栄二は小机の上にさぶの手紙をひろげ、それをにらみながら習字をしていた。部屋の向うでは、義一を囲んで、五、六人の男が博奕をしながら、酒を飲んでいた。――その中には金太もいたし、富三郎や仁兵衛、そして彫物部屋の伊助もいた。みんな水玉模様の仕着でなく、縞かめくら縞のふだん着で、あぐらをかいたり片膝立てをしたりして、湯呑で冷や酒を飲みながら、茣蓙の上の花札に眼を凝らしていた。――義一とりゅうのほかは、みな病気だと云って仕事を休んだ者ばかりだし、りゅうは戸口の外に立って、見廻りの来るのを見張っていた。
――こんなことがいつまで続くんだろう、と栄二は筆を動かしながら思った。これじゃあまるで、本式の賭場と同じことじゃあないか、役所の人たちはどうしているんだ。
人間は欲には弱いものだ、と栄二はいつか万吉に云った。役人たちも人間だから、金を掴まされれば弱くなる。ことに僅かな扶持で寄場などに勤めている人たちには、その誘惑に勝つのはむずかしいかもしれない。しかし全部が全部ということはないだろう、火事が起こって煙が立っているのに、一人もそれを見ないなどということはない、岡安さんはなにをしているのだ。これはずっとまえから彼の頭にひっかかっていたことだ。たとえ寄場奉行が買収されたとしても、岡安喜兵衛の手を汚すことだけはできないだろう。あの人だけは信じてもいい、たぶんあの人はなにかのきっかけを待っているんだ、栄二はそう思った。
「あにき」と戸口でりゅうが云った、「――誰かやって来るぜ」
「誰かとはなんだ」
「この字でねえこたあ慥かだ」りゅうはちょっと待ってから云った、「わかったよ、いつものかぼちゃだ」
そしてくすっと笑った。栄二は口をあいてそっと息を吐いた。かぼちゃとはさぶのことである、かれらがここにいついてから二度、さぶがたずねて来たとき、義一とりゅうがそう呼んで笑うのを聞いた。――こんなことで怒るなよ、栄二は自分にそう云いきかせながら、筆を置いてうしろの撞木杖を取り、土間のほうへいざっていった。そのときさぶが、風呂敷包みを持って戸口から覗いた。りゅうの躯が邪魔になって、すぐには中へはいれないのであった。
「いまそっちへいくよ」と栄二が呼びかけた、「外で話そう」
ゆっくりしな、と義一のまわりで誰かの云うのが聞え、二、三人がくすくす笑った。栄二が戸口へ近よってゆくと、りゅうはさも面倒くさそうに、のろのろと脇へよけた。
「なにかあったのかい」いっしょにあるきだしながらさぶがきいた。
栄二は首を振った、「外へ出てみたかったんだ、足もならさなくちゃあならないからな」
「しかしいまのあの連中」
「あいつらのことは云うな」と栄二はさぶの言葉を遮った、「海のほうへいってみよう」
杖を使ってあるく栄二の姿を、さぶはしんそこいたましそうな眼で見た。すぐに顔をそむけたが、栄二は「あれだ」あの眼だ、と心の中で叫んだ。いつか夢の中でみた、石と石のあいだから覗いていたさぶは、いまとそっくりな眼つきだった。死なないでおくれ栄ちゃん、おらあおめえだけが頼りなんだ、とあの眼つきで叫んでいたのだ。
「すみよしへはもういかないのか」
「ときたまいくよ」とさぶが答えた、「おのぶちゃんの気持を聞いてっから、妙な話だが、おらあ自分でもおかしいほどさばさばしちゃった」
「自分をごまかすのはよくねえぞ」
「ごまかしじゃあねえ、ほんとなんだ」とさぶは云った、「好きなことはむろん好きさ、一生おのぶさんのことは忘れねえだろう、けれどもさばさばした気持になったことも本当なんだ」
「よかろう」栄二は調子を変えた、「暮の二十六日だかにのぶ公が来て、なにか困ったことができたように云ってたが、おめえなにか知らねえか」
「困ったことって、なんだろう」さぶはちょっと考えてから云った、「おらなんにも気づかなかったが、――おとつい寄ったら、坂本二丁目にうちを借りたってこと、云い忘れたって云ってたよ」
「なんだ、坂本二丁目のうちとは」
「おれたちのうちさ、横丁の古い二戸建てなんだが、もと桶屋が住んでたんだって、仕事場に使える板の間があるんだ」
「ちょっと見ろよ」と栄二は海のほうへ顎をしゃくった、「もう汐干狩をやってるぜ」
二人は南の海端へ来ていて、すぐ向うの、一里も潮がひいたかと思える広い干潟に、貝を拾う人の姿があちらこちらに見えた。
「いつかおれたちもいったっけ」とさぶが眩しそうに眼をそばめて云った、「――三月の大汐のときだったな」
「川崎の大師からまわったんだ」と云って栄二はさぶに振り向いた、「――うちを持つのは勝手だが、おれを当てにしねえでくれよ」