「こっちはまじめだよ」と栄二は云った、「三十五のおじいさんなんていうのは、のぶ公が相手を嫌ってるからだ」
「それはもう云ったわよ」
「そんならなにを困ることがある、さぶにけじめをくわせたとおり、はっきりいやだと云えばいいじゃねえか」
「それで済めば相談になんか来やあしないわよ」
悪いことに、相手の男がすっかりおのぶに惚れこんでいて、酔ったときなど、もしこの縁がまとまらないようならおのぶを殺して自分も死ぬ気だ、などと云う。それも口だけではなく、本当にやりかねないような男なのだ。すみよしの主婦はまえからその男の腕を信じきっていて、これから店を続けてゆくには、その男に来てもらうほかはないと、繰返し泣いてせがむのだという。
「とびだせばいいだろう」
「と、栄さんは云うでしょ」
「とびだせばいいんだ」と栄二は云った、「すみよしのかみさんだってそれほどの年寄りじゃあない、その板前とたいしてとしは違わないんじゃないか」
おのぶはかぶりを振った、「おかみさんは三十八よ」
「女ざかりじゃねえか、三つとし上の嫁はかねの草鞋をはいても捜せっていうぜ」
「ばかねえ」おのぶはふきだし、手で口を押えてから云った、「それは一つとし上っていうのよ」
おかみさんにも男のほうにも、そんなけぶりはまったくみえない。万に一つ、そういうことになるとしても、そうなるまえに自分がすみよしを出ることは、自分がちくしょう同様になることだ。
「あたしが女衒の六から逃げ、親たちの食いものにならずに済んだのも、みんなすみよしというお店があったからよ」とおのぶは云った、「――栄さんはきっと、ほかの店だって同じだって云うでしょ、そうかもしれないわ、ほかのお店でも変りはなかったかもしれないけれど、そうじゃなかったかもしれないじゃないの、そうでしょ」
「のぶ公ってやつは理屈をこねるのがうめえよ」栄二はそう云って、悪いほうの足の位置を直した、「けれどもな、おれの云いてえのはすみよしっていう店のよしあしじゃあなく、のぶ公の気性が肝心かなめだってえことなんだ、今日までやってこられたのは店のおかげじゃあねえ、のぶ公のその負けねえ性分のためなんだ、それなんだ、おれの云いてえのは」
おのぶはじっと栄二の顔をみつめ、それからゆっくりとかぶりを振った。
「あんたは世間知らずね」とおのぶは太息をつくように云った、「――そうじゃないの、そうじゃないのよ」そしておのぶはちょっと考えてから続けた、「竜が天へのぼるにも、どの雲でもいいってわけじゃない、のぼれる雲とのぼれない雲があるんですって、竜ともなれば天へのぼれる力はあるんだけれど、それでも足掛りになる雲がなければ、――なによ、なにを笑うのよ」
「いいよ」栄二は笑いやみながら片手を振った、「世間知らずが、いきなり竜になったんでびっくりしたんだ」
おのぶは両の肩をすくめ、さも「がっかりだ」といわんばかりに、その肩をおとしながら栄二をにらんだ。
「栄さんにさぶちゃんの苦労のわからないわけがわかったわ」とおのぶは咏嘆するような口ぶりで云った、「――あたしの負けない気性なら、どのお店でも無事にやってこられたろうって、世の中ってそんなものじゃないのよ栄さん、竜の話はおおげさすぎたかもしれないけれど、栄さんがどんなに頭がよくって、腕がどんなによくったって、それだけではどこでも立派な職人になれるってことはないと思うわ、いまになれば芳古堂じゃなくっても、さぶちゃんやおすえちゃんがいなくっても、あんたは立派な職人になれたと云うかもしれない、でもやっぱり、芳古堂があり、さぶちゃんがい、おすえちゃんと云う人がいたことは消しようがないでしょ」
「竜の昇天がこんどはさぶか、おれのことはそっちへおくとして、店を出るのもいや、その男は嫌いとなったら、おれにだって思案のしようはねえぜ」
「そうだわねえ」おのぶはながい溜息をついた、「さっきから話しているうちに、栄さんに相談してもむりだってことが、自分でもよくわかったわ、ごめんなさいつまらない話をもって来たりして」
「あやまるこたあねえさ、おれの足がこんなでなければ、その男に会ってなんとかやってみるんだがな」
「ありがと、そう云ってもらうだけでもうれしいわ」と云っておのぶは微笑んだ、「まあどうにかなるでしょ、できる限りふんばってみるわ」
「のぶ公なら負けやしねえさ」と栄二も力づけるように笑ってみせた、「それでも困るようなことがあったらここへ来るんだぜ」
「一度だけきかせて――その足、どうなるの」
栄二は肩をすくめてから云った、「雪の道だ、転ばねえように気をつけな」
おのぶは栄二の眼をじっとみつめながら、少女のようにこくっと頷いた。