おみつというのは芳古堂の娘で、としは今年十九歳、去年の春、日本橋檜物町の「さわ村」という櫛屋へ嫁にいった。芳兵衛夫妻には子供が二人あり、弟の芳二郎はいま十五歳になるが、躯が弱いので玉川在の農家に預けられていた。平左衛門というその農家はかなりな田地持ちで、妻女お由とは縁続きであり、月に一度は互いに往来しあっている。――おみつはあまりきりょうよしではなく、家にいるじぶんから人の好き嫌いが強くて、職人たちのあら捜しをしたり、ありもしないことを親に告げ口をするというふうであった。芳兵衛も妻女もその性質を知っているので、おみつの告げ口などはたいてい聞きながしにするが、それは却っておみつの片意地な性分を煽るような結果になったのだろう、嫁にいってからも不平が多く、しばしば実家へ帰って来ては、みんなに当りちらすのであった。
「帰って来るなりおれを見て、休みだからって遊んでいることはないだろうと云った」さぶは苦笑いをした、「――他人さまのめしを喰べながら手に職をつけてもらっているんだ、少しでも有難いと思ったら、店はたとえ休みにしろなにか仕事がある筈じゃないか、一粒の米だってただじゃないんだよって」
「その先は云うな」と栄二が制止した、「おみつちゃんの気性は知ってるじゃないか、きっとまた檜物町で喧嘩でもして来て、八つ当りをしたんだろう、気にするなよ」
「おめえならそれでいいだろうが、おれは生れつきのぐずだからな、いまだに糊の仕込みしかやれねえ人間だから、一粒の米もただじゃねえなんて云われると」
「ばか云うな、こっちはただめしなんか食っちゃあいねえぞ」と栄二は怒ったような口ぶりで云った、「手に職をつけてもらうのは慥かだが、遊んでるわけじゃあねえ、小せえじぶんから手足にひびあかぎれをきらし、汗だくになって追い使われてきたんだ、おれたち職人がいればこそ芳古堂もやってゆけるんだぜ、しっかりしてくれよ、さぶあにい」
おのぶが肴を持って来、酌をさせてくれと云って、座敷へあがり、襷を外しながら二人のあいだに坐った。
「いましがた思いだしたが」と栄二がおのぶを見て云った、「――あのときおめえは、ここに姉さんがいるって、云ってたんじゃなかったかな」
「そう、姉さんに傘を届けるところだったのよ」
「まだいるのか」
「死んじゃったわ」と云っておのぶはかぶりを振った、「姉さんのことはきかないでね、ほんとに可哀そうな死にかたをしたのよ、その話をするとあたし泣きだしちゃうから、はいお一つ」
「うちは本所なんだね」とさぶがきいた。
「ええ小泉町」おのぶは栄二に酌をし、さぶに酌をした、「うちの話もさせないでね、人には聞かせられないような、それこそみじめなくらしなんだもの、いっそのことうちをとびだして、乞食にでもなっちまおうかって、そう思わない日はないくらいよ」
「よせよそんな話」と栄二が云った、「自分からきかないでくれって云ったんだろう」
「ほんとだ」おのぶは小さな肩をすくめた、「ごめんなさい、はいお酌」
「その八重歯、可愛いよ」さぶが酒を啜ってから、眩しそうな眼つきでおのぶの口許をみつめた、「その八重歯は抜かずにおくほうがいいと思うがな」
「抜くんじゃないの、自然と抜けるのよ」
「どうしてさ」
「あら知らないの」おのぶは眼をみはった、「八重歯っていうのはね、順番外れに生えたよけいな歯なんですって、だから自然と押しのけられて、いつか抜けてしまうんですってよ」
栄二が慌てて云った、「抜けなければ唇に穴があいちまうんだ、飲めよさぶ」
「あたしなにか悪いこと云ったかしら」とおのぶは栄二の顔を見た。
「いいんだ、そんなことありゃしないよ」とさぶは人の好い笑顔で云った、「栄ちゃんはおれが気にしやあしないかと思って心配しただけさ、おらあ慣れてるから、どんなこと云われたって気になんかしやしない、――もしも唇に穴があくんなら、八重歯は抜けるほうがいいにきまってるさ」
「なんだかさっぱりわからないわ、まるでいやみを云われてるような感じよ」
「済まねえな、話を変えよう」と云って栄二はおのぶに盃を差出した、「おめえも一つ飲まねえか」
「あたし強いのよ」
「いいとも、もう一つ盃を持って来な」
「いま持って来るわ」差された盃を返しておのぶは立ちあがった、「でも、まだ早いんだからあんまり飲まさないでね」
「こっちのふところが続かねえよ」と栄二はおのぶのうしろ姿に向って云った、「なにか自分の喰べるものもそういうんだぜ」
おのぶは土間へおりてから振り返り、栄二の顔をじっとみつめながら、「ありがと、いただきます」と云った。