り戻し、それを膝の上でひろげた、「おめえを前に置いて云いにくいが、この字こそ本筋なんだ、仮に字だけに限るとすれば、おめえはおれの上に立ってるんだぜ」
さぶは赤くなり、ふところからたたんだ手拭を出して、額を拭き、頸を拭いた。
「おら、汗びっしょりだ」
「きざなことを云って済まなかった」栄二は手紙を巻きながら云った、「――人間には誰にも、自分では気づかない能があるらしい、おらあここへ来てそこそこ一年になるが、そのあいだにいろいろな人間や出来事をみてきた、寄場はしゃばと違って、無宿人や牢から出て来た者ばかり、ひとくちに云えば世間からはみ出た人間だ、けれども、いっしょにくらしてよく見ていると、うすのろとかぐずとか、手に負えない乱暴者とか云われる人間が、それぞれみんないいところを持っている、誰にもまねのできねえような立派な仕事をする者も幾人かいるよ、生れつきの悪党か気違いでない限り、人間にはみんな備わった能があるんだ、棟梁だからえらくって叩き大工だから能なしだなんてこたあねえ、ぼてふりの魚屋にだって、八百松の板前より庖丁のうまい人間がいるかもしれない、おらあここで一年くらしてみてそう思ったんだ、さぶ――おめえいつまでも卑下ばかりしねえで、じっくりとよく自分をみてみるんだな」
さぶはのろくさした手つきで包みを解き、晒木綿を切った下帯の束をこっちへ置き、三つの折詰を持って部屋の中を見まわした。そのとき与平が、茶の支度をして炉端からこっちへ来るところであった。
「いつもおみまいで御苦労ですね」と与平は云った、「出がらしだが一つどうぞ」
さぶは栄二のために礼を述べ、三つの折詰を差出した。そこでまたくどくどと礼の云いあいが始まり、栄二はそっぽを向いた。
――じれってえやつだ、と栄二は心の中で舌打ちをした。きっとおれの云うことなんか聞いてもいなかったんだろう、石に念仏、口がくたびれるだけだぜ。
与平が折詰を持って炉のほうへ去ると、さぶは風呂敷をたたみながら、おすえがまた女中奉公に出たと云った。
「下谷金杉のうちは、小さいけれどおやじさんが筆屋をやっていて、くらしに困ってるわけじゃねえんだ」とさぶは続けた、「――綿文へ奉公にいったのも行儀見習いだったそうだが、こんどはそうじゃねえんだよ、栄ちゃんが出て来るときのために、ちっとでも給銀をためておこうって」
「またそれか」栄二は露骨に顔をしかめた、「おれはいつここを出られるかわからない人間だ、って云ったろう、おれのことは考えるなって、おめえからはっきり云ってやってくれ、頼むぜさぶ」
さぶはあいまいに頷いた、「――いいよ、そう云うよ、云ってもしようがないだろうけれどね」
栄二は聞えないふりをしていた。
「栄さん、って云ってもいいかい」さぶが帰ったあと、与平が側へ来て話しかけた、「――岡安さんから口止めをされてたんでね」
「どう呼んだっていいさ、名まえなんか符牒みてえなもんだからな」
「おまえさんの気に障るかもしれないが」と与平はいつになく強気な調子で云った、「さぶという人にもう少し、やさしくしてやるわけにはいかないかね」
栄二は与平の顔をみつめた、「やさしくって、どういうふうに」
「それは自分でわかるだろう、あの人は暇を欠いて、あのとおりしげしげとみまいに来てくれる、どんなかかわりの人か知らないが、ちっとやそっとの気持でできることじゃあないよ、栄さんは頭がいいから、私の云うことなんぞ可笑しくもないだろうが、どんなに賢くっても、にんげん自分の背中を見ることはできないんだからね」
そして与平は向うへいった。