下谷の家は、坂本二丁目の横丁にある二戸建てで、隣りには増六という、中年の夫婦が住んでいた。間取りは六帖ふた間に、八帖ほどの板の間。勝手に厠が付いていた。井戸はすぐ裏で、勝手には造りつけのへっついがあり、手桶から水瓶、鍋釜まで揃っていた。――さぶは戸納をあけて、新しいふた組の蒲団をみせ、ひと組はおすえが作って来たものだと説明した。そのふた組は唐草の油単に包んであり、べつのところに、もうひと組の蒲団があった。
「これがおらのさ」とさぶは云った、「栄さんたちのには手もつけなかったよ、おすえちゃんが来たら、おらあべつになるからな」
「べつになるって」
「この間取りで三人はむりだ、そう思ったから金杉町のもとの長屋に手が打ってあるんだ」
なぜそんなむだなことをした、これで充分じゃあないか、そう云おうとしたが、栄二は口には出さなかった。奥の六帖には長火鉢、箪笥、茶箪笥、衣桁、鏡架などが並んでい、板の間には仕事道具が揃えてあった。
「これだけを独りでやったのか」
「そうじゃねえ、奥のほうはおすえちゃんと二人で揃えたんだ」
「よくそんな金があったな」
「怒られるかもしれねえが」とさぶがあやまるように云った、「見てもらいてえものがあるんだ」
栄二は火のない長火鉢の脇に坐り、おちつかないようすで、その長火鉢のふちや、猫板などを撫でた。さぶは箪笥の小物入れの抽出から、半紙三枚を折った書付けを取出して来て、栄二の前に坐り、それを手渡した。
「栄ちゃんから預かった金で、これだけの物を揃えた、断わりなしに勝手なまねをして済まなかったが、品物の値段はそれにちゃんとつけておいたよ」とさぶは云った、「――たぶん間違いはねえと思うが、念のために見ておいてくれないか」
栄二は三枚の書付けにざっと眼をとおしたが、もちろん帳尻を見るようなつもりはまったくない、彼はふところから財布を出すと、それを書付けといっしょに、さぶの前へ押しやった。
「おめえになにもかもやってもらって、済まないというのはこっちのことだ、この財布の中には石川島で稼いだものがはいってる。僅かなもんで恥ずかしいが取っといてくれ、埋め合せはあとでするから」
「埋め合せだって」さぶは訝しげな眼つきをした、「なんのことだい」
「まあいい」と栄二は云った、「晩めしに二人で、なにかうまい物でも取るとしようか」
書付けをしらべるまでもなく、栄二の預けた金だけで、この家具什器が買えるわけはない、さぶの金が加わっていることは疑う余地がなかった。脚気を病んで帰郷しているあいだ、葛西の家でも相当な食い扶持を取られたであろう、そのうえこれだけの世帯道具を買い揃えたのだから、おそらくさぶは財布の底をはたいたに違いない。そう思ったけれども、これまた礼を云って済むことではないから、彼は話をそらしたのであった。
家主の源助と隣りの増六の家、そしてまた通りを隔てた、向う三軒へ挨拶にいってから、二人で晩めしを喰べた。めしだけはさぶが炊き、表通りの「魚喜久」という仕出し屋から、汁と焼物、刺身、酢の物などを取り、酒も二本つけた。これまでの習慣どおり、二人は徳利も盃もべつべつで、酌をしあったり盃のやりとりをするようなことはなかった。
「これはおれたちの店だ」栄二は初めの盃を啜ってから、ぐるっと家の中を見まわした、「――この店から、おれたちは始めるんだ、さぶ、しっかりやろうぜ」
「できるだけお荷物にならねえようにするから」と云ってさぶは頭をさげた、「よろしく頼むよ、栄ちゃん」
ばかなことを云うな、と叱りつけようとしたが、栄二は自分を制して云った、「――お互いさまだ、おれもよろしく頼むぜ」
「ようやくここまできた」さぶは酒を啜って云った、「そのうちに二人で店を持とうって、いつか栄ちゃんに云われてから、おら夢にまでみたけれども、それが本当のことになろうとは思わなかった、おらあいま嬉しいような、おっかねえような心持だよ」
「おれだって同じこった、世の中はあまくあねえ、せっかくこうして店を持っても、うまくやってゆけるかどうかはわからねえからな、考えてみればおれだっておっかなくなるぜ」
さぶは怯えでもしたように、眼をみはって栄二を見た。
「そんなことがあるもんか」さぶはむきになって云い返した、「栄ちゃんだけの腕があれば、どこへ出たって押しも押されもしやしねえ、そんな弱気なことを云うなんて、てんで栄ちゃんらしくもねえや」
「そう思ってくれるのはおめえだけだ」と栄二はまじめに云った、「おれはあしかけ三年も仕事をしなかった、以前のような腕にいつ戻れるか、正直に云って自分でも見当がつかない、ただ、――いまのおれにとっては、おめえが側にいてくれるというだけが大きな頼みだ、これだけは忘れないでくれな、さぶ」
「そんなことを云われる柄じゃあねえ、おらあいまでも頓馬でぐずで能なしなんだ、けれども」とさぶは屹と眼をあげて云った、「もし栄ちゃんの役に立つんなら、おらどんなことでもするよ」