← Library‹ さぶ 十一の六

「こっちはまじめだよ」と栄二えいじは云いった、「三十さんじゅう五ごのおじいさんなんていうのは、のぶ公こうが相手あいてを嫌きらってるからだ」

「それはもう云いったわよ」

「そんならなにを困こまることがある、さぶにけじめをくわせたとおり、はっきりいやだと云いえばいいじゃねえか」

「それで済すめば相談そうだんになんか来きやあしないわよ」

悪わるいことに、相手あいての男おとこがすっかりおのぶに惚ほれこんでいて、酔よったときなど、もしこの縁えんがまとまらないようならおのぶを殺ころして自分じぶんも死しぬ気げだ、などと云いう。それも口くちだけではなく、本当ほんとうにやりかねないような男おとこなのだ。すみよしの主婦しゅふはまえからその男おとこの腕うでを信しんじきっていて、これから店みせを続つづけてゆくには、その男おとこに来きてもらうほかはないと、繰返くりかえし泣ないてせがむのだという。

「とびだせばいいだろう」

「と、栄さかえさんは云いうでしょ」

「とびだせばいいんだ」と栄二えいじは云いった、「すみよしのかみさんだってそれほどの年寄としよりじゃあない、その板前いたまえとたいしてとしは違ちがわないんじゃないか」

おのぶはかぶりを振ふった、「おかみさんは三十さんじゅう八はちよ」

「女おんなざかりじゃねえか、三みつとし上うえの嫁よめはかねの草鞋わらじをはいても捜さがせっていうぜ」

「ばかねえ」おのぶはふきだし、手てで口くちを押おさえてから云いった、「それは一ひとつとし上うえっていうのよ」

おかみさんにも男おとこのほうにも、そんなけぶりはまったくみえない。万まんに一ひとつ、そういうことになるとしても、そうなるまえに自分じぶんがすみよしを出でることは、自分じぶんがちくしょう同様どうようになることだ。

「あたしが女衒ぜげんの六ろくから逃にげ、親おやたちの食くいものにならずに済すんだのも、みんなすみよしというお店みせがあったからよ」とおのぶは云いった、「――栄ひさしさんはきっと、ほかの店みせだって同おなじだって云いうでしょ、そうかもしれないわ、ほかのお店みせでも変かわりはなかったかもしれないけれど、そうじゃなかったかもしれないじゃないの、そうでしょ」

「のぶ公こうってやつは理屈りくつをこねるのがうめえよ」栄二えいじはそう云いって、悪わるいほうの足あしの位置いちを直なおした、「けれどもな、おれの云いいてえのはすみよしっていう店みせのよしあしじゃあなく、のぶ公こうの気性きしょうが肝心かんじんかなめだってえことなんだ、今日きょうまでやってこられたのは店みせのおかげじゃあねえ、のぶ公こうのその負まけねえ性分しょうぶんのためなんだ、それなんだ、おれの云いいてえのは」

おのぶはじっと栄二えいじの顔かおをみつめ、それからゆっくりとかぶりを振ふった。

「あんたは世間せけん知しらずね」とおのぶは太息といきをつくように云いった、「――そうじゃないの、そうじゃないのよ」そしておのぶはちょっと考かんがえてから続つづけた、「竜りゅうが天てんへのぼるにも、どの雲くもでもいいってわけじゃない、のぼれる雲くもとのぼれない雲くもがあるんですって、竜りゅうともなれば天てんへのぼれる力ちからはあるんだけれど、それでも足掛あしがかりになる雲くもがなければ、――なによ、なにを笑わらうのよ」

「いいよ」栄二えいじは笑わらいやみながら片手かたてを振ふった、「世間せけん知しらずが、いきなり竜りゅうになったんでびっくりしたんだ」

おのぶは両りょうの肩かたをすくめ、さも「がっかりだ」といわんばかりに、その肩かたをおとしながら栄さかえ二にをにらんだ。

「栄ひさしさんにさぶちゃんの苦労くろうのわからないわけがわかったわ」とおのぶは咏嘆えいたんするような口くちぶりで云いった、「――あたしの負まけない気性きしょうなら、どのお店みせでも無事ぶじにやってこられたろうって、世よの中なかってそんなものじゃないのよ栄ひさしさん、竜りゅうの話はなしはおおげさすぎたかもしれないけれど、栄さかえさんがどんなに頭あたまがよくって、腕うでがどんなによくったって、それだけではどこでも立派りっぱな職人しょくにんになれるってことはないと思おもうわ、いまになれば芳かおる古こ堂どうじゃなくっても、さぶちゃんやおすえちゃんがいなくっても、あんたは立派りっぱな職人しょくにんになれたと云いうかもしれない、でもやっぱり、芳かおる古こ堂どうがあり、さぶちゃんがい、おすえちゃんと云いう人ひとがいたことは消けしようがないでしょ」

「竜りゅうの昇天しょうてんがこんどはさぶか、おれのことはそっちへおくとして、店みせを出でるのもいや、その男おとこは嫌きらいとなったら、おれにだって思案しあんのしようはねえぜ」

「そうだわねえ」おのぶはながい溜息ためいきをついた、「さっきから話はなしているうちに、栄さかえさんに相談そうだんしてもむりだってことが、自分じぶんでもよくわかったわ、ごめんなさいつまらない話はなしをもって来きたりして」

「あやまるこたあねえさ、おれの足あしがこんなでなければ、その男おとこに会あってなんとかやってみるんだがな」

「ありがと、そう云いってもらうだけでもうれしいわ」と云いっておのぶは微笑ほほえんだ、「まあどうにかなるでしょ、できる限かぎりふんばってみるわ」

「のぶ公こうなら負まけやしねえさ」と栄二えいじも力ちからづけるように笑わらってみせた、「それでも困こまるようなことがあったらここへ来くるんだぜ」

「一いち度どだけきかせて――その足あし、どうなるの」

栄二えいじは肩かたをすくめてから云いった、「雪ゆきの道みちだ、転ころばねえように気きをつけな」

おのぶは栄二えいじの眼めをじっとみつめながら、少女しょうじょのようにこくっと頷うなずいた。

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