← Library‹ さぶ 十四の三

「いきり立たっちゃったな」栄二えいじは苦笑にがわらいをして、その場ばの空気くうきをほぐすように、箸はしを取とりながら明あかるい調子ちょうしで云いった、「――二人ふたりだけで食くう初はじめてのめしだ、肩かたの張はるような話はなしはやめて、賑にぎやかにやろうぜ」

「酒さけをもう一いち本ほんずつやるか」

「これでよそう、仕事しごとのめどがつくまでは、飲のみたくっても一いち本ほん、できることなら飲のまずにとおすつもりなんだ」そう云いってから、彼かれはてれたように額がくの脇わきを指ゆびでこすった、「――またいきまいちゃうな、どうもいけねえ、しゃばへ出でて来きたんですっかり戸惑とまどっちゃったようだぜ」

「すぐにおちつくよ」とさぶが心配しんぱいそうに云いった、「二に、三み日かはしようがねえさ」

明あくる日ひ、栄二えいじはさぶに伴つれられて、金杉かなすぎ三さん丁目ちょうめへゆき、おすえの父親ちちおやに会あった。筆ふで屋やは小ちいさな店みせで、小僧こぞうが一人ひとり、平蔵へいぞうは妻つまを亡なくして長ながいこと独ひとりぐらしだという。おすえとは顔かおも躯からだつきもまったく似にていないが、口くちの重おもい、温厚おんこうそうな人柄ひとがらで、もう五十ごじゅうを越こしたように老ふけてみえるのに、としは四十よんじゅう五ご歳さいだと云いった。

「ええ、ひとり娘むすめですよ」と平蔵へいぞうは休やすみなしに煙草たばこをふかしながら云いった、「ひとり娘むすめですがご心配しんぱいはいりません、私わたくしは私わたくしでやってゆきます、女おんなっていうものは、としごろになるとたんに、親おやからはなれちまうもんです、親おやの側がわにいるうちは、いちにんまえの女おんなにはなれないようです」

おすえが十じゅう三さんになった年とし、平蔵へいぞうが彼女かのじょを呼よんで叱しかろうとした。そのころは妻女さいじょもまだ生いきていて、ひとり娘むすめのおすえを大事だいじにし、わがままいっぱいに育そだてた。だが十じゅう三さんにもなれば、そろそろ躾しつけもしなければならないと思おもい、なにが原因げんいんだったか忘わすれたけれども、小言こごとを云いおうとして呼よんだ。するとおすえは「はい」と云いって立たって来きた。はいと云いうその声こえと調子ちょうしとは、昨日きのうまでのおすえのものではなかった。

「私わたくしやおふくろに物ものをねだったり、だだをこねたりしていた声こえではないんです」と平蔵へいぞうは静しずかに続つづけた、「――なんて云いいますかな、まあひとくちに云いうと、小娘こむすめから女おんなになった声こえ、といったようなものでしょう、親おやの私わたくしたちとはもう縁えんが切きれたな、と私わたくしはそのとき思おもいました」

その時期じきがくれば、娘むすめたちは知しらないうちに親おやからはなれる準備じゅんびができるものだ。私わたくしはそのときもうおすえは「自分じぶんたちの娘むすめ」ではないと思おもった、と云いい、そこで平蔵へいぞうはむっつりと黙だまりこんだ。

祝言しゅうげんについての打合うちあわせを済すませ、筆ふで屋やの店みせを出でてほんの一いち丁ちょうばかりゆくと、晴はれている空そらから雨あめが降ふってきた。見みあげると、青あおい空そらに白しろと鼠色ねずみいろの雲くもが重かさなりあい、ひと固かたまりの黒くろい雨雲あまぐもが、南みなみのほうから速はやい速度そくどでひろがりつつあった。

「夕立ゆうだちが来きそうだな」と栄二えいじがその雨雲あまぐもを見みながら云いった、「いそごうか」

「それよりおらのうちへ寄よろう」

「――おまえのうちだって」

「おらが手てを打うっといたうちよ」とさぶが云いった、「そこのろじの中なかだ、どぶ板いたに気きをつけてくんな」

右側みぎがわが田圃たんぼで、その向むこうに上野うえのの丘おかと森もりが見みえた。田たへ引ひく水みずだろう、細ほそい流ながれにひと跨またぎの橋はしがあり、それを渡わたって、左側ひだりがわにある八百屋やおやの角かどを、ろじへとはいった。この辺へんは火事かじもないのか、両側りょうがわから庇ひさしの触ふれあうような長屋ながやは古ふるく、軒のきも柱はしらもかしがっているし、どぶ板いたから溢あふれ出でる汚水おすいが、異様いような臭気しゅうきをろじいっぱいにふり撒まいていた。

ひでえところだなと、栄二えいじが思おもわず顔かおをしかめたとき、雨あめがうちまけるようなひどい降ふりになり、さぶは長屋ながやの一いち軒けんへとびこんだ。

「いるかい、おせえちゃん」彼かれは障子しょうじの向むこうへ呼よびかけながら、栄二えいじに手招てまねきをした、「おせえちゃん、おらだ、さぶだよ」

返辞へんじがして、障子しょうじがあいた。栄二えいじも軒先のきさきでは濡ぬれるので、やむを得えず狭せまい土間どまへはいった。障子しょうじをあけたのは十じゅう六ろくか七ななになる娘むすめで、さぶを見みると大おおきく眼めをみはった。

「まあ珍めずらしい」娘むすめはうきうきと云いった、「よくいらしったわね、――お伴つれさまですか」

「ああ」さぶはぶきようなあいまいさで笑わらった、「夕立ゆうだちになったんでね、ちょっとうちへ寄よってあまやみをしようと思おもったんだよ」

「鍵かぎですか」と云いって立たとうとしたが、娘むすめは膝ひざをついたままさぶと栄二えいじを見みた、「あまやどりならここでもいいでしょ、あちらは閉しめっきりでかび臭くさいでしょうから」

「でも、ご病人びょうにんに悪わるいからね」

「父ちちにご遠慮えんりょはいりません、いまお茶ちゃでも淹いれますから」と云いって娘むすめは栄二えいじにも頬笑ほうえみかけた、「あなたもどうぞ、ちょっとお掛かけ下くださいまし」

栄二えいじは黙だまって会釈えしゃくをし、娘むすめは立たっていった。

「ここにいたときの知合しりあいなんだ」さぶは囁ささやいた、「もとお侍さむらいだったそうでね、親おや御ごさんは長ながく寝ねたっきり、おせえちゃんていういまの娘むすめさんが、内職ないしょくをして養やしなってるんだ」

「どうりで、人柄ひとがらが違ちがうと思おもったよ」

そう云いいながら栄さかえ二には、さぶを見みたときの娘むすめの、吃驚びっくりしたように大おおきくみはったすずしい眼めや、話はなしかける口くちぶりのうきうきした調子ちょうしなどが、さぶに対たいする娘むすめの感情かんじょうを、あからさまにあらわしているように思おもえた。

「きりょうよしだな」と栄二えいじが囁ささやいた、「年ねんは幾いくつくらいだ」

「ええと」さぶは指ゆびを折おってみて、云いった、「ちょうど十じゅう六ろくだな、まだ子供こどもなんだよ」

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