← Library‹ さぶ 十六の二

今夜こんやは酒さけを買かって、なにかうまい物ものでも取とろう、そう云いって栄二えいじは勝手かってへいった。自分じぶんでするからいいというので、おすえはあとに残のこり、さぶに茶ちゃを出だしてやった。

「どうしたの」とおすえは囁ささやき声ごえできいた、「いま大おおきな声こえが聞きこえていたけれど」

さぶはわけを語かたり、これから夜道よみちをかけて葛西かさいへゆきたいのだと云いった。

「それは困こまったわねえ」

「栄さかえちゃんはおらのために肚はらを立たてたんだ」とさぶはそっと云いった、「おらがひどい扱あつかいを受うけたことで、栄さかえちゃんは昔むかしから葛西かさいを憎にくがってた、そんな者ものは親おやでもきょうだいでもねえって、――たしかに、おらの親おやきょうだいはひでえ人間にんげんぞろいなんだ」

おすえは勝手かってのほうへ気きがねをするように、頷うなずいてみせた。

「でも、おら思おもうんだが」とさぶはひそめた声こえで続つづけた、「おらに辛つらく当あたったのは親おやきょうだいのほうで、おらはべつに咎とがになるようなことはしなかった」

「うちの人ひとはあんたを怒おこってるんじゃないのよ」と云いっておすえは赤あかくなった、初はじめて、われ知しらずうちの人ひとと云いったのが恥はずかしかったらしい、「――誰だれがあんたに咎とががあるなんて思おもうもんですか」

「そうじゃねえんです、そうじゃねえんですよ」さぶはもどかしそうに首くびを振ふった、「――どう云いえばいいのか、おら口くちがへただから思おもうように云いえないんだが、つまり、どんなにひどい扱あつかいをされても、おらにとっておふくろはやっぱりおふくろだ、もしもおらのほうで咎とがになるようなことをしていたんならべつだが、そうでなければ、おふくろの死水しにみずをとりにいってやっても悪わるかあねえと思おもうんだ」

「そりゃあ悪わるくなんかありゃあしないわ」おすえは聞きいた言葉ことばの意味いみがわからないまま、力ちからづけるように云いった、「あの人ひとだってそのくらいのことはわかってるのよ」

栄二えいじが濡ぬれ手拭てぬぐいで耳みみのうしろを拭ふきながら出でて来き、酒さけの支度したくをしてくれと云いった。はいただいまと、おすえはさぶに眼めくばせをして立たち、栄二えいじは長なが火鉢ひばちの脇わきへ坐すわった。

「いつでかけるんだ」と栄二えいじがきいた。

さぶは意味いみもなくいずまいを直なおした。

「葛西かさいへいくんだろう」

「いかしてくれるか」

「かなしいやつだよ、おめえという男おとこは」と栄二えいじは云いった、「――だが断ことわっておくぜ、材料ざいりょうが揃そろったらすぐに江戸えどを立たつ、なにかのたしになるだろうからおすえも伴つれてゆくつもりだ、暢とおるびりしていられちゃあ困こまるぜ」

「ありがとう、恩おんにきるよ栄さかえちゃん」さぶはおじぎをした、「いって来くるだけだ、知しらせのようすじゃあ、死目しにめにあえるかどうかもわからねえという口くちぶりだったし、もしそうでねえにしてもすぐに帰かえって来くるよ」

「念ねんのために糊のりのことを聞きいておこう」

いまか、とさぶが反問はんもんし、栄二えいじは頷うなずいた。二人ふたりは立たちあがって、仕事場しごとばへ行いった。さぶは蝋燭ろうそくに火ひをつけ、仕事場しごとばの一隅いちぐうにある揚あげ蓋ふたを開ひらき、縁えんの下したにある五いつつの瓶かめを示しめした。水瓶みずがめよりちょっと小ちいさい物もので、その下もと半分はんぶんは土つちに埋うまっている。五いつつのうち三みつは、目貼めばりをした蓋ふたに、仕込しこんだ年月としつき日ひが書かいてあった。さぶはそれらを、端はしのほうから指ゆびさしながら説明せつめいし、栄二えいじは頷うなずいて、わかったと云いった。揚あげ蓋ふたを元もとのようにして戻もどると、さぶは蝋燭ろうそくを消けしながら、不安ふあんそうに栄二えいじを見みた。

「その」とさぶは弱よわよわしくきいた、「まさか、おらを置おいていくんじゃねえだろうな」

「おめえしだいだ」栄二えいじは持もっていた濡ぬれ手拭てぬぐいを勝手かってへ掛かけにゆき、戻もどって来きて坐すわりながら云いった、「――こんどの仕事しごとは、おれたちの一生いっしょうをきめることになるかもしれない、本当ほんとうに待まったなしなんだ」

「わかってる、大丈夫だいじょうぶだよ」とさぶは詫わびるように云いった、「それで、その、じつはこれからでかけてえんだが」

「こころ祝いわいをするんだ、いっしょにめしを喰たべて、それから駕籠かごでいけばいいだろう」

「駕籠かごだって」さぶは眼めをみはった。

「早はやく済すませるためにそれも仕事しごとの内うちよ」と云いって栄二えいじは胴巻どうまきを引ひきよせ、中なかから小判こばんを一いち枚まいだけ出だした、「おめえの取とり分ぶんの先渡さきわたしだ、遠慮えんりょなく取とっといてくれ」

さぶはなにか云いいかけた。

「いいから取とっとけよ」栄二えいじはなにも云いわせずに胴巻どうまきの紐ひもをしめた、「おめえの性分しょうぶんじゃあ云いってもしようがないだろうが、この金かねはおめえのもんだ、薄情はくじょうかもしれないが葛西かさいの人ひとたちに遣つかっちゃあいけねえ、おめえはな、さぶ、仕事しごとの手順てじゅんしだいでおせえちゃんといっしょになるんだ、金かね放ほうれのいいところなんぞ葛西かさいにみせたら、世帯しょたいをもってからおせえちゃんが泣なかされるぜ」

「待まってくれ」さぶは吃どもった、「そう一いち遍へんになにもかも云いわれちゃあ、おらめんくらっちまうばかりだ、おらがおせえちゃんとどうするって、栄さかえちゃん」

栄二えいじはなにかを払はらいのけるような手てまねをした、「いいよ、その話はなしは帰かえってからだ」

「それでもさ、もし栄さかえちゃんが、おらとおせえちゃんをいっしょにするつもりなら、それは考かんがえ違ちがいだぜ」

「相手あいてはまだ子供こどもだって云いうんだろう、いいよ、この話はなしはあとのことにするよ」

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