旅立っていった栄二は、三日めの夕方に帰って来た。いかにも飛脚旅をしたあとのようで、それとわかるほど疲れがみえていたけれども、気持は張りきっているらしく、旅装を解きながらも活溌に話しやまなかった。
「おすえ、おめえもいっしょにいくんだ」と栄二はまっ先に云った、「――見ているとばかにでもなっちまいそうないい景色なんだ、こっちにこう富士が見えて、おっそろしく広い海がぐるっとこうあって、浜にはまっ白な波がさーっと、絶えまなしによせていてさ、風なんぞおめえ、だしでもきかしてあるんじゃねえかと思うくれえ、うめえんだ」
「湯へいってらっしゃいな」おすえは笑いながら云った、「埃だらけですよ」
「こんな時刻の湯は垢だらけだ、うちで湯を沸かして拭くだけにしよう」と栄二は帯をしめながら云った、「それよりも初めに断わったとおり、こんどの仕事にはおすえもいっしょにいくんだぜ」
「江ノ島だなんて、そんな遠いとこへいくのこわいわ、あたし」おすえは栄二のぬいだ物を片よせて立った、「いますぐにお湯を沸かします」
疲れてるんでしょう、少し横におなりなさいな、と勝手からおすえが云った。仕事は思っていたとおり本筋の第一流だ、と栄二はおすえの言葉を聞きながして云った。これが江戸ならたちまち名が売れるんだが、名なんかはまだどっちでもいい、独り立ちになって初めての仕事に、こういう本筋のものが当るなんてそれだけでも運がよかった。そのうえ面白いのは、おれが全体の見積りを出すと、さぬき屋の旦那はそれに五割増してくれた。おまえさんの見積りが気にいった、費用が見積りを越すようなら遠慮なくそう云ってくれってさ、いまどきこんな客はあるもんじゃねえぜ、と栄二は云った。
それからふと、自分が饒舌りすぎていることに気づくと、急に口をつぐんで、さぶはどうした、そうきこうとしたとき、表の格子があいてさぶの声が聞えた。あがれよと栄二が云い、はいって来たさぶを見ると、めくら縞の着物に木綿の千筋の羽折を重ね、あたまも結い直してあった。
「坐れよ」栄二はなにも眼につかないようすで云った、「江ノ島の仕事がきまったぜ」
そして、箪笥から胴巻を取出して来、坐ったさぶの前へ押しやった。
「半金の三十五両だ」と栄二は云った、「尤も手付けに五両貰ってるから、残りは三十両ということになるがね」
「すると」さぶは唇を舐めた、「すると、七十両の仕事か」
「仕上りによっては五割増しになる、が、まあそいつは当てにしないことにしよう」
「おどろいたな、さすがに栄ちゃんだな」とさぶは吃りながら云った、「おらなんざ、いつもでき合いの駄仕事にしきゃ当らねえのに、やっぱり腕のあるなしじゃあ人間の格が違うんだなあ」
「おめえのおかげだよ」栄二はあっさりと云った、「おめえとおすえのおかげだ、いまはなんにも云わねえが、仕事が終ったら改めて礼をするつもりだ」
その言葉から身を避けようとでもするように、さぶは慌てて手を振りながら、とんでもねえよしてくれ、と遮った。それにはお構いなしに、栄二は話を変えた。
「紙の注文はしてくれたか」
「ああ」さぶはまた唇を舐めた、「大和屋へあの注文書と、内金を渡しといた」
「みんなすぐに揃いそうか」
「揃えるって云ってた」そしてさぶはおずおずと栄二を見た、「その――この仕事はいそぐのかい」
なにかおそれているような調子だったので、栄二はいま気がついたとでもいったふうに、さぶの顔を見まもった。
「正月にまに合わせるっていう約束だが、それがどうかしたか」
「どうってこともねえが、その」さぶは気よわそうに眼を伏せた、「――葛西のうちから、おふくろが病気で、今日あすも知れねえっていってよこしたんだ」
栄二はむっとしたように、「それで」とあとを促した。
「それで、なにしろ、おふくろのことだし、葛西といえばそう遠くもねえし」
「じれってえな、おめえは」栄二はつい知らず荒い調子になった、「葛西がいってえなんだ、おめえ葛西で、どんなめにあったか忘れちゃったのか」
「それを云われると困るんだ」
「ほかのことは云わねえ、おめえが病気になって、養生に帰ったときのことだけでもたくさんだ、痩せこけて、足だけ倍にもむくんでる病人を、物置小屋に放り込んだうえ、のら働きまでさせたっていうじゃないか、他人ならまだしも、それが血肉を分けた親きょうだいのすることか、その中にはおふくろもいたんだろう、そのおふくろが病気だって、へ、いまになっておふくろだなんて、そんなことの云えた義理じゃあねえ筈だ」
「あらいらっしゃい」と云いながらおすえが勝手からはいって来た、「――あんた、お湯がもう沸きましたよ」