← Library‹ さぶ 十二の二

「怒おこっちゃいけないよ、怒おこらないでな」と与平よへいはそっと栄二えいじに囁ささやいた、「めしの支度したくと洗濯せんたくぐらい、なんでもありゃあしないんだから、あの男おとこは云いいがかりをつけるために、わざと難題なんだいを吹ふっかけてるんだからね」

「ああ」と栄二えいじは頷うなずいた、「怒おこりゃあしないよ」

おれがいるために、また厄介やっかいなことを背負せおいこませた、済すまないな、と栄二えいじは心こころの中なかであやまった。

役所やくしょで伯はく翁おきなが習字しゅうじを教おしえ始はじめて以来いらい、ここからも五ご、六ろく人にんの者ものがかよいだし、話はなしに聞きくと、他たの部屋へやの者ものたちも習ならいに来きて、いちじは二十にじゅう人にんを越こすほどだったという。いまでも心学しんがく講話こうわと習字しゅうじにかよう者ものはあるようだが、もっこ部屋へやだけに限かぎれば、正月しょうがつになってからみなやめてしまい、いつともなく、栄二えいじのまわりに並ならぶ机つくえの数かずが多おおくなっていた。

「おい、一いち丁ちょうやらねえか」と義一よしかずが花札はなふだを巧たくみに切きりながら呼よびかける、「勝かち負まけの勘定かんじょうは月末げつまつでいいんだぜ」

そして、茣蓙ござを四よんつに折おったのへ、花札はなふだを打うちつけてみせる。よほど熟練じゅくれんしているのだろう、札さつの切きりかたもみごとだし、茣蓙ござへ打うちつける音おとも冴さえていた。小博奕こばくちで送おくられて来きたという金太きんたには、さぞたまらない誘惑ゆうわくだったろう、その音おとを聞きくたびに、躯むくろぜんたいでいまにものめり込こみそうにみえた。

「おい、誰だれかやる者ものはねえのか」と義一よしかずは唆そそのかす、「寺子てらこ屋やがよいのがきじゃああるめえし、寄場よせば人足にんそくが字じを習ならうなんざあきちげえ沙汰さただぜ」

栄二えいじと机つくえを並ならべていた万吉まんきちが、なにをと云いって立たとうとした。栄二えいじはすばやく手てを伸のばし、万吉まんきちの腕うでを掴つかんで、よせと囁ささやきながら坐すわらせた。ほんの一瞬いっしゅんのことだったが、義一よしかずは見みのがさなかった。

「おいそこの若わかいの」と彼かれは万吉まんきちに顎あごをしゃくった、「おめえだよ、そのちんばの隣となりにいる野郎やろう、てめえいまなんとか云いったようだな」

「足あしが痺しびれたんでね」と栄二えいじが答こたえた、「ちょっと坐すわり直なおしただけだよ」

「てめえにききゃあしねえ、すっこんでろ」とどなりながら、義一よしかずは立たって万吉まんきちのほうへ来きた、「やい奴やっこ、うぬあつんぼか」

万吉まんきちは顔かおをさっと蒼あおくして見みあげ、そこへ与平よへいが走はしりよった。

「まあまあおまえさん、そう怒おこることはないじゃないか」と与平よへいは義一よしかずを押おしなだめた、「すぐ向むこうに人見ひとみ張ばりの小屋こやがあって、役人やくにん衆しゅうが詰つめているんですから、大おおきな声こえをだすと聞きこえてしまいますよ」

「うるせえ」と喚わめきながら、義一よしかずは与平よへいを力ちからいっぱい突つきとばした、「老おいぼれは黙だまってろ」

そこへ松田まつだ権蔵ごんぞうがはいって来きた。力ちからまかせに突つきとばされて、与平よへいが土間どまへ転ころげ落おちたのを見みたとき、栄二えいじは眼めの昏くらむような怒いかりにおそわれ、うしろの戸納とだなに立たてかけてある撞木しゅもく杖つえに手てを伸のばそうとした。それでどうしようという考かんがえよりも、手てのほうがさっと動うごいたのだ。そのとき引戸ひきどがあき、赤鬼あかおにがはいって来きたのを認みとめると、栄二えいじは眼めをつむって蒲団ふとんへよりかかり、深ふかく長ながい溜息ためいきをついた。

「いい晩ばんだな、うまくやってるか」と云いって松田まつだは土間どまにいる与平よへいを見みた、「――どうした与平よへい、そんなところでなにをしてるんだ」

「なに、とりめのきみがありましてね」与平よへいは着物きものの土つちを払はらいながら答こたえた、「夜よるになると、ときたま足あしもとが狂くるうんです」

「おいおい人聞ひとぎきが悪わるいぜ」と松田まつだはわざと眼めをいからせて云いった、「それじゃあまるで、寄場よせばでろくな物ものを食くわせねえように聞きこえるじゃねえか、さんてつ先生せんせいに診みてもらったか」

それほどのことではないと、あいまいに笑わらいながら、与平よへいは板いたの間まへあがり、松田まつだ権蔵ごんぞうは習字しゅうじをしている者ものたちと、そこに立たちはだかっている義一よしかずに眼めを向むけた。

「ほう、おめえ義一よしかずだな」と松田まつだは呼よびかけた、「おめえも手習てならいを始はじめるのか」

義一よしかずは「くそうくらえ」と云いって、自分じぶんの居い場所ばしょへ戻もどった。

「おい」と松田まつだが云いった、「きさまいまなんて云いった」

「さあ、なんて云いったかな」義一よしかずは茣蓙ござの前まえにあぐらをかき、花札はなふだを集あつめながら答こたえた、「独ひとり言ごとだから覚おぼえちゃあいねえよ、いいから気きにしなさんな」

松田まつだの顔かおが仇名あだなのとおり、みるみる赤黒あかぐろくふくれあがり、両りょうの眼めがぎらぎらと光ひかって、いまにもとび出だしそうにみえた。

「この、くそ野郎やろう」と松田まつだはどなった、「きさまはここをどこだと思おもってるんだ」

義一よしかずは即座そくざにやり返かえした、「――石川島いしかわじまの人足にんそく寄場よせばじゃあなかったかな」

松田まつだ権蔵ごんぞうの両手りょうてが拳こぶしになり、その拳こぶしがぶるぶるとふるえた。栄二えいじは悲かなしさで胸むねがいっぱいになった。そっくりそのままだ、おれもこんなふうに赤鬼あかおにを怒おこらせたことがある。松田まつだが親したしく近ちかづこうとしたのを、冷淡れいたんに、容赦ようしゃもなく突つっ放ぱなした。あのとき松田まつだはおれを殴なぐりたかったろう、いまのように怒いかりで全身ぜんしんをふるわせていたが、「うせやがれ」と云いっただけでその怒いかりを抑おさえつけた。どんなに憎にくらしく、癪しゃくに障さわったことだろう、おれはいやな野郎やろうだった、と栄二えいじは思おもった。

「それを知しっているなら」と松田まつだ権蔵ごんぞうがくいしばった歯はのあいだから云いった、「この寄場よせばの規則きそくも忘わすれやあしないだろう、その花札はなふだをこっちへよこせ」

「どうするんです」義一よしかずはにっと歯はを見みせて笑わらった、「賭場とばを開ひらくんなら、あっしが札さつを配くばりますぜ」

「ここでは博奕ばくえきは御ご禁制きんせいだ、花札はなふだ一いち枚まいでも許ゆるすことはならねえ、こっちへよこせ」

「これはあっしが、身銭みぜにを払はらって買かったもんですぜ」

「こっちへよこせ」と松田まつだが叫さけんだ。

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