← Library‹ さぶ 十一の三

「そうじゃねえんだ、この字じはへたじゃあねえんだ」と栄二えいじは力ちからをこめて云いった、「――おれも初はじめはそう思おもってた、ついこのあいだまで、なんてまあへたくそな字じだろうって思おもってた、ところがおちついてよくよく見みると、へたどころか本筋ほんすじの字じだってことに気きがついたんだ」

手習てならいをするのにうまい字じを書かこうと思おもうな、と芳かおる古こ堂どうの親方おやかたが諄くどいほど云いった。うまい字じを書かこうとすると嘘うそになる、字じというやつはその人ひとの本性ほんしょうをあらわすものだ。いくらうまい字じを書かいても、その人間にんげんの本性ほんしょうが出でていないものは字じではない。上手かみてへたは問題もんだいではない、自分じぶんを偽いつわらずただ正直しょうじきに書かけ、親方おやかたはいつもそう云いっていた。

「覚おぼえてるだろう、さぶ」栄二えいじはさぶから手紙てがみを取とり戻もどし、それを膝ひざの上うえでひろげた、「おめえを前まえに置おいて云いいにくいが、この字じこそ本筋ほんすじなんだ、仮かりに字じだけに限かぎるとすれば、おめえはおれの上うえに立たってるんだぜ」

さぶは赤あかくなり、ふところからたたんだ手拭てぬぐいを出だして、額がくを拭ふき、頸くびを拭ふいた。

「おら、汗あせびっしょりだ」

「きざなことを云いって済すまなかった」栄二えいじは手紙てがみを巻まきながら云いった、「――人間にんげんには誰だれにも、自分じぶんでは気きづかない能のうがあるらしい、おらあここへ来きてそこそこ一いち年ねんになるが、そのあいだにいろいろな人間にんげんや出来事できごとをみてきた、寄場よせばはしゃばと違ちがって、無宿むしゅく人にんや牢ろうから出でて来きた者ものばかり、ひとくちに云いえば世間せけんからはみ出でた人間にんげんだ、けれども、いっしょにくらしてよく見みていると、うすのろとかぐずとか、手てに負おえない乱暴らんぼう者ものとか云いわれる人間にんげんが、それぞれみんないいところを持もっている、誰だれにもまねのできねえような立派りっぱな仕事しごとをする者ものも幾いく人にんかいるよ、生うまれつきの悪党あくとうか気違きちがいでない限かぎり、人間にんげんにはみんな備そなわった能のうがあるんだ、棟梁とうりょうだからえらくって叩たたき大工だいくだから能のうなしだなんてこたあねえ、ぼてふりの魚屋さかなやにだって、八百はっぴゃく松しょうの板前いたまえより庖丁ほうちょうのうまい人間にんげんがいるかもしれない、おらあここで一いち年ねんくらしてみてそう思おもったんだ、さぶ――おめえいつまでも卑下ひげばかりしねえで、じっくりとよく自分じぶんをみてみるんだな」

さぶはのろくさした手てつきで包つつみを解とき、晒木綿さらしを切きった下帯したおびの束たばをこっちへ置おき、三みつの折詰おりづめを持もって部屋へやの中なかを見みまわした。そのとき与平よへいが、茶ちゃの支度したくをして炉端ろばたからこっちへ来くるところであった。

「いつもおみまいで御ご苦労くろうですね」と与平よへいは云いった、「出でがらしだが一ひとつどうぞ」

さぶは栄二えいじのために礼れいを述のべ、三みつの折詰おりづめを差出さしだした。そこでまたくどくどと礼れいの云いいあいが始はじまり、栄二えいじはそっぽを向むいた。

――じれってえやつだ、と栄二えいじは心こころの中なかで舌打したうちをした。きっとおれの云いうことなんか聞きいてもいなかったんだろう、石いしに念仏ねんぶつ、口くちがくたびれるだけだぜ。

与平よへいが折詰おりづめを持もって炉ろのほうへ去さると、さぶは風呂敷ふろしきをたたみながら、おすえがまた女中じょちゅう奉公ほうこうに出でたと云いった。

「下谷したや金杉かなすぎのうちは、小ちいさいけれどおやじさんが筆ふで屋やをやっていて、くらしに困こまってるわけじゃねえんだ」とさぶは続つづけた、「――綿めん文ぶんへ奉公ほうこうにいったのも行儀ぎょうぎ見習みならいだったそうだが、こんどはそうじゃねえんだよ、栄さかえちゃんが出でて来くるときのために、ちっとでも給きゅう銀ぎんをためておこうって」

「またそれか」栄二えいじは露骨ろこつに顔かおをしかめた、「おれはいつここを出でられるかわからない人間にんげんだ、って云いったろう、おれのことは考かんがえるなって、おめえからはっきり云いってやってくれ、頼たのむぜさぶ」

さぶはあいまいに頷うなずいた、「――いいよ、そう云いうよ、云いってもしようがないだろうけれどね」

栄二えいじは聞きこえないふりをしていた。

「栄ひさしさん、って云いってもいいかい」さぶが帰かえったあと、与平よへいが側がわへ来きて話はなしかけた、「――岡安おかやすさんから口止くちどめをされてたんでね」

「どう呼よんだっていいさ、名なまえなんか符牒ふちょうみてえなもんだからな」

「おまえさんの気きに障さわるかもしれないが」と与平よへいはいつになく強気つよきな調子ちょうしで云いった、「さぶという人ひとにもう少すこし、やさしくしてやるわけにはいかないかね」

栄二えいじは与平よへいの顔かおをみつめた、「やさしくって、どういうふうに」

「それは自分じぶんでわかるだろう、あの人ひとは暇ひまを欠かいて、あのとおりしげしげとみまいに来きてくれる、どんなかかわりの人ひとか知しらないが、ちっとやそっとの気持きもちでできることじゃあないよ、栄さかえさんは頭あたまがいいから、私わたくしの云いうことなんぞ可笑おかしくもないだろうが、どんなに賢かしこくっても、にんげん自分じぶんの背中せなかを見みることはできないんだからね」

そして与平よへいは向むこうへいった。

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