← Library‹ さぶ 十一の四

与平よへいの言葉ことばの終おわりの一句いっくが、栄二えいじの頭あたまに強つよくひっかかった。ばかを云いえ、賢かしこくあろうがなかろうが、鏡かがみを使つかえば自分じぶんの背中せなかぐらい誰だれにだって見みえるぜ。そう心こころの中なかでやり返かえしたけれども、与平よへいがそんな意味いみで云いったのでないことはわかっているし、仮かりに同おなじ意味いみだとしても「鏡きょう」という物ものなしに自分じぶんの背中せなかを見みることはできない。とすれば、すぐにそういう考かんがえのうかぶ頭あたまの切きれかたが、さぶの云いうことすることをじれったがり、つい辛つらく当あたるのだと、与平よへいは指摘してきしたのだろうか。

「ええ、ばかばかしい」栄二えいじは自分じぶんを罵ののしった、「どうしてそんなに、人ひとの云いうことにこだわるんだ、なにか云いわれるたびにいちいちそうこだわっていてなんの役やくに立たつ、てめえはてめえでいいじゃねえか」

こんな癖くせはやめなければいけない、と栄二えいじは自分じぶんに云いいきかせた。

字じを習ならいたいという者ものが少すこしずつふえ、雨あめや雪ゆきで人足にんそく仕事しごとを休やすむときや、晩ばんめしのあとは毎日まいにち、机つくえに向むこう者しゃが十じゅう人にんちかくにまでなった。机つくえは役所やくしょの物置ものおきに古ふるいのがあったし、大工だいく部屋へやの者ものに作つくってもらったのもあった。硯すずりと筆ふでと墨すみなどは外そと使つかいの者ものに頼たのんで買かったのだが、紙かみは高たかくつくので、水みず書かきというやり方かたももちいた。つまり紙かみいっぱいに字じを書かいてしまうと、それをすっかり墨すみで塗ぬりつぶし、乾かわかしてから、その上うえへ水みずで字じを書かくのである。書かいた字じはむろん乾かわけば消きえるが、運筆うんぴつの練習れんしゅうには役立やくだつので、一いち枚まいの半紙はんしでもかなりながく使つかうことができた。こうしているうちに或ある日ひ、人見ひとみ張はり役やくの小島こじま良りょう二郎じろうが来きて、それは寄場よせばの規則きそくに反はんすると文句もんくを云いった。

「人足にんそく部屋へやなどで勝手かってに字じを教おしえたり習ならったりしてはいけない」と小島こじまはわざと栄二えいじを見みずに云いった、「手習てならいをしたいというのは神妙しんみょうな心こころがけだから、まじめにやるつもりなら願ねがい出でるがいい、文字もじを習ならうというのはおろそかなことではない、筋すじも知しれぬ者ものなどに習ならうと、あとあと取返とりかえしのつかないことになるだろう」

役所やくしょの許ゆるしを受うけるか、さもなければ手習てならいは禁きんずる、というのであった。

筋すじも知しれない者もの、というのは栄二えいじのことを指さしたのだろう。栄二えいじは芳かおる古こ堂どうで十じゅう年ねんも手習てならいをし続つづけ、朋輩ほうばいの中なかでは上手じょうずの内うちにかぞえられていた。彼かれは広沢こうたくと菱湖りょうこが好すきであり、唐様からようも和様わようも本筋ほんすじに習ならった。小島こじまに眼めがあれば、そのくらいのことはわかったろうに、と栄二えいじは思おもったが、いや、とすぐに首くびを振ふった。そうではない、規則きそくに反はんするというのは事実じじつかもしれない。願ねがい出でろというのならそうするのが順序じゅんじょだ、と思おもい直なおした。

部屋へやの者ものも許ゆるしを受うけようというので、栄二えいじは自分じぶんの書かいた手本てほん数すう冊さつを揃そろえ、与平よへいに持もたせて役所やくしょへやった。そのときは下役したやく同心どうしんが、考かんがえておくと云いったそうであるが、翌日よくじつ、岡安おかやす喜兵衛きへえが自分じぶんで部屋へやへやって来きた。みんな仕事しごとに出でたあとで、栄二えいじと与平よへいの二人ふたりしかいなかったが、岡安おかやすは与平よへいをも遠とおざけた。

「まずいことに伯はく翁おきなが書しょをやるのだ」と岡安おかやすは前置まえおきなしに云いった、「――役所やくしょでおまえだけ別扱べつあつかいをすると、つねづねひがみをもっている者ものがあって、それが伯はく翁おきなに耳みみうちをしたらしい、私わたくしの知しらないうちに奉行ぶぎょうへ訴うったえが出でてしまった」

伯はく翁おきなとは心学しんがく教師きょうしの立松たてまつのことだ。これも報酬ほうしゅうなしで講義こうぎに来きているのに、自分じぶんをさしおいて人足にんそくが字じを教おしえると聞きいたため、ひどく自尊じそん心しんを傷きずつけられたとみえ、奉行ぶぎょうの成島なるしま治右衛門じえもんに強つよく申もうし入いれた。文字もじを習ならうのは初はじめが肝心かんじんであり、単たんに字じを覚おぼえるだけでなく心構こころがまえが大切たいせつである。明窓浄机めいそうじょうきとはいわないまでも、心身しんしんを清きよめ、無念むねん無想むそうになって筆ふでをとらなければならない。ごたごたした人足にんそく部屋へやなどで、作法さほうもなく勝手かってにやるのは、却かえって害がいになるばかりである、と主張しゅちょうしたそうであった。

「それにも一理いちりはあるし」と岡安おかやすは続つづけた、「この部屋へやよりも、役所やくしょの座敷ざしきのほうが静しずかでいいだろう、そう思おもわないか」

「みんながいくかどうかですね」と栄二えいじが答こたえた、「この部屋へやだから気きやすく筆ふでを持もちますが、役所やくしょまでいくとなると、おそらく続つづかないんじゃないかと思おもいますがね」

そこで栄二えいじがふきだし、声こえをあげて笑わらった。岡安おかやすは不審ふしんそうに見みていて、それから「なにが可笑おかしい」ときいた。栄二えいじは立松たてまつ伯はく翁おきなのいつかの講話こうわを思おもい出だしたのである、木村きむら重成しげなりがいかに忍耐にんたいづよかったか、人間にんげんにはいかに忍耐にんたいが大切たいせつであるかということを、伯はく翁おきなはことば巧たくみに説といて聞きかせた。その当人とうにんが怒おこったのだ。栄二えいじが手習てならいを教おしえているというので、いいとしをした心学しんがく教師きょうしが自尊じそん心しんを傷きずつけられ、奉行ぶぎょうにまでどなり込こんだのである。そう気きがつくと思おもわずふきだしてしまったのだが、もちろん岡安おかやすにはそんなことは云いわなかった。

「みんなが帰かえったら話はなしてみます」と栄二えいじは笑わらいやんでから云いった、「私わたくしは足あしがこのとおりですから、いっしょにはまいれません、これまでどおりここでやらせていただきます」

「こんなことで気持きもちをくさらせないようにな」

岡安おかやす喜兵衛きへえはそう云いって去さった。

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