← Library‹ さぶ 十六の一

旅立たびだっていった栄二えいじは、三み日かめの夕方ゆうがたに帰かえって来きた。いかにも飛脚ひきゃく旅たびをしたあとのようで、それとわかるほど疲つかれがみえていたけれども、気持きもちは張はりきっているらしく、旅装りょそうを解ときながらも活溌かっぱつに話はなしやまなかった。

「おすえ、おめえもいっしょにいくんだ」と栄二えいじはまっ先さきに云いった、「――見みているとばかにでもなっちまいそうないい景色けしきなんだ、こっちにこう富士ふじが見みえて、おっそろしく広ひろい海うみがぐるっとこうあって、浜はまにはまっ白しろな波なみがさーっと、絶たえまなしによせていてさ、風かぜなんぞおめえ、だしでもきかしてあるんじゃねえかと思おもうくれえ、うめえんだ」

「湯ゆへいってらっしゃいな」おすえは笑わらいながら云いった、「埃ほこりだらけですよ」

「こんな時刻じこくの湯ゆは垢あかだらけだ、うちで湯ゆを沸わかして拭ふくだけにしよう」と栄二えいじは帯おびをしめながら云いった、「それよりも初はじめに断ことわったとおり、こんどの仕事しごとにはおすえもいっしょにいくんだぜ」

「江えノ島しまだなんて、そんな遠とおいとこへいくのこわいわ、あたし」おすえは栄二えいじのぬいだ物ものを片かたよせて立たった、「いますぐにお湯ゆを沸わかします」

疲つかれてるんでしょう、少すこし横よこにおなりなさいな、と勝手かってからおすえが云いった。仕事しごとは思おもっていたとおり本筋ほんすじの第だい一いち流りゅうだ、と栄二えいじはおすえの言葉ことばを聞ききながして云いった。これが江戸えどならたちまち名なが売うれるんだが、名ななんかはまだどっちでもいい、独ひとり立だちになって初はじめての仕事しごとに、こういう本筋ほんすじのものが当あたるなんてそれだけでも運うんがよかった。そのうえ面白おもしろいのは、おれが全体ぜんたいの見積みつもりを出だすと、さぬき屋やの旦那だんなはそれに五ご割わり増ましてくれた。おまえさんの見積みつもりが気きにいった、費用ひようが見積みつもりを越こすようなら遠慮えんりょなくそう云いってくれってさ、いまどきこんな客きゃくはあるもんじゃねえぜ、と栄二えいじは云いった。

それからふと、自分じぶんが饒舌しゃべりすぎていることに気きづくと、急きゅうに口くちをつぐんで、さぶはどうした、そうきこうとしたとき、表ひょうの格子こうしがあいてさぶの声こえが聞きこえた。あがれよと栄二えいじが云いい、はいって来きたさぶを見みると、めくら縞しまの着物きものに木綿もめんの千筋せんすじの羽はね折おりを重かさね、あたまも結ゆい直なおしてあった。

「坐すわれよ」栄二えいじはなにも眼めにつかないようすで云いった、「江えノ島しまの仕事しごとがきまったぜ」

そして、箪笥たんすから胴巻どうまきを取出とりだして来き、坐すわったさぶの前まえへ押おしやった。

「半金はんきんの三十さんじゅう五ご両りょうだ」と栄二えいじは云いった、「尤もっとも手付てつけに五ご両りょう貰もらってるから、残のこりは三十さんじゅう両りょうということになるがね」

「すると」さぶは唇くちびるを舐なめた、「すると、七十ななじゅう両りょうの仕事しごとか」

「仕上しあがりによっては五ご割わり増ましになる、が、まあそいつは当あてにしないことにしよう」

「おどろいたな、さすがに栄さかえちゃんだな」とさぶは吃どもりながら云いった、「おらなんざ、いつもでき合あいの駄だ仕事しごとにしきゃ当あたらねえのに、やっぱり腕うでのあるなしじゃあ人間にんげんの格かくが違ちがうんだなあ」

「おめえのおかげだよ」栄二えいじはあっさりと云いった、「おめえとおすえのおかげだ、いまはなんにも云いわねえが、仕事しごとが終おわったら改あらためて礼れいをするつもりだ」

その言葉ことばから身みを避さけようとでもするように、さぶは慌あわてて手てを振ふりながら、とんでもねえよしてくれ、と遮さえぎった。それにはお構かまいなしに、栄二えいじは話はなしを変かえた。

「紙かみの注文ちゅうもんはしてくれたか」

「ああ」さぶはまた唇くちびるを舐なめた、「大和やまと屋やへあの注文ちゅうもん書しょと、内金うちきんを渡わたしといた」

「みんなすぐに揃そろいそうか」

「揃そろえるって云いってた」そしてさぶはおずおずと栄二えいじを見みた、「その――この仕事しごとはいそぐのかい」

なにかおそれているような調子ちょうしだったので、栄二えいじはいま気きがついたとでもいったふうに、さぶの顔かおを見みまもった。

「正月しょうがつにまに合あわせるっていう約束やくそくだが、それがどうかしたか」

「どうってこともねえが、その」さぶは気きよわそうに眼めを伏ふせた、「――葛西かさいのうちから、おふくろが病気びょうきで、今日きょうあすも知しれねえっていってよこしたんだ」

栄二えいじはむっとしたように、「それで」とあとを促うながした。

「それで、なにしろ、おふくろのことだし、葛西かさいといえばそう遠とおくもねえし」

「じれってえな、おめえは」栄二えいじはつい知しらず荒あらい調子ちょうしになった、「葛西かさいがいってえなんだ、おめえ葛西かさいで、どんなめにあったか忘わすれちゃったのか」

「それを云いわれると困こまるんだ」

「ほかのことは云いわねえ、おめえが病気びょうきになって、養生ようじょうに帰かえったときのことだけでもたくさんだ、痩やせこけて、足あしだけ倍ばいにもむくんでる病人びょうにんを、物置ものおき小屋こやに放ほうり込こんだうえ、のら働はたらきまでさせたっていうじゃないか、他人たにんならまだしも、それが血肉けつにくを分わけた親おやきょうだいのすることか、その中なかにはおふくろもいたんだろう、そのおふくろが病気びょうきだって、へ、いまになっておふくろだなんて、そんなことの云いえた義理ぎりじゃあねえ筈はずだ」

「あらいらっしゃい」と云いいながらおすえが勝手かってからはいって来きた、「――あんた、お湯ゆがもう沸わきましたよ」

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%