「怒っちゃいけないよ、怒らないでな」と与平はそっと栄二に囁いた、「めしの支度と洗濯ぐらい、なんでもありゃあしないんだから、あの男は云いがかりをつけるために、わざと難題を吹っかけてるんだからね」
「ああ」と栄二は頷いた、「怒りゃあしないよ」
おれがいるために、また厄介なことを背負いこませた、済まないな、と栄二は心の中であやまった。
役所で伯翁が習字を教え始めて以来、ここからも五、六人の者がかよいだし、話に聞くと、他の部屋の者たちも習いに来て、いちじは二十人を越すほどだったという。いまでも心学講話と習字にかよう者はあるようだが、もっこ部屋だけに限れば、正月になってからみなやめてしまい、いつともなく、栄二のまわりに並ぶ机の数が多くなっていた。
「おい、一丁やらねえか」と義一が花札を巧みに切りながら呼びかける、「勝ち負けの勘定は月末でいいんだぜ」
そして、茣蓙を四つに折ったのへ、花札を打ちつけてみせる。よほど熟練しているのだろう、札の切りかたもみごとだし、茣蓙へ打ちつける音も冴えていた。小博奕で送られて来たという金太には、さぞたまらない誘惑だったろう、その音を聞くたびに、躯ぜんたいでいまにものめり込みそうにみえた。
「おい、誰かやる者はねえのか」と義一は唆す、「寺子屋がよいのがきじゃああるめえし、寄場人足が字を習うなんざあきちげえ沙汰だぜ」
栄二と机を並べていた万吉が、なにをと云って立とうとした。栄二はすばやく手を伸ばし、万吉の腕を掴んで、よせと囁きながら坐らせた。ほんの一瞬のことだったが、義一は見のがさなかった。
「おいそこの若いの」と彼は万吉に顎をしゃくった、「おめえだよ、そのちんばの隣りにいる野郎、てめえいまなんとか云ったようだな」
「足が痺れたんでね」と栄二が答えた、「ちょっと坐り直しただけだよ」
「てめえにききゃあしねえ、すっこんでろ」とどなりながら、義一は立って万吉のほうへ来た、「やい奴、うぬあつんぼか」
万吉は顔をさっと蒼くして見あげ、そこへ与平が走りよった。
「まあまあおまえさん、そう怒ることはないじゃないか」と与平は義一を押しなだめた、「すぐ向うに人見張りの小屋があって、役人衆が詰めているんですから、大きな声をだすと聞えてしまいますよ」
「うるせえ」と喚きながら、義一は与平を力いっぱい突きとばした、「老いぼれは黙ってろ」
そこへ松田権蔵がはいって来た。力まかせに突きとばされて、与平が土間へ転げ落ちたのを見たとき、栄二は眼の昏むような怒りにおそわれ、うしろの戸納に立てかけてある撞木杖に手を伸ばそうとした。それでどうしようという考えよりも、手のほうがさっと動いたのだ。そのとき引戸があき、赤鬼がはいって来たのを認めると、栄二は眼をつむって蒲団へよりかかり、深く長い溜息をついた。
「いい晩だな、うまくやってるか」と云って松田は土間にいる与平を見た、「――どうした与平、そんなところでなにをしてるんだ」
「なに、とりめのきみがありましてね」与平は着物の土を払いながら答えた、「夜になると、ときたま足もとが狂うんです」
「おいおい人聞きが悪いぜ」と松田はわざと眼をいからせて云った、「それじゃあまるで、寄場でろくな物を食わせねえように聞えるじゃねえか、さんてつ先生に診てもらったか」
それほどのことではないと、あいまいに笑いながら、与平は板の間へあがり、松田権蔵は習字をしている者たちと、そこに立ちはだかっている義一に眼を向けた。
「ほう、おめえ義一だな」と松田は呼びかけた、「おめえも手習いを始めるのか」
義一は「くそうくらえ」と云って、自分の居場所へ戻った。
「おい」と松田が云った、「きさまいまなんて云った」
「さあ、なんて云ったかな」義一は茣蓙の前にあぐらをかき、花札を集めながら答えた、「独り言だから覚えちゃあいねえよ、いいから気にしなさんな」
松田の顔が仇名のとおり、みるみる赤黒くふくれあがり、両の眼がぎらぎらと光って、いまにもとび出しそうにみえた。
「この、くそ野郎」と松田はどなった、「きさまはここをどこだと思ってるんだ」
義一は即座にやり返した、「――石川島の人足寄場じゃあなかったかな」
松田権蔵の両手が拳になり、その拳がぶるぶるとふるえた。栄二は悲しさで胸がいっぱいになった。そっくりそのままだ、おれもこんなふうに赤鬼を怒らせたことがある。松田が親しく近づこうとしたのを、冷淡に、容赦もなく突っ放した。あのとき松田はおれを殴りたかったろう、いまのように怒りで全身をふるわせていたが、「うせやがれ」と云っただけでその怒りを抑えつけた。どんなに憎らしく、癪に障ったことだろう、おれはいやな野郎だった、と栄二は思った。
「それを知っているなら」と松田権蔵がくいしばった歯のあいだから云った、「この寄場の規則も忘れやあしないだろう、その花札をこっちへよこせ」
「どうするんです」義一はにっと歯を見せて笑った、「賭場を開くんなら、あっしが札を配りますぜ」
「ここでは博奕は御禁制だ、花札一枚でも許すことはならねえ、こっちへよこせ」
「これはあっしが、身銭を払って買ったもんですぜ」
「こっちへよこせ」と松田が叫んだ。