栄二の動作は狂気じみていたが、頭の中は冷静であった。彼が義一に襲いかかったのは怒りの衝動で、判断力よりも本能的な怒りに支配されたものだ。けれども初めに一撃を与えた刹那に、判断力が動きだし、この機会をのがしてはならない、いまここで徹底的にやらなければ、却って災厄の根を残すことになるぞ。この男を人間と思うな、こいつは毒を持った蛇だ、蛇だと思ってやれ。栄二は頭の中で自分にそう命じていた。
りゅうは棒立ちになったままだったが、義一がめった打ちにされ、頭や顔から血がふき出すのを見ると、まっ蒼になってふるえながら、ふところの匕首を抜き、栄二のほうへすり寄った。――博奕をしていた連中も、手習いの机に向っていた者も老人たちも、それまではみな身動きさえしなかった。眼に見えない鎖で縛りつけられでもしたように、その場のすさまじいありさまに圧倒されていたが、りゅうが動きだし、その手で匕首の刃が光ったとき、万吉が夢からさめたようにとびあがった。
「あにいうしろだ」と万吉は叫んだ。
栄二はりゅうに眼をやり、義一を殴っていた杖を持ち変えながら、こっちへ来る万吉に背を向けたままどなった。
「手を出すな、万の字」栄二の声は部屋いっぱいにひびきわたった、「おめえ役所へいってくれ、誰も手出しをするな、これはおれの仕事なんだ」
りゅうは匕首の刃先を上に向け、こっちの耳に聞えるほど荒い息をしながら、じりじりとまをちぢめて来た。栄二はすばやく、義一がのびたまま動かないのを見てとり、そこへりゅうが躯ごと突っかけて来ると、撞木杖を右から左へと振った。りゅうの突っかけた匕首は栄二の左の肩に突き刺さったが、杖で首を強打されたりゅう自身は横へすっとび、板の間の上り端へ転げ込んだ。栄二は隙を与えず駆け寄り、杖を振りあげて殴りつけた。杖は頭に当り胸に当り、横から顔を打った。
「お願いだ、助けてくれ」りゅうは倒れたまま、両手で頭を抱えながら叫んだ、「もう勘弁だ、誰か助けてくれ、死んじまうよう」
だが栄二は力をゆるめなかった。りゅうもまた見るまに血まみれになり、動かなくなった。栄二は殴るのをやめ、義一のほうを見た。義一は俯伏せになり、流れだす自分の血に顔を浸したまま呻いていた。
「――さあ」と栄二は博奕をしていた集りのほうへ呼びかけた、「もうすぐに役所から来るだろう、ほかの部屋の者はいまのうちに帰ってくれ、早くしないとかかりあいになるぞ」
十五、六人いた集りの中から、半数以上の者が立ちあがり、怯えたように土間へとびおりると、はだしのまま戸口から逃げだしていった。
「与平さん」と栄二が云った、「万の字は役所へいったか」
「いったよ」と与平が答えた。
そのとき戸口から小島良二郎がはいって来た。彼は走って来たとみえ、肩で息をしながら部屋の中を見まわし、のびている義一とりゅうの姿から、栄二へと眼を移した。
「私がやりました」と栄二は云った、「いま役所へ届けたところです」
小島の顔が硬ばり、なにか云おうとして口をあいたが、ものは云わずに刀を抜いた。栄二はすばやく撞木杖を取って構えた。
「よしたほうがいい、小島さん」と栄二は静かに云った、「あっしを斬ったところで、証人はほかにいくらでもいるんだ、また、あっしを斬るにはちょっと骨が折れますぜ」
小島の顔に思い惑ったような表情がうかんだ。すると三人の男たちが、六尺棒のような物を持ってこっちへ進み出た。
「いけねえ、出ちゃあいけねえ」と栄二は小島を睨んだままで叫んだ、「これはおれ一人の仕事だ、坐っててくれ」
小島良二郎は部屋にいる人足たちの顔を、恐怖に襲われたような眼で、すばやく眺めまわした。
「刀をおしまいなさい」と栄二が云った、「あんたのことはなにも云やあしない、こんどは役所から人が来るでしょう、じたばたしてもだめだ、刀をしまってここから出ることです」
小島は抜身を持ったまま、じりじりとあとじさりをし、戸口から外へ出ていった。
与平は二人の小頭とともに、義一とりゅうの傷をしらべながら、誰かさんてつ先生を呼んでくれ、と云った。先生は夜はいないよ、と二、三人が答えた。小島良二郎が去ったとたんに、部屋ぜんたいが生き返ったようになり、みんながうろうろと動きまわったり、やかましく話しあったりしていた。駆け戻った万吉が戸口に顔を見せたとき、栄二は自分の躯からなにかが抜け出してゆくような、非常な疲れと虚脱感のため、板の間の上り端へ力なく腰をおろした。
「岡安さんが来るよ」と万吉はうしろ手に戸外を指さして、喘ぎながら云った、「もうそこまで来ている、大丈夫か、あにい」
栄二は頷いて眼をつむり、頭を垂れた。