栄二はさぶの仕事の手伝いから始めた。よくって中どころの襖、たいていは長屋用のからかみであり、ときに表通りの商家や、囲い者の家の障子の張替えなどもやった。あしかけ三年あそばせていた腕のなまりを、そういう駄仕事から始めて、取返そうと思ったのだ。
「こんな仕事はいいよ」とさぶはきまり文句のように云った、「栄ちゃんなんかには勿体ない、おれ一人で片つけるよ」
「いいったら」栄二はいつもうるさそうに答えた、「心配するなよ」
さぶは金杉の家へ移り、朝八時に来て、夜なべがなければ、晩めしを喰べて帰った。夜なべをするほど仕事は多くなかったし、御徒町の経師屋にもあまり仕事はなかった。初めに俗っぽい大幅の表具を頼まれたとき、まだ腕がなまっていて表具はできない、と断わったのがわるかったらしい。芳古堂の名を鼻にかけていると思われたようで、それまでさぶにまわしていた仕事まで減らされてしまった。
「大丈夫だよ、心配することはないよ」とさぶは繰返し云った、「小舟町だって夏場はひまだった、毎年こんなふうだったじゃないか、すず風が吹きだせばいそがしくなるよ」
「おれは心配なんかしてやしない」そう云って栄二は笑った、「なんだって初めからとんとん拍子にいくもんじゃあないさ、おめえは苦労性だな」
これなら寄場のほうがよかった。はるかによかったと云ってもいい、食う心配はなし、仕事はいつもあるし、賃銀も貰えるし、病気になればただで治療も受けられる。寄場から出たがらない者が少なくないのは当然だな、と栄二はひそかに思った。――かれらの生活をみて、これは飼殺しだと思ったこともあるが、いま妻をもち、小さいながら自分たちの店をもって、いちにちいちにち生きてゆくということの、息苦しい困難さにぶつかってみると、改めて寄場で聞いた言葉の意味がわかるように思えた。
――ここでは、一つの仕事を幾十人かで奪いあわなければならない、と栄二は思った。どの職に限らず、その仕事を自分のものにするには誰にも負けない腕をもたなくてはいけないし、それでもちょっとゆだんをすれば、横から人に取られてしまう、まるで一疋の餌食を奪いあう狼の群れのようだ。
手間賃の安いのをいとわず、注文があればどんな仕事でもしたし、注文のないときには長屋用のからかみを作って、売物に出したりしたが、それでも八月にはいると、持っていた僅かな貯えさえ底をついてしまった。
「こんなことを云うと人でなしのようだけれど」と或るときさぶが呟いた、「大きな火事でもあってくれたら、少しは息がつけるんだがな」
「大火事があるとすれば」と栄二が云った、「まっ先にこのうちが焼けるだろう、運不運というのはそんなものさ、おかしなことを考えるより、糊の仕込みを大事にしてくれよ」
おすえはよくやっていた。初めから新世帯などという色めいた、華やかな気分はまるでなかった。家事の手があけばすぐに仕事場へ出て、小まめに栄二の手助けをした。綿文のあとで奉公にいった先も、日本橋通り二丁目の大きな商家で、やはり上女中をしていたというから、手爪先もきれいにほっそりしていたが、その手もたちまち荒れ、節ぶしも高くなるばかりであった。五十日あまりは新妻らしく結っていた髪も、髪結い賃と暇が惜しいため、いつか束ね髪で済ますようになり、もちろん紅白粉などつけることもなくなっていった。
――あんまり早く世帯じみるなよ。
栄二はなんどかそう云おうとしたが、女房としての一日の忙しさを見ていると、口に出して云うことはできなかった。
めしは朝の九時と夕方六時、どっちも三人でいっしょに喰べていたが、八月中旬ごろからおすえが欠け、やがてさぶも晩めしを喰べなくなった。金杉の家でおせいが支度をして待っているから、というのであった。おすえはあとで独りで喰べると云い、狭い勝手でそこそこに片づけるらしい。栄二はそれを疑いもしなかったが、さぶは金杉のほうの屋台店で、安いぶっかけめしを喰べ、おすえは残っためしを雑炊や粥にのばし、おかずも生味噌か塩を舐めて済ましていた。ひとくちに云えば、そうして食事をつめなければならないほど、家計は苦しくなっていたのだ。
栄二は表具の腕を取り返すために、毎夜おそくまで仕事場でねばった。おすえも側に付きっきりで、蚊遣りを焚いたり、汗になった栄二を団扇であおいだり、手拭を水で絞って来たりした。
「さぶの長屋におせえっていう娘がいるんだ」と栄二が或る夜おすえに云った、「まだ十六だそうだがね、どうやらさぶに惚れこんでいるらしいよ」
「じゃあその人ですね、晩めしを作って待っているっていうのは」
栄二は頷いた、「さぶは相手を子供だと思って、まるっきり気がつかないらしいが、その娘はもう立派なおとなだ、五歳のときから苦労のしどおしで、いまでも寝たっきりの父親を養っているんだからな、おめえもいつかいって見ておいてくれ」
「あたしがですか」
「おまえがさ」と栄二は微笑した、「――おれにはさぶの嫁にうってつけだと思うんだ」