風化した崖が自然と崩れるように、あるいはまた、崖の端にできた地割れが急にひろがり始めたように、もっこ部屋の空気は眼にみえてとげとげしく、険悪になっていった。義一のまわりに集まる者たちは、三月にはいると三十人ちかい数になり、ときによって増減はあっても、十五人以下ということはなかった。勝負はつねに殺気をおびて、腹巻に下帯だけという、きおい立った男が二人や三人はいた。小頭の伝七老人は、或るとき「まるで鉄火場だな」と呟いた。栄二にはその内容はわからないが、言葉の意味はおよそ見当がついた。そしていまでは、小島良二郎のほかに役人が二人、この部屋の見張りに当っていた。
或る夜、栄二が海端で棒投げをしていると、万吉があとを跟けて来て呼びかけた。栄二のすることを暫く見ていたらしく、そっと近づいて来ると、それでやる気か、と問いかけた。
「誰だ」栄二は低い声で咎めた。
「おれだよ」万吉は栄二の前へまわった、「あにいに話があったもんで、後架から出るのを待つつもりだった、そうしたらあにいがこっちへ来るもんだから、どうするのかと思ってついて来たんだ」
「そんならもういってくれ、おれは躯を馴らしてるんだ」
「へーそうかい」と云って万吉は急に話を変えた、「ときに、油部屋のこぶが出てったそうだが、本当かい」
「おれは知らないな、出ていったのか」
「彫物部屋の伊助が、博奕場で饒舌ってるのを聞いたんだ」と万吉が云った、「まえに噂の高かった女が呼出しに来たって、半月ほどまえのことだそうだが、こぶはずいぶん迷ったあげく、伊助に相談をもちかけたっていう、伊助はいっしょになれとすすめたそうだ」
ああ、と栄二は心の中で嘆息をした。おれは薄情な人間だ、どうしたらいいかときかれたとき、よせとひとこと云うべきだった。半月も迷っていたとすると、清七自身も女が信じきれなかったに違いない。あのときおれは、どう云ってもむだだと思った。よせと云っても、女へのみれんな気持を引き戻すことはできないと思った。けれども、いま考えてみるとそれは独り合点であり、心から清七のためを思ったやりかたではなかった。
――おれにはこの撞木杖を突く権利なんかないんだ。
栄二は片手で杖を撫でながら、星のいちめんにきらめいている空を見あげた。
「伊助はその話を、まわりの者といいお笑いぐさにしていた」と万吉は語っていた、「――きっと五十日とは続かないだろうって、こぶの稼ぎ溜めた金がなくなるまえに、女は幾人もの男をつくるだろってな」
「おめえいま博奕場と云ったが、博奕場とはどこのことだ」
「おらあいまこぶの話をしてるんだぜ」
「云ってみろ、博奕場とはどこのことだ」
「あにいが自分にきいてみろよ」と万吉はつよ気にやり返した、「あにいは辛抱づよくそっぽを向いてる、やつらのほうへは眼も向けねえが、やつらのほうじゃあ一人ひとりが、しょっちゅうあにいに眼を光らしてる、あにいがちょっと身動きをしても、幾人かの眼がさっと集まるんだ、やつらはあにいの気持をみぬいてるぜ」
「なにを云いだすんだ、ばかばかしい」栄二は顔をそむけた、「おめえ頭がどうかしてやしねえか」
「そんならそうとしておこう、だがな、あにい、どんなうまい手を使ったって、一人じゃあとうてえむりだぜ」
栄二は冷やかにきき返した、「清七の出ていったのはいつだ」
「いいよ、しらを切るなら切ってるがいい、だがひとことだけ云っておこう」万吉はそこで声をひそめた、「あにい一人にやらせやしねえ、そのときはおれたちもやるぜ、名は云わねえがおれのほかに四人、みんな道具も用意してあるんだ」
「いけねえ」栄二はわれ知らず高い声をあげ、しかしすぐにその声をひそめた、「――そいつはいけねえ、あいつらは匕首を持ってるって、このまえにも云っといた筈だ、やつらは人をあやめるくらいなんとも思っちゃあいねえ、おめえたちが四人や五人でかかったって、とてもかなう相手じゃあねえんだ」
「そんならあにいはどうする気だ」
「この寄場には役人がいる」
「かな轡を噛まされてな」と万吉が云った、「どれほど袖の下をつかまされたか知らねえが、お役人衆はやつらに酒まで運んでるぜ」
栄二は頭を左右に振り、胸に溜った毒気でも吐き出すように、ほうと長く大きい息を吐いた。
「おれは考えてみる、このところずっと考えているんだ」と栄二はやがて云った、「もっこ部屋のことが役所へ知れていない筈はないし、全部の役人が買収されるなんてこともないだろう、役所でまだ手を出さないのは、そこになにかわけがあると思うんだ、きっとなにかわけがある、だから、頼むからむちゃなことはよしてくれ、おれたちの四人や五人で片づくことじゃあねえんだから」