← Library‹ さぶ 十三の五

栄二えいじは吃驚びっくりしたように岡安おかやすを見みあげた。おまえは咎人とがにんだ、などという言葉ことばを、まさか岡安おかやすの口くちから聞きこうとは思おもわなかったからだ。――岡安おかやす喜兵衛きへえの表情ひょうじょうはすっかり変かわってみえた。眼めだけはあたたかみを湛たたえていたが、顔かおつきぜんたいは冷ひややかにきびしく、人足にんそくたちが「役人やくにんづら」と蔭かげでいう、そのままの顔かおつきにみえた。栄二えいじはこれまでに一いち度ども、そういう顔かおつきの岡安おかやすを見みたことがなかった。

「部屋へやにある持物もちものはこっちへ運はこばせる」と岡安おかやすは云いった、「――ここにいるのもあと二に、三み日かだろうと思おもう、それまでゆっくり休やすんでおくがいい」

栄二えいじはまた両手りょうてを突つき、頭あたまをさげた。

それから中なか一日ついたちおいた二ふた日かめの夜よる、晩ばんめしが済すんで一刻ときほどしてから、前触まえぶれもなく与平よへいがあらわれ、まもなく二人ふたりの下した役人やくにんの手てで、ささやかながら酒肴しゅこうの膳ぜんが運はこばれて来きた。これはわれわれの寸志すんしだから内密ないみつに、というようなことを、下か役人やくにんは呟つぶやくように告つげて去さった。

「いい晩ばんだね」与平よへいがてれたように、低ひくい声こえで口くちをきり、さぐるように栄二えいじを見みた、「――みんな心配しんぱいしているんだが、大丈夫だいじょうぶなんだろうね」

「町まち奉行ぶぎょうで再さい吟味ぎんみということになった」と云いって栄二えいじは徳利とっくりを持もった、「でもたいしたことはないようだから、みんなに心配しんぱいしないようにって云いってくれよ、一ひとつあげよう」

「あたしは酒さけはだめなんだよ」

「まあいい、お別わかれだから受うけてくれ」

ではまねだけ、と云いって与平よへいは盃さかずきを持もった。膳ぜんの上うえにはなにかの酢す味噌みそと、菜なの胡麻ごまあえと、雑魚ざこの佃煮つくだになどが並ならんでいた。

「与平よへいさんに会あえただけでもよかった」と栄二えいじは云いった、「みんなにもずいぶん厄介やっかいをかけたが、与平よへいさんには一生いっしょうかかっても返かえせないような恩おんになったからな」

与平よへいは手てを振ふった、「わたしがなにをしたもんか、そんなことより栄さかえさんのこんどしてくれたことのほうが、よっぽどみんなのために有難ありがたかったよ」

与平よへいは酒さけを啜すすり終おわって、盃さかずきを置おき、栄二えいじに酌しゃくをした。栄二えいじはちょっと口くちをつけただけで、その盃さかずきを持もったまま与平よへいを見みた。

「口くちで云いってもはじまらねえが、おれがここを無事ぶじに出でるときがきたら、与平よへいさんにもいっしょに出でてもらい、いっしょにくらすつもりでいたんだ」

与平よへいは徳利とっくりを持もったまま、おどかされでもしたような眼めで栄二えいじを見返みかえした。

「こんなことになってはそれもお流ながれだが、もしも仮かりに、おれが牢ろうから早はやく出でられ、与平よへいさんがまだここにいてくれたら、おれはきっと迎むかえに来くるよ」

「有難ありがとうよ、有難ありがとう」与平よへいは頭あたまをさげた、「そう云いってくれるだけでたくさんだよ」

「おらあ一人ひとりぼっちだ、小ちいさいじぶん、火事かじのために親おやきょうだいを一いち遍へんにとられてから、きょうだいはともかく、一人ひとりでもいい、親おやが欲ほしかった」栄二えいじはそこで強つよく歯はをくいしばった、「――あんなことさえなければ、おめえといっしょにくらすことができたのに」

「それはうれしいがね、栄さかえさん、一人ひとりぼっちっていうのは間違まちがいじゃないか」と与平よへいが云いった、「――もっこ部屋へやのなかまはともかく、おまえさんにはさぶちゃんとか、おすえちゃん、おのぶさんって人ひとがいるだろう」

栄二えいじは与平よへいを振ふり向むいて見みた。

「ああ知しってるとも」と与平よへいは頷うなずいた、「わたしは三さん人にんとも知しってるよ、そしていつだったか、さぶという人ひとにもっとやさしくしてやったらどうか、と云いったことがある筈はずだ」

「覚おぼえてる」栄二えいじはそう云いって酒さけを啜すすり、背筋せすじをまっすぐに坐すわり直なおした、「せっかくのお別わかれだ、その話はなしはよそう」

「どんな人間にんげんだって独ひとりで生いきるもんじゃあない」と与平よへいは栄二えいじの言葉ことばを聞ききながして続つづけた、「――世よの中なかには賢かしこい人間にんげんと賢かしこくない人間にんげんがいる、けれども賢かしこい人間にんげんばかりでも、世よの中なかはうまくいかないらしい、損得そんとく勘定かんじょうにしても、損そんをする者ものがいればこそ、得とくをする者ものがあるというもんだろう、もしも栄ひさしさんが、わたしたちの恩おんになったと思おもうなら、わたしたちだけじゃなく、さぶちゃんやおのぶさん、おすえちゃんのことを忘わすれちゃあだめだ、おまえさんは決けっして一人ひとりぼっちじゃあなかったし、これから先さきも、一人ひとりぼっちになることなんかあ決けっしてないんだからね」

栄二えいじは持もっている盃さかずきをみつめていたが、急きゅうに眉まゆをしかめ、与平よへいから徳利とっくりを取とって、「もう一ひとつだけ」と云いって、酌しゃくをした。与平よへいはしぶしぶ盃さかずきを持もち、毒どくでも飲のむように、そっと口くちをつけた。

「こんなお説教せっきょうめいたことは、柄がらでもないからもうよすがね」と与平よへいは片手かたてで口くちを撫なでながら云いった、「――栄ひさしさんはきっと一流いちりゅうの職人しょくにんになるだろうし、そういう人柄ひとがらだからね、尤もっとも、栄さかえさんだけじゃあない、世よの中なかには生うまれつき一流いちりゅうになるような能のうを備そなえた者ものがたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生うまれつきの能のうを持もっている人間にんげんでも、自分じぶんひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のうのある一人ひとりの人間にんげんが、その能のうを生いかすためには、能のうのない幾十いくじゅう人にんという人間にんげんが、眼めに見みえない力ちからをかしているんだよ、ここをよく考かんがえておくれ、栄さかえさん」

年寄としよりになるとこういう口くちをきくから嫌きらわれるんだね、と云いって与平よへいは笑わらった。

――さぶ、と栄二えいじは心こころの中なかで叫さけんだ。ああさぶ、もういちどおまえに会あいたかった。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%