そうだと答えながら、栄二は撞木杖を突き突きあるいていって、杭のまわりに落ちている丸薪を拾いあげた。四本はすぐにみつかったが、一本は遠くへはねとんだらしく、どうしてもみつけることができなかった。
「まだその杖がいるのかね」
「おかげでどんなに助かってるかわからない、こいつはなにより有難かったよ」そう云って栄二は杖を撫でた、「――おめえ、なにか用があるんじゃねえのか」
「うん、その――」清七はもじもじした、「ちょっと相談があるんだが、ぶしゅう、じゃあねえ栄さん立話は疲れるだろう」
「なに、もう慣れてるさ」
「じつはな」と云って清七はそら咳をし、耳たぶをいじった、「じつはその、今日、おとよのやつが来たんだ」
栄二はほの白い夜気をすかして、清七の顔を見まもった。
「知ってるな、おとよのこと」
「手鎖はこたえたからな」と栄二が云った、「それで、どうした」
「あいつ、松造と別れたって云うんだ、そしてから、おれといっしょになりてえって」
自分さえ望めば、この寄場から出ることができる。その点に差支えはないのだが、ここを出てからのことが問題なのだ。まえにも話したとおり、自分には土方か荷揚げ人足ぐらいしかできないし、どこへいっても人からばかにされ、こき使われるだけだった。こんどしゃばへ出ていっても、それよりいいくらしができようとは思えないし、また人から笑いものにされたら、取返しのつかない間違いをしでかしそうな気がするのだ、と清七はまじめな口ぶりで思いあぐねたように云った。
「正直なはなしおとよとはいっしょになりてえ、知っているとおり、おらあおとよにはしんそこまいってる、おとよといっしょになるためならどんなことでもする気なんだ」と云って清七は大きな太息をついた、「――けれどもしゃばへ出てからのことを考えると、自分じゃあどうしていいかわからなくなっちまうんだ」
栄二は暫く黙っていてから「そいつはむずかしいな」と云った。女がどこまで本気なのか、それがなにより肝心なことだ。この寄場にいるときから、おとよは幾人もの男と交渉があったという。現に清七と約束していながら、元結作りの松造とここから出ていった。その松造とどうして別れたのか、わざわざ寄場まで来て、清七と夫婦になりたいと云いだしたのは、どういうわけか。そこのところだけでも、栄二には腑におちないものがあるように感じられた。
「むずかしいよ、その話は」と栄二は腋にかった杖のぐあいを直しながら云った、「――しゃばでまえにそうだったからといって、こんども同じだとはきまっちゃあいないだろう、油部屋ではずっとなかまを押えてたことだし、案外うまくいくんじゃないかと思う、けれども、こんなことはよけいなおせっかいかもしれないが、肝心なのはおとよっていう人の気持だと思うな」
「おらもそれは考えた、それでよくよくおとよの心持をきいてみたんだ」清七は力をこめて云った、「あいつは泣きどおしに泣いて、あやまったり誓ったりした、これからはおら一人を守って、きっといいかみさんになるからってよ、涙で顔をぐしゃぐしゃにしてた」
そんなにまで清七と夫婦になりたいというのか、本心からそう望んでいるのか、それともまた清七と夫婦になることで、なにか面倒なことから逭れるつもりではないのか。栄二にはそこが、どうしても納得できなかった。
「薄情なようだが、この話はおれなんぞにゃあむりだ」と栄二は詫びるように云った、「――どうだろう、役所の岡安さんなら、いい知恵をかしてくれるんじゃないかと思うが」
「いい知恵なんかおらいらねえ」と清七は首を振った、「おらあただ、おめえの気持さえ聞かしてもらえばいいんだ」
「だから、それは困ると云ってるだろう」
「やってみろとか、よせとか、たったひと言でいいんだがな」清七はすがりつくような声で云った、「おめえは若えけれど苦労しているし、理屈だけでものごとを片づけるような性分じゃあねえ、おめえならおよその見当はつく筈だ、なあ栄さん、たったひと言でいい、やれとかよせとか云ってくれめえか」
栄二は空を見あげた。春とはいってもまだ二月中旬のことで、夜の空気は冷たく、月を孕んだ雲の白っぽい明るさには、地上の人間たちの悲しみや嘆きや、よろこびのむなしさを劬り慰めるような、ひそかなあたたかみが感じられた。
「どうしてもだめだ、勘弁してくれ」やがて栄二は顔をそむけたままで答えた、「おれにゃあなんと云いようもないよ」
清七は栄二の言葉をよく噛みしめてみるように、自分の足もとを見ながら考えていて、それからそっと溜息をついた。
「むりなことを云って済まなかった」と清七は呟くように云った、「おらもよく考えてみるよ、じゃ、またな」
ああ、またなと答えて、栄二は頭を低く垂れた。よすほうがいい、およしなさいよ清さん。去ってゆく清七の足音を聞きながら、栄二は心の中で叫んだ。あの女とはうまくいかないよ、おめえまたひどいめにあうぜ。――だが、それが人間というものかもしれない、と栄二は自分に云った。よせと云っても、やってみろと云っても、清七の気持を変えることはできないだろう。おれがなんと云っても、清七は自分のしたいようにするに違いない。この世で生きてゆくということは、損得勘定じゃあない。短い一生なんだ、自分の生きたいように生きるほうがいい、しっかりやってくれ清さん。