五月に和助が芳古堂を出て、浅草の東仲町に「香和堂」という自分の店を持ち、十五歳になる小僧の半次をもらっていった。そのまえに卯吉、定という二人の小僧がはいっていたし、秋までは店もひまなので、半次を付けてやったのであった。
栄二とさぶは、休みの日になると「すみよし」へかよった。どうやらさぶはおのぶが好きになったらしく、なんとか口実をつくっては手土産を買ってゆくが、自分ではそうする勇気がないのだろう、栄二に頼んで渡すのが例になっていた。――そろそろ寒くなりはじめた十月の十五日、二人はまた夕めしのあとで「すみよし」へ飲みにいった。その夜もまたおのぶのために、縫取りのある半襟を買い、栄二に預かってもらっていったのだが、すみよしの店の、いつもの小座敷へあがると、栄二は包みをさぶに返した。
「もういいだろう」と栄二はわざと冷淡に云った、「十七や十八の小僧じゃあねえ、これからは自分でやれよ」
「わかってるだろう」さぶはとり縋るような眼つきをした、「おれにはできやしないよ」
「のぶ公は知ってるんだぜ」と栄二が云った、「おれが云ったんじゃあねえ、のぶ公が自分で勘づいたんだ、あんたはこんなことしてくれる人じゃないって、おれは面と向って云われちまった、いいつらの皮さ」
「いつのことだ」
「このまえのとき、おめえが手洗いに立ったあとでよ」
さぶは包みを脇に置いて、恥ずかしそうに低くうなだれた。まもなくおのぶが来、注文をとおしてから、先に酒だけ持って戻った。そしていつものように飲み始めたのだが、さぶはすっかりふさいでしまい、例になく盃は重ねるが酔うようすはなく、少しも気持がはずまないので、二人はまもなくすみよしを出た。
「なぜそれを渡さなかったんだ」暗い堀端を小舟町のほうへ歩きながら栄二が云った、「のぶ公はその包みを見ていたぜ」
さぶは堀の角で急に立停った。
「おら、酔っちまったらしい」さぶはちょっとよろよろしたが、そこへしゃがみこんでしまった、「――今夜は栄ちゃんに話があったんだよ」
「こんな堀っ端でどうするんだ、風邪をひいちまうぜ」
「和助あにいは店を持った」とさぶは口ごもりながら云った、「栄ちゃんもそのうちに店を持つだろう、けれどもおれはだめだ」
「そんな話は帰ってからにしろよ」
「おら、思うんだが」さぶの声はみじめに弱よわしかった、「どうせゆく先に望みがねえんなら、いっそいまのうちに、職を変えるほうがいいんじゃねえだろうか」
「ばかなことを云うな、おめえほど糊の仕込み上手な者はほかにいやあしねえ、親方がいつもそう云ってるのは自分でも聞いて知ってるじゃねえか」
さぶはちょっと黙っていてから云った、「――栄ちゃんはいつか、糊の仕込みで日本一になれば、それで立派な職人だと云ってくれた、そのとおりだろう、その場かぎりの慰めじゃあねえだろうが、糊作りだけじゃあ自分の店は持てやしねえ、よくいって一生涯、芳古堂の飼いごろしじゃあねえか」
「話ってなあそのことか」答えを捜すためのように栄二は問い返し、そして、答えが出てこないのだろう、独りで頷いてから静かに云った、「――にんげんは一寸さきのことだって、本当はどうなるか見当もつきあしねえ、まして五年さき十年さきのことなんか、神ほとけにだってわかりゃあしねえだろう、けれどもな、おめえがそう云うからおれの気持も聞いてもらうんだが、このまま順当にゆくとして、もしもおれが自分の店を持つようになったら、おめえといっしょに仕事をしようと考えているんだ」
さぶはゆっくりと栄二の顔を見あげ、栄二はさぶと並んでしゃがみこんだ。
「どんな店が持てるかわからねえが、二人でいっしょに住み、おめえの仕込んだ糊でおれが表具でも経師でも、立派な仕事をしてみせる、お互いにいつか女房をもらうだろう、そして子供もできるだろうが、それからも二人ははなれやしねえ」と栄二はひそめた声に感情をこめて云った、「――いつまでも二人でいっしょにやっていって、芳古堂に負けねえ江戸一番の店に仕上げるんだ、おれはこう考えているんだが、おめえはどう思う、おれとやるのはいやか」
さぶは考えてみてから首を振った、「だめだ、そう思ってくれるのは有難えが、おら、おめえの重荷になるばかりだ」