← Library‹ さぶ 十五の三

栄二えいじは「すみよし」で飲のんでいた。いつもの小しょう座敷ざしきではなく、土間どまの腰掛こしかけで。前まえには焼やいた干物ひものと甘煮うまにが置おいてあり、差向さしむかいにおのぶが腰こしを掛かけ、酌しゃくをしてやっていた。

「それでかめちゃん、いまどうしてるの」

「聞きかなかったが」と云いって栄二えいじは眼めを細ほそめた、「見みたようすではうまくいってるようだったな、堅気かたぎのかみさんていうふうだったよ」

もしもそれが本当ほんとうで、そのままおさまるとしたら、瓢箪ひょうたんから駒こまが出でたようなものだ、と云いって、おのぶはおかめがこの店みせをよしたときの事情じじょうや、相手あいての男おとこのことなどを話はなした。栄二えいじは聞きいてはいなかった。久ひさしく飲のんだことがないため、二に本ほんめの酒さけでもう酔よいはじめたらしい。鉛なまりでも詰なじっていたような胸むねのしこりが、風かぜでも吹ふきぬけたようにさっぱりとほぐれ、自分じぶんでもすっかり忘わすれていた気持きもちの張はりといったようなものが、胸むねに溢あふれてくるのを感かんじた。

「断ことわっておくがね」と彼かれは云いった、「今日きょうは銭ぜにを持もっていないんだ」

「もううかがいました」

「一いち文ぶんも持もってねえんだぜ」

「どうしてそんなことにこだわるの」おのぶは酌しゃくをしてから、いたずらそうに栄二えいじを見みた、「――まさか夫婦ふうふ喧嘩けんかをしてとびだして来きたんじゃあないでしょうね」

「首くびでも縊くくろうかってときに、夫婦ふうふ喧嘩けんかができるかい」

「なんのこと、それは」

「仕事しごとがねえのさ」すらすらと云いえたことに、栄二えいじは自分じぶんでびっくりした、「店みせをひらいてからこっち、仕事しごとらしい仕事しごとのあったためしがねえ、世間せけんが不ふ景気けいきだってことも知しっているが、これじゃあおれたちはどうしようもねえ、本当ほんとうに首くびでも縊くびりてえくらいだよ」

「まあ、大おおげさねえ」おのぶは栄二えいじの顔かおを凝視ぎょうしした、「――お店みせを始はじめてからまだ半年はんとしじゃないの、なにをそんなに慌あわてるんですか」

「おすえのやつは賃ちん仕事しごとをやりだし、さぶはどこかへ日ひ稼かせぎにいってる」栄二えいじは酒さけを啜すすってから云いった、やけくそな調子ちょうしでもなく、絶望ぜつぼう的てきでもなく、むしろ挑いどみかかるような口くちぶりであった、「――どこへなにをしにゆくかわからないが、とにかくどこかで日ひ稼かせぎをしては、駄賃だちんをそっとおすえに渡わたしてるんだ、おすえはおすえで隣となりの人ひとを助たすけるんだと云いいながら、朝あさから夜よなかまで、暇ひまさえあれば仕立物したてものにかかってる」

「のろけないでよ」と云いっておのぶは酌しゃくをした、「亭主ていしゅの仕事しごとが左前さぜんのときに、女房にょうぼうが内職ないしょくをするぐらい当あたりまえじゃない、世間せけんをごらんなさい、そんな話はなしは掃はいて捨すてるほどころがってるわ」

「まあ聞きけよ」栄二えいじは酒さけを啜すすり、考かんがえをまとめるように、ちょっと口くちをつぐんだ、「――おれはこの腕うでのなまりを、取とり戻もどすことにかかりきりだった、さぶの受うけて来くる雑ざつな仕事しごともしたが、そのほかは自分じぶんの手直てなおしだけにうちこんでいた」

