← Library‹ さぶ 十五の一

栄二えいじはさぶの仕事しごとの手伝てつだいから始はじめた。よくって中なかどころの襖ふすま、たいていは長屋ながや用ようのからかみであり、ときに表通おもてどおりの商家しょうかや、囲かこい者ものの家いえの障子しょうじの張替はりかえなどもやった。あしかけ三さん年ねんあそばせていた腕うでのなまりを、そういう駄だ仕事しごとから始はじめて、取返とりかえそうと思おもったのだ。

「こんな仕事しごとはいいよ」とさぶはきまり文句もんくのように云いった、「栄さかえちゃんなんかには勿体もったいない、おれ一人ひとりで片かたつけるよ」

「いいったら」栄二えいじはいつもうるさそうに答こたえた、「心配しんぱいするなよ」

さぶは金杉かなすぎの家いえへ移うつり、朝あさ八はち時じに来きて、夜よなべがなければ、晩ばんめしを喰たべて帰かえった。夜よなべをするほど仕事しごとは多おおくなかったし、御徒町おかちまちの経師きょうじ屋やにもあまり仕事しごとはなかった。初はじめに俗ぞくっぽい大幅おおはばの表具ひょうぐを頼たのまれたとき、まだ腕うでがなまっていて表具ひょうぐはできない、と断ことわったのがわるかったらしい。芳かおる古こ堂どうの名なを鼻はなにかけていると思おもわれたようで、それまでさぶにまわしていた仕事しごとまで減へらされてしまった。

「大丈夫だいじょうぶだよ、心配しんぱいすることはないよ」とさぶは繰返くりかえし云いった、「小舟こぶね町まちだって夏場なつばはひまだった、毎年まいとしこんなふうだったじゃないか、すず風かぜが吹ふきだせばいそがしくなるよ」

「おれは心配しんぱいなんかしてやしない」そう云いって栄二えいじは笑わらった、「なんだって初はじめからとんとん拍子ひょうしにいくもんじゃあないさ、おめえは苦労くろう性せいだな」

これなら寄場よせばのほうがよかった。はるかによかったと云いってもいい、食くう心配しんぱいはなし、仕事しごとはいつもあるし、賃銀ちんぎんも貰もらえるし、病気びょうきになればただで治療ちりょうも受うけられる。寄場よせばから出でたがらない者ものが少すくなくないのは当然とうぜんだな、と栄二えいじはひそかに思おもった。――かれらの生活せいかつをみて、これは飼殺かいごろしだと思おもったこともあるが、いま妻つまをもち、小ちいさいながら自分じぶんたちの店みせをもって、いちにちいちにち生いきてゆくということの、息苦いきぐるしい困難こんなんさにぶつかってみると、改あらためて寄場よせばで聞きいた言葉ことばの意味いみがわかるように思おもえた。

――ここでは、一ひとつの仕事しごとを幾十いくじゅう人にんかで奪うばいあわなければならない、と栄二えいじは思おもった。どの職しょくに限かぎらず、その仕事しごとを自分じぶんのものにするには誰だれにも負まけない腕うでをもたなくてはいけないし、それでもちょっとゆだんをすれば、横よこから人ひとに取とられてしまう、まるで一いち疋ぴきの餌食えじきを奪うばいあう狼おおかみの群むれのようだ。

手間賃てまちんの安やすいのをいとわず、注文ちゅうもんがあればどんな仕事しごとでもしたし、注文ちゅうもんのないときには長屋ながや用ようのからかみを作つくって、売物うりものに出だしたりしたが、それでも八はち月がつにはいると、持もっていた僅わずかな貯たくわえさえ底そこをついてしまった。

「こんなことを云いうと人ひとでなしのようだけれど」と或あるときさぶが呟つぶやいた、「大おおきな火事かじでもあってくれたら、少すこしは息いきがつけるんだがな」

「大だい火事かじがあるとすれば」と栄二えいじが云いった、「まっ先さきにこのうちが焼やけるだろう、運うん不運ふうんというのはそんなものさ、おかしなことを考かんがえるより、糊のりの仕込しこみを大事だいじにしてくれよ」

おすえはよくやっていた。初はじめから新世帯しんじょたいなどという色いろめいた、華はなやかな気分きぶんはまるでなかった。家事かじの手てがあけばすぐに仕事場しごとばへ出でて、小こまめに栄二えいじの手助てだすけをした。綿めん文ぶんのあとで奉公ほうこうにいった先さきも、日本橋にほんばし通とおり二に丁目ちょうめの大おおきな商家しょうかで、やはり上かみ女中じょちゅうをしていたというから、手爪先てつまさきもきれいにほっそりしていたが、その手てもたちまち荒あれ、節ふしぶしも高たかくなるばかりであった。五十ごじゅう日にちあまりは新妻にいづまらしく結ゆっていた髪かみも、髪結かみゆい賃ちんと暇ひまが惜おしいため、いつか束たばね髪がみで済すますようになり、もちろん紅白粉べにおしろいなどつけることもなくなっていった。

――あんまり早はやく世帯せたいじみるなよ。

栄二えいじはなんどかそう云いおうとしたが、女房にょうぼうとしての一日ついたちの忙いそがしさを見みていると、口くちに出だして云いうことはできなかった。

めしは朝あさの九きゅう時じと夕方ゆうがた六ろく時じ、どっちも三さん人にんでいっしょに喰たべていたが、八はち月がつ中旬ちゅうじゅんごろからおすえが欠かけ、やがてさぶも晩ばんめしを喰たべなくなった。金杉かなすぎの家いえでおせいが支度したくをして待まっているから、というのであった。おすえはあとで独ひとりで喰たべると云いい、狭せまい勝手かってでそこそこに片かたづけるらしい。栄二えいじはそれを疑うたがいもしなかったが、さぶは金杉かなすぎのほうの屋台やたい店てんで、安やすいぶっかけめしを喰たべ、おすえは残のこっためしを雑炊ぞうすいや粥かゆにのばし、おかずも生せい味噌みそか塩しおを舐なめて済すましていた。ひとくちに云いえば、そうして食事しょくじをつめなければならないほど、家計かけいは苦くるしくなっていたのだ。

栄二えいじは表具ひょうぐの腕うでを取とり返かえすために、毎夜まいよおそくまで仕事しごと場じょうでねばった。おすえも側がわに付つきっきりで、蚊遣かやりを焚たいたり、汗あせになった栄二えいじを団扇うちわであおいだり、手拭てぬぐいを水みずで絞しぼって来きたりした。

「さぶの長屋ながやにおせえっていう娘むすめがいるんだ」と栄二えいじが或ある夜よるおすえに云いった、「まだ十じゅう六ろくだそうだがね、どうやらさぶに惚ほれこんでいるらしいよ」

「じゃあその人ひとですね、晩ばんめしを作つくって待まっているっていうのは」

栄二えいじは頷うなずいた、「さぶは相手あいてを子供こどもだと思おもって、まるっきり気きがつかないらしいが、その娘むすめはもう立派りっぱなおとなだ、五ご歳さいのときから苦労くろうのしどおしで、いまでも寝ねたっきりの父親ちちおやを養やしなっているんだからな、おめえもいつかいって見みておいてくれ」

「あたしがですか」

「おまえがさ」と栄二えいじは微笑びしょうした、「――おれにはさぶの嫁よめにうってつけだと思おもうんだ」

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