今夜は酒を買って、なにかうまい物でも取ろう、そう云って栄二は勝手へいった。自分でするからいいというