坂本二丁目へ帰った栄二は、おすえになにを云う暇も与えず、いきなりすみよしであったことを話した。まるで咎人が申開きをするようだなと、話しながら自分でも苦々しい気がしたが、おすえの顔は見るまに明るく、いきいきとしてきた。
「よかったわね、よかったわ」おすえははずんだ声で云った、「あたしおのぶさんの親切、一生涯忘れないわ」
「そんなことをこれっぽっちでも云ってみろ、のぶ公はかんかんになって怒るぞ」
そうよ、あの人あんたが好きなんだもの、心の中でおすえはそう云ったが、むろん口には出さなかった。
「それで、下見にはいつでかけるの」
「明日だ、明日の暗いうちに立つとしよう」
「江ノ島って遠いんでしょ」
「初めてだからわからないが、箱根よりこっちなことは慥かだ」
晩めしの支度をしようと云って、うきうきと立ちあがるおすえに、今日はさぶはどうした、と栄二がきいた。
「そう云われて思いだしたわ」とおすえは振り返って云った、「あたしおせえちゃんて人に会いました、あんたの云うとおり、きりょうよしでしっかりした、いい人ね」
「ここへ来たのか」
「あたしがいったんです、あんたが湯へいったままあんまり帰りがおそいので、さぶちゃんのところにでもいってるかと思って、金杉までいってみたんです」
栄二は眩しそうに、「済まなかったな」と云いながら眼をそらした。
「あんたの云ったとおりよ」おすえは勝手へゆきながら云った、「あの人さぶちゃんのおかみさんにぴったりだわ」
立話をしたくらいのものだが、おせいという娘がさぶを好いていることは、言葉や目顔によくあらわれていた。さぶはおっとりしたほうだから、おせいのはきはきした、眼はしのききそうな性分が役に立つだろう。いい折りをみて二人をいっしょにしてやろう、とおすえは勝手からはしゃいだ口ぶりで云った。それで、さぶはいたのか、と栄二がきいた。いいえ仕事に出たそうです、今夜みえなければ明日はきっと寄るでしょう、とおすえは答えた。
「江ノ島へはさぶちゃんもいっしょにいくんですか」
「下見はおれだけで充分だが、留守のあいだに材料を買ってもらいたいんだ」と栄二が云った、「これまでに買い溜めた物はだめだ、下張りの紙だけでも買い直さなければならない、それもすぐに注文しないとまにあわないかもしれないんだ」
「いそがしくなったわね」おすえはこっちへ来て、膳立てをしながら云った、「せっかくの晩だっていうのになんにもないのよ、久しぶりで一本つけましょうか」
「酒はもうたくさんだ」と栄二は手を振って云った、「ある物で片づけよう、それから明日の支度だ」
食事のあいだじゅう、おすえは上気した顔に微笑を湛え、とりとめのないことを休みなしに話し続けた。まだそうよろこぶのは早い、仕事が仕上がってからのことだ、と栄二は云おうとしたが、そんなにうれしがるほど気に病んでいたのかと思うと、そのよろこびに水をさす気にはなれなかった。――めしが終るとすぐに、栄二は注文帳を書いた。絵襖には裏打ちの紙が幾種類か必要である、描いてあるのが紙本の場合と絹本の場合とで、薄美濃とか雁皮などの、じかに貼る肌裏や、中裏、増裏など、それぞれ表に合った性質の紙を使わなければならないし、もちろん手漉きだから、同じ美濃でも粗密や薄手厚手があるし、紙の地にむらのないことも、大事な条件となる。――これらを選ぶには、ながい経験と勘によるほかはなく、さぶでは少しこころもとないのだが、注文してもすぐ手にはいるとは限らないので、差当り彼に頼むよりしかたがなかった。
「明日さぶが来たら」と栄二は書き終った注文帳をおすえに見せて云った、「これは本石町の大和屋へ持っていって、十日以内にこれだけ揃えてもらいたいと、注文するように云ってくれ」
「本石町の大和屋ですね」
「本石町四丁目の大和屋三郎兵衛っていう紙屋だ」と念を押して栄二は云った、「さぶは榛原っていうかもしれない、芳古堂ではずっと榛原だったから、けれどもおれは大和屋にするってな、忘れないでくれよ」
「わかりました」とおすえは頷いた。
「この五両だが」と栄二は包みを開いて金を出した、「江ノ島までの往き帰りを駕籠にするから、二枚はおれが持っていく、一両でも余ると思うが、いそぐ旅だから用心のためだ、あとの三枚はさぶに渡して、大和屋へ内金に入れとくように云ってくれ、――って云うのはつまり、済まないがこの金は、おまえの手には一文もやれないんだ」
「見せましょうか」にっと笑って立ちあがったおすえは、箪笥の小物入れから財布を出して来、中のものを膝の上へ振り落した、「――かぞえてちょうだい、二分一朱とちょっとあります、あたしのことは大丈夫よ」
栄二はおすえの膝の上をじっと見ていて、それから肩の荷でもおろしたように、躯の力をぬきながら長い溜息をついた。
「まだ寝るには早いな」栄二は喉になにかつかえたような声で云った、「――刷毛でもしらべておこうか」