「初はじめからそのつもりだったんでしょ」

「腕うではどうにか元もとへ戻もどった、いまならたいていな仕事しごとはやれると思おもうんだ」

「けれども仕事しごとがない、っていうのね」

「そればかりじゃあない」栄二えいじは片方かたほうの眉まゆをくっとあげて云いった、「――女房にょうぼうに稼かせがせるようになったら、男おとこはそれでおしまいだっていう、人ひとから聞きいただけではなく、現げんにおれのこの眼めで幾いくたびも見みたことがあるんだ、女房にょうぼうに稼かせがせるようになっては、本当ほんとうに男おとこはもうおしまいなんだ」

「ずいぶんな思おもいあがりね」

栄二えいじはおどろいたようにおのぶを見みた。おのぶの声こえが急きゅうに冷つめたく、皮肉ひにくな調子ちょうしに変かわったからだ。

「栄ひさしさんの負まけず嫌きらいはいいけれど、そんな思おもいあがりは大嫌だいきらいよ」と云いっておのぶは栄二えいじを睨にらんだ、「夫婦ふうふになれば一心いっしん同躰どうたいとさえいうじゃないの、女房にょうぼうが稼かせげば男おとこはだめになるなんて、それは男おとこが稼かせいで女おんなを養やしなってやる、っていう思おもいあがった考かんがえよ、亭主ていしゅが仕事しごとにあぶれたとき、女房にょうぼうが稼かせいでどうして悪わるいの、男おとこだって女おんなだっておんなじ人間にんげんじゃないの、この世よで男おとこだけがえらいわけじゃないのよ」

「のぶ公こうは話はなしを脇わきへそらしてるんだ」

「あたしも飲のむわ」おのぶは立たちあがった。

そのとき客きゃくがはいって来き、小女こおんなのお松まつが「お帰かえんなさい」と云いって、腰掛こしかけの一ひとつへ案内あんないした。自分じぶんの盃さかずきと、燗かん徳利とっくりを持もって戻もどったおのぶも、その客きゃくを見みると明あかるく頬笑ほうえんで「あら、お帰かえんなさい」と云いい、栄二えいじに眼めまぜをしながらそっちへいった。

「怒おこったようだな」と栄二えいじは手酌てじゃくで一ひとつ飲のみながら独ひとりごとを云いった、「――男おとこが働はたらいて女おんなを養やしなうってかい、そんな話はなしじゃあねえのを知しってるくせに」

だが、思おもいあがりっていうのは当あたってるかもしれない。おすえやさぶが稼かせいでいるのは、おれたち三さん人にんの急場きゅうばを凌しのぐためだろう。それを女房にょうぼうに稼かせがせている、などと考かんがえるのは思おもいあがりかもしれない、と彼かれは思おもった。

「そこんところがおかしい」栄二えいじは酔よってはっきりしなくなった頭あたまを、呼よびさまそうとするように強つよく振ふった、「おれはちっとも思おもいあがった気持きもちなんぞありゃあしねえ、とんでもねえ、おれはさぶにもおすえにも済すまねえと思おもってるんだ」

ごめんなさい、と云いわれて顔かおをあげると、おのぶがさっきの客きゃくとそこへ来きていた。客きゃくは五十ごじゅう五ご、六ろくだろう、結城紬ゆうきつむぎの袷あわせに羽折はおり、紺献上こんけんじょうの博多はかたの帯おびをしめて、白しろ鞣なめしの革かわの緒いとぐちをすげた麻裏あさうらをはいていた。

「うちのお客きゃくさまのさぬき屋やさん」とおのぶがひきあわせた、「こちらへいっしょになりたいって仰おっしゃるんですけれど、それに、ちょっとお話はなしもあるんですって」

否応いやおうを云いわせない口くちぶりである。栄二えいじはそれにつり込こまれたように手てを振ふり、どうぞと答こたえた。

「押おしつけがましいが、ごめんなさいよ」と客きゃくは訛なまりのある言葉ことばで云いって、栄二えいじの前まえへ腰こしを掛かけた、「おらはさぬき屋や伊平いへいっていうもんです、よろしく頼たのみますよ」

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