栄二は吃驚したように岡安を見あげた。おまえは咎人だ、などという言葉を、まさか岡安の口から聞こうとは思わなかったからだ。――岡安喜兵衛の表情はすっかり変ってみえた。眼だけはあたたかみを湛えていたが、顔つきぜんたいは冷やかにきびしく、人足たちが「役人づら」と蔭でいう、そのままの顔つきにみえた。栄二はこれまでに一度も、そういう顔つきの岡安を見たことがなかった。
「部屋にある持物はこっちへ運ばせる」と岡安は云った、「――ここにいるのもあと二、三日だろうと思う、それまでゆっくり休んでおくがいい」
栄二はまた両手を突き、頭をさげた。
それから中一日おいた二日めの夜、晩めしが済んで一刻ほどしてから、前触れもなく与平があらわれ、まもなく二人の下役人の手で、ささやかながら酒肴の膳が運ばれて来た。これはわれわれの寸志だから内密に、というようなことを、下役人は呟くように告げて去った。
「いい晩だね」与平がてれたように、低い声で口をきり、さぐるように栄二を見た、「――みんな心配しているんだが、大丈夫なんだろうね」
「町奉行で再吟味ということになった」と云って栄二は徳利を持った、「でもたいしたことはないようだから、みんなに心配しないようにって云ってくれよ、一つあげよう」
「あたしは酒はだめなんだよ」
「まあいい、お別れだから受けてくれ」
ではまねだけ、と云って与平は盃を持った。膳の上にはなにかの酢味噌と、菜の胡麻あえと、雑魚の佃煮などが並んでいた。
「与平さんに会えただけでもよかった」と栄二は云った、「みんなにもずいぶん厄介をかけたが、与平さんには一生かかっても返せないような恩になったからな」
与平は手を振った、「わたしがなにをしたもんか、そんなことより栄さんのこんどしてくれたことのほうが、よっぽどみんなのために有難かったよ」
与平は酒を啜り終って、盃を置き、栄二に酌をした。栄二はちょっと口をつけただけで、その盃を持ったまま与平を見た。
「口で云ってもはじまらねえが、おれがここを無事に出るときがきたら、与平さんにもいっしょに出てもらい、いっしょにくらすつもりでいたんだ」
与平は徳利を持ったまま、おどかされでもしたような眼で栄二を見返した。
「こんなことになってはそれもお流れだが、もしも仮に、おれが牢から早く出られ、与平さんがまだここにいてくれたら、おれはきっと迎えに来るよ」
「有難うよ、有難う」与平は頭をさげた、「そう云ってくれるだけでたくさんだよ」
「おらあ一人ぼっちだ、小さいじぶん、火事のために親きょうだいを一遍にとられてから、きょうだいはともかく、一人でもいい、親が欲しかった」栄二はそこで強く歯をくいしばった、「――あんなことさえなければ、おめえといっしょにくらすことができたのに」
「それはうれしいがね、栄さん、一人ぼっちっていうのは間違いじゃないか」と与平が云った、「――もっこ部屋のなかまはともかく、おまえさんにはさぶちゃんとか、おすえちゃん、おのぶさんって人がいるだろう」
栄二は与平を振り向いて見た。
「ああ知ってるとも」と与平は頷いた、「わたしは三人とも知ってるよ、そしていつだったか、さぶという人にもっとやさしくしてやったらどうか、と云ったことがある筈だ」
「覚えてる」栄二はそう云って酒を啜り、背筋をまっすぐに坐り直した、「せっかくのお別れだ、その話はよそう」
「どんな人間だって独りで生きるもんじゃあない」と与平は栄二の言葉を聞きながして続けた、「――世の中には賢い人間と賢くない人間がいる、けれども賢い人間ばかりでも、世の中はうまくいかないらしい、損得勘定にしても、損をする者がいればこそ、得をする者があるというもんだろう、もしも栄さんが、わたしたちの恩になったと思うなら、わたしたちだけじゃなく、さぶちゃんやおのぶさん、おすえちゃんのことを忘れちゃあだめだ、おまえさんは決して一人ぼっちじゃあなかったし、これから先も、一人ぼっちになることなんかあ決してないんだからね」
栄二は持っている盃をみつめていたが、急に眉をしかめ、与平から徳利を取って、「もう一つだけ」と云って、酌をした。与平はしぶしぶ盃を持ち、毒でも飲むように、そっと口をつけた。
「こんなお説教めいたことは、柄でもないからもうよすがね」と与平は片手で口を撫でながら云った、「――栄さんはきっと一流の職人になるだろうし、そういう人柄だからね、尤も、栄さんだけじゃあない、世の中には生れつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生れつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ、ここをよく考えておくれ、栄さん」
年寄りになるとこういう口をきくから嫌われるんだね、と云って与平は笑った。
――さぶ、と栄二は心の中で叫んだ。ああさぶ、もういちどおまえに会いたかった。