← Library‹ さぶ 二の二

おみつというのは芳かおる古こ堂どうの娘むすめで、としは今年ことし十じゅう九きゅう歳さい、去年きょねんの春はる、日本橋にほんばし檜物町ひものちょうの「さわ村そん」という櫛くし屋やへ嫁よめにいった。芳兵衛よしべえ夫妻ふさいには子供こどもが二人ふたりあり、弟おとうとの芳かおる二郎じろうはいま十じゅう五ご歳さいになるが、躯むくろが弱よわいので玉川たまがわ在の農家のうかに預あずけられていた。平左衛門へいざえもんというその農家のうかはかなりな田地でんじ持もちで、妻女さいじょお由よしとは縁続えんつづきであり、月つきに一いち度どは互たがいに往来おうらいしあっている。――おみつはあまりきりょうよしではなく、家いえにいるじぶんから人ひとの好すき嫌きらいが強つよくて、職人しょくにんたちのあら捜さがしをしたり、ありもしないことを親おやに告つげ口ぐちをするというふうであった。芳兵衛よしべえも妻女さいじょもその性質せいしつを知しっているので、おみつの告つげ口ぐちなどはたいてい聞ききながしにするが、それは却かえっておみつの片かた意地いじな性分しょうぶんを煽あおるような結果けっかになったのだろう、嫁よめにいってからも不平ふへいが多おおく、しばしば実家じっかへ帰かえって来きては、みんなに当あたりちらすのであった。

「帰かえって来くるなりおれを見みて、休やすみだからって遊あそんでいることはないだろうと云いった」さぶは苦笑にがわらいをした、「――他人たにんさまのめしを喰たべながら手てに職しょくをつけてもらっているんだ、少すこしでも有難ありがたいと思おもったら、店みせはたとえ休やすみにしろなにか仕事しごとがある筈はずじゃないか、一いち粒つぶの米こめだってただじゃないんだよって」

「その先さきは云いうな」と栄二えいじが制止せいしした、「おみつちゃんの気性きしょうは知しってるじゃないか、きっとまた檜物町ひものちょうで喧嘩けんかでもして来きて、八やつ当あたりをしたんだろう、気きにするなよ」

「おめえならそれでいいだろうが、おれは生うまれつきのぐずだからな、いまだに糊のりの仕込しこみしかやれねえ人間にんげんだから、一いち粒つぶの米べいもただじゃねえなんて云いわれると」

「ばか云いうな、こっちはただめしなんか食くっちゃあいねえぞ」と栄二えいじは怒おこったような口くちぶりで云いった、「手てに職しょくをつけてもらうのは慥たしかだが、遊あそんでるわけじゃあねえ、小ちいせえじぶんから手足てあしにひびあかぎれをきらし、汗あせだくになって追おい使つかわれてきたんだ、おれたち職人しょくにんがいればこそ芳かおる古こ堂どうもやってゆけるんだぜ、しっかりしてくれよ、さぶあにい」

おのぶが肴さかなを持もって来き、酌しゃくをさせてくれと云いって、座敷ざしきへあがり、襷たすきを外はずしながら二人ふたりのあいだに坐すわった。

「いましがた思おもいだしたが」と栄二えいじがおのぶを見みて云いった、「――あのときおめえは、ここに姉あねさんがいるって、云いってたんじゃなかったかな」

「そう、姉あねさんに傘かさを届とどけるところだったのよ」

「まだいるのか」

「死しんじゃったわ」と云いっておのぶはかぶりを振ふった、「姉あねさんのことはきかないでね、ほんとに可哀かわいそうな死しにかたをしたのよ、その話はなしをするとあたし泣なきだしちゃうから、はいお一ひとつ」

「うちは本所ほんじょなんだね」とさぶがきいた。

「ええ小泉こいずみ町まち」おのぶは栄二えいじに酌しゃくをし、さぶに酌しゃくをした、「うちの話はなしもさせないでね、人ひとには聞きかせられないような、それこそみじめなくらしなんだもの、いっそのことうちをとびだして、乞食こじきにでもなっちまおうかって、そう思おもわない日ひはないくらいよ」

「よせよそんな話はなし」と栄二えいじが云いった、「自分じぶんからきかないでくれって云いったんだろう」

「ほんとだ」おのぶは小ちいさな肩かたをすくめた、「ごめんなさい、はいお酌しゃく」

「その八重歯やえば、可愛かわいいよ」さぶが酒さけを啜すすってから、眩まぶしそうな眼めつきでおのぶの口許くちもとをみつめた、「その八重歯やえばは抜ぬかずにおくほうがいいと思おもうがな」

「抜ぬくんじゃないの、自然しぜんと抜ぬけるのよ」

「どうしてさ」

「あら知しらないの」おのぶは眼めをみはった、「八重歯やえばっていうのはね、順番じゅんばん外はずれに生はえたよけいな歯はなんですって、だから自然しぜんと押おしのけられて、いつか抜ぬけてしまうんですってよ」

栄二えいじが慌あわてて云いった、「抜ぬけなければ唇くちびるに穴あながあいちまうんだ、飲のめよさぶ」

「あたしなにか悪わるいこと云いったかしら」とおのぶは栄二えいじの顔かおを見みた。

「いいんだ、そんなことありゃしないよ」とさぶは人ひとの好よい笑顔えがおで云いった、「栄さかえちゃんはおれが気きにしやあしないかと思おもって心配しんぱいしただけさ、おらあ慣なれてるから、どんなこと云いわれたって気きになんかしやしない、――もしも唇くちびるに穴あながあくんなら、八重歯やえばは抜ぬけるほうがいいにきまってるさ」

「なんだかさっぱりわからないわ、まるでいやみを云いわれてるような感かんじよ」

「済すまねえな、話はなしを変かえよう」と云いって栄二えいじはおのぶに盃さかずきを差出さしだした、「おめえも一ひとつ飲のまねえか」

「あたし強つよいのよ」

「いいとも、もう一ひとつ盃さかずきを持もって来きな」

「いま持もって来くるわ」差さされた盃さかずきを返かえしておのぶは立たちあがった、「でも、まだ早はやいんだからあんまり飲のまさないでね」

「こっちのふところが続つづかねえよ」と栄二えいじはおのぶのうしろ姿すがたに向むかって云いった、「なにか自分じぶんの喰たべるものもそういうんだぜ」

おのぶは土間どまへおりてから振ふり返かえり、栄二えいじの顔かおをじっとみつめながら、「ありがと、いただきます」と云いった。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%