← Library‹ さぶ 十五の五

坂本さかもと二に丁目ちょうめへ帰かえった栄二えいじは、おすえになにを云いう暇ひまも与あたえず、いきなりすみよしであったことを話はなした。まるで咎人とがにんが申開もうしひらきをするようだなと、話はなしながら自分じぶんでも苦々にがにがしい気きがしたが、おすえの顔かおは見みるまに明あかるく、いきいきとしてきた。

「よかったわね、よかったわ」おすえははずんだ声こえで云いった、「あたしおのぶさんの親切しんせつ、一いち生涯しょうがい忘わすれないわ」

「そんなことをこれっぽっちでも云いってみろ、のぶ公こうはかんかんになって怒おこるぞ」

そうよ、あの人ひとあんたが好すきなんだもの、心こころの中なかでおすえはそう云いったが、むろん口くちには出ださなかった。

「それで、下見したみにはいつでかけるの」

「明日あすだ、明日あすの暗くらいうちに立たつとしよう」

「江えノ島しまって遠とおいんでしょ」

「初はじめてだからわからないが、箱根はこねよりこっちなことは慥たしかだ」

晩ばんめしの支度したくをしようと云いって、うきうきと立たちあがるおすえに、今日きょうはさぶはどうした、と栄二えいじがきいた。

「そう云いわれて思おもいだしたわ」とおすえは振ふり返かえって云いった、「あたしおせえちゃんて人ひとに会あいました、あんたの云いうとおり、きりょうよしでしっかりした、いい人ひとね」

「ここへ来きたのか」

「あたしがいったんです、あんたが湯ゆへいったままあんまり帰かえりがおそいので、さぶちゃんのところにでもいってるかと思おもって、金杉かなすぎまでいってみたんです」

栄二えいじは眩まぶしそうに、「済すまなかったな」と云いいながら眼めをそらした。

「あんたの云いったとおりよ」おすえは勝手かってへゆきながら云いった、「あの人ひとさぶちゃんのおかみさんにぴったりだわ」

立話たちばなしをしたくらいのものだが、おせいという娘むすめがさぶを好すいていることは、言葉ことばや目顔めがおによくあらわれていた。さぶはおっとりしたほうだから、おせいのはきはきした、眼めはしのききそうな性分しょうぶんが役やくに立たつだろう。いい折おりをみて二人ふたりをいっしょにしてやろう、とおすえは勝手かってからはしゃいだ口くちぶりで云いった。それで、さぶはいたのか、と栄二えいじがきいた。いいえ仕事しごとに出でたそうです、今夜こんやみえなければ明日あすはきっと寄よるでしょう、とおすえは答こたえた。

「江えノ島しまへはさぶちゃんもいっしょにいくんですか」

「下見したみはおれだけで充分じゅうぶんだが、留守るすのあいだに材料ざいりょうを買かってもらいたいんだ」と栄二えいじが云いった、「これまでに買かい溜ためた物ものはだめだ、下張したばりの紙かみだけでも買かい直なおさなければならない、それもすぐに注文ちゅうもんしないとまにあわないかもしれないんだ」

「いそがしくなったわね」おすえはこっちへ来きて、膳立ぜんだてをしながら云いった、「せっかくの晩ばんだっていうのになんにもないのよ、久ひさしぶりで一いち本ほんつけましょうか」

「酒さけはもうたくさんだ」と栄二えいじは手てを振ふって云いった、「ある物もので片かたづけよう、それから明日あすの支度したくだ」

食事しょくじのあいだじゅう、おすえは上気じょうきした顔かおに微笑びしょうを湛たたえ、とりとめのないことを休やすみなしに話はなし続つづけた。まだそうよろこぶのは早はやい、仕事しごとが仕上しあがってからのことだ、と栄二えいじは云いおうとしたが、そんなにうれしがるほど気きに病やんでいたのかと思おもうと、そのよろこびに水みずをさす気きにはなれなかった。――めしが終おわるとすぐに、栄二えいじは注文ちゅうもん帳ちょうを書かいた。絵襖えぶすまには裏打うらうちの紙かみが幾いく種類しゅるいか必要ひつようである、描えがいてあるのが紙本しほんの場合ばあいと絹本けんぽんの場合ばあいとで、薄美濃うすみのとか雁皮がんぴなどの、じかに貼はる肌はだ裏うらや、中なか裏うら、増ぞう裏うらなど、それぞれ表おもてに合あった性質せいしつの紙かみを使つかわなければならないし、もちろん手漉てすきだから、同おなじ美濃みのでも粗密そみつや薄手うすで厚手あつでがあるし、紙かみの地ちにむらのないことも、大事だいじな条件じょうけんとなる。――これらを選えらぶには、ながい経験けいけんと勘かんによるほかはなく、さぶでは少すこしこころもとないのだが、注文ちゅうもんしてもすぐ手てにはいるとは限かぎらないので、差当さしあたり彼かれに頼たのむよりしかたがなかった。

「明日あすさぶが来きたら」と栄二えいじは書かき終おわった注文ちゅうもん帳ちょうをおすえに見みせて云いった、「これは本石町ほんごくちょうの大和やまと屋やへ持もっていって、十とお日か以内いないにこれだけ揃そろえてもらいたいと、注文ちゅうもんするように云いってくれ」

「本石ほんごく町まちの大和屋やまとやですね」

「本石ほんごく町ちょう四し丁目ちょうめの大和屋やまとや三郎兵衛さぶろべえっていう紙屋かみやだ」と念ねんを押おして栄二えいじは云いった、「さぶは榛原はいばらっていうかもしれない、芳かおる古こ堂どうではずっと榛原はいばらだったから、けれどもおれは大和屋やまとやにするってな、忘わすれないでくれよ」

「わかりました」とおすえは頷うなずいた。

「この五ご両りょうだが」と栄二えいじは包つつみを開ひらいて金きんを出だした、「江えノ島しままでの往いき帰かえりを駕籠かごにするから、二に枚まいはおれが持もっていく、一両いちりょうでも余あまると思おもうが、いそぐ旅たびだから用心ようじんのためだ、あとの三さん枚まいはさぶに渡わたして、大和やまと屋やへ内金うちきんに入いれとくように云いってくれ、――って云いうのはつまり、済すまないがこの金かねは、おまえの手てには一いち文ぶんもやれないんだ」

「見みせましょうか」にっと笑わらって立たちあがったおすえは、箪笥たんすの小こ物入ものいれから財布さいふを出だして来き、中なかのものを膝ひざの上うえへ振ふり落おとした、「――かぞえてちょうだい、二に分ぶ一いち朱しゅとちょっとあります、あたしのことは大丈夫だいじょうぶよ」

栄二えいじはおすえの膝ひざの上うえをじっと見みていて、それから肩かたの荷にでもおろしたように、躯むくろの力ちからをぬきながら長ながい溜息ためいきをついた。

「まだ寝ねるには早はやいな」栄二えいじは喉のどになにかつかえたような声こえで云いった、「――刷毛はけでもしらべておこうか」

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