栄二は「すみよし」で飲んでいた。いつもの小座敷ではなく、土間の腰掛で。前には焼いた干物と甘煮が置いてあり、差向いにおのぶが腰を掛け、酌をしてやっていた。
「それでかめちゃん、いまどうしてるの」
「聞かなかったが」と云って栄二は眼を細めた、「見たようすではうまくいってるようだったな、堅気のかみさんていうふうだったよ」
もしもそれが本当で、そのままおさまるとしたら、瓢箪から駒が出たようなものだ、と云って、おのぶはおかめがこの店をよしたときの事情や、相手の男のことなどを話した。栄二は聞いてはいなかった。久しく飲んだことがないため、二本めの酒でもう酔いはじめたらしい。鉛でも詰っていたような胸のしこりが、風でも吹きぬけたようにさっぱりとほぐれ、自分でもすっかり忘れていた気持の張りといったようなものが、胸に溢れてくるのを感じた。
「断わっておくがね」と彼は云った、「今日は銭を持っていないんだ」
「もううかがいました」
「一文も持ってねえんだぜ」
「どうしてそんなことにこだわるの」おのぶは酌をしてから、いたずらそうに栄二を見た、「――まさか夫婦喧嘩をしてとびだして来たんじゃあないでしょうね」
「首でも縊ろうかってときに、夫婦喧嘩ができるかい」
「なんのこと、それは」
「仕事がねえのさ」すらすらと云えたことに、栄二は自分でびっくりした、「店をひらいてからこっち、仕事らしい仕事のあったためしがねえ、世間が不景気だってことも知っているが、これじゃあおれたちはどうしようもねえ、本当に首でも縊りてえくらいだよ」
「まあ、大げさねえ」おのぶは栄二の顔を凝視した、「――お店を始めてからまだ半年じゃないの、なにをそんなに慌てるんですか」
「おすえのやつは賃仕事をやりだし、さぶはどこかへ日稼ぎにいってる」栄二は酒を啜ってから云った、やけくそな調子でもなく、絶望的でもなく、むしろ挑みかかるような口ぶりであった、「――どこへなにをしにゆくかわからないが、とにかくどこかで日稼ぎをしては、駄賃をそっとおすえに渡してるんだ、おすえはおすえで隣りの人を助けるんだと云いながら、朝から夜なかまで、暇さえあれば仕立物にかかってる」
「のろけないでよ」と云っておのぶは酌をした、「亭主の仕事が左前のときに、女房が内職をするぐらい当りまえじゃない、世間をごらんなさい、そんな話は掃いて捨てるほどころがってるわ」
「まあ聞けよ」栄二は酒を啜り、考えをまとめるように、ちょっと口をつぐんだ、「――おれはこの腕のなまりを、取り戻すことにかかりきりだった、さぶの受けて来る雑な仕事もしたが、そのほかは自分の手直しだけにうちこんでいた」
「初めからそのつもりだったんでしょ」
「腕はどうにか元へ戻った、いまならたいていな仕事はやれると思うんだ」
「けれども仕事がない、っていうのね」
「そればかりじゃあない」栄二は片方の眉をくっとあげて云った、「――女房に稼がせるようになったら、男はそれでおしまいだっていう、人から聞いただけではなく、現におれのこの眼で幾たびも見たことがあるんだ、女房に稼がせるようになっては、本当に男はもうおしまいなんだ」
「ずいぶんな思いあがりね」
栄二はおどろいたようにおのぶを見た。おのぶの声が急に冷たく、皮肉な調子に変ったからだ。
「栄さんの負けず嫌いはいいけれど、そんな思いあがりは大嫌いよ」と云っておのぶは栄二を睨んだ、「夫婦になれば一心同躰とさえいうじゃないの、女房が稼げば男はだめになるなんて、それは男が稼いで女を養ってやる、っていう思いあがった考えよ、亭主が仕事にあぶれたとき、女房が稼いでどうして悪いの、男だって女だっておんなじ人間じゃないの、この世で男だけがえらいわけじゃないのよ」
「のぶ公は話を脇へそらしてるんだ」
「あたしも飲むわ」おのぶは立ちあがった。
そのとき客がはいって来、小女のお松が「お帰んなさい」と云って、腰掛の一つへ案内した。自分の盃と、燗徳利を持って戻ったおのぶも、その客を見ると明るく頬笑んで「あら、お帰んなさい」と云い、栄二に眼まぜをしながらそっちへいった。
「怒ったようだな」と栄二は手酌で一つ飲みながら独りごとを云った、「――男が働いて女を養うってかい、そんな話じゃあねえのを知ってるくせに」
だが、思いあがりっていうのは当ってるかもしれない。おすえやさぶが稼いでいるのは、おれたち三人の急場を凌ぐためだろう。それを女房に稼がせている、などと考えるのは思いあがりかもしれない、と彼は思った。
「そこんところがおかしい」栄二は酔ってはっきりしなくなった頭を、呼びさまそうとするように強く振った、「おれはちっとも思いあがった気持なんぞありゃあしねえ、とんでもねえ、おれはさぶにもおすえにも済まねえと思ってるんだ」
ごめんなさい、と云われて顔をあげると、おのぶがさっきの客とそこへ来ていた。客は五十五、六だろう、結城紬の袷に羽折、紺献上の博多の帯をしめて、白鞣しの革の緒をすげた麻裏をはいていた。
「うちのお客さまのさぬき屋さん」とおのぶがひきあわせた、「こちらへいっしょになりたいって仰しゃるんですけれど、それに、ちょっとお話もあるんですって」
否応を云わせない口ぶりである。栄二はそれにつり込まれたように手を振り、どうぞと答えた。
「押しつけがましいが、ごめんなさいよ」と客は訛のある言葉で云って、栄二の前へ腰を掛けた、「おらはさぬき屋伊平っていうもんです、よろしく頼みますよ」