「いきり立っちゃったな」栄二は苦笑いをして、その場の空気をほぐすように、箸を取りながら明るい調子で云った、「――二人だけで食う初めてのめしだ、肩の張るような話はやめて、賑やかにやろうぜ」
「酒をもう一本ずつやるか」
「これでよそう、仕事のめどがつくまでは、飲みたくっても一本、できることなら飲まずにとおすつもりなんだ」そう云ってから、彼はてれたように額の脇を指でこすった、「――またいきまいちゃうな、どうもいけねえ、しゃばへ出て来たんですっかり戸惑っちゃったようだぜ」
「すぐにおちつくよ」とさぶが心配そうに云った、「二、三日はしようがねえさ」
明くる日、栄二はさぶに伴れられて、金杉三丁目へゆき、おすえの父親に会った。筆屋は小さな店で、小僧が一人、平蔵は妻を亡くして長いこと独りぐらしだという。おすえとは顔も躯つきもまったく似ていないが、口の重い、温厚そうな人柄で、もう五十を越したように老けてみえるのに、としは四十五歳だと云った。
「ええ、ひとり娘ですよ」と平蔵は休みなしに煙草をふかしながら云った、「ひとり娘ですがご心配はいりません、私は私でやってゆきます、女っていうものは、としごろになるとたんに、親からはなれちまうもんです、親の側にいるうちは、いちにんまえの女にはなれないようです」
おすえが十三になった年、平蔵が彼女を呼んで叱ろうとした。そのころは妻女もまだ生きていて、ひとり娘のおすえを大事にし、わがままいっぱいに育てた。だが十三にもなれば、そろそろ躾もしなければならないと思い、なにが原因だったか忘れたけれども、小言を云おうとして呼んだ。するとおすえは「はい」と云って立って来た。はいと云うその声と調子とは、昨日までのおすえのものではなかった。
「私やおふくろに物をねだったり、だだをこねたりしていた声ではないんです」と平蔵は静かに続けた、「――なんて云いますかな、まあひとくちに云うと、小娘から女になった声、といったようなものでしょう、親の私たちとはもう縁が切れたな、と私はそのとき思いました」
その時期がくれば、娘たちは知らないうちに親からはなれる準備ができるものだ。私はそのときもうおすえは「自分たちの娘」ではないと思った、と云い、そこで平蔵はむっつりと黙りこんだ。
祝言についての打合せを済ませ、筆屋の店を出てほんの一丁ばかりゆくと、晴れている空から雨が降ってきた。見あげると、青い空に白と鼠色の雲が重なりあい、ひと固まりの黒い雨雲が、南のほうから速い速度でひろがりつつあった。
「夕立が来そうだな」と栄二がその雨雲を見ながら云った、「いそごうか」
「それよりおらのうちへ寄ろう」
「――おまえのうちだって」
「おらが手を打っといたうちよ」とさぶが云った、「そこのろじの中だ、どぶ板に気をつけてくんな」
右側が田圃で、その向うに上野の丘と森が見えた。田へ引く水だろう、細い流れにひと跨ぎの橋があり、それを渡って、左側にある八百屋の角を、ろじへとはいった。この辺は火事もないのか、両側から庇の触れあうような長屋は古く、軒も柱もかしがっているし、どぶ板から溢れ出る汚水が、異様な臭気をろじいっぱいにふり撒いていた。
ひでえところだなと、栄二が思わず顔をしかめたとき、雨がうちまけるようなひどい降りになり、さぶは長屋の一軒へとびこんだ。
「いるかい、おせえちゃん」彼は障子の向うへ呼びかけながら、栄二に手招きをした、「おせえちゃん、おらだ、さぶだよ」
返辞がして、障子があいた。栄二も軒先では濡れるので、やむを得ず狭い土間へはいった。障子をあけたのは十六か七になる娘で、さぶを見ると大きく眼をみはった。
「まあ珍しい」娘はうきうきと云った、「よくいらしったわね、――お伴れさまですか」
「ああ」さぶはぶきようなあいまいさで笑った、「夕立になったんでね、ちょっとうちへ寄ってあまやみをしようと思ったんだよ」
「鍵ですか」と云って立とうとしたが、娘は膝をついたままさぶと栄二を見た、「あまやどりならここでもいいでしょ、あちらは閉めっきりでかび臭いでしょうから」
「でも、ご病人に悪いからね」
「父にご遠慮はいりません、いまお茶でも淹れますから」と云って娘は栄二にも頬笑みかけた、「あなたもどうぞ、ちょっとお掛け下さいまし」
栄二は黙って会釈をし、娘は立っていった。
「ここにいたときの知合いなんだ」さぶは囁いた、「もとお侍だったそうでね、親御さんは長く寝たっきり、おせえちゃんていういまの娘さんが、内職をして養ってるんだ」
「どうりで、人柄が違うと思ったよ」
そう云いながら栄二は、さぶを見たときの娘の、吃驚したように大きくみはったすずしい眼や、話しかける口ぶりのうきうきした調子などが、さぶに対する娘の感情を、あからさまにあらわしているように思えた。
「きりょうよしだな」と栄二が囁いた、「年は幾つくらいだ」
「ええと」さぶは指を折ってみて、云った、「ちょうど十六だな、まだ子供なんだよ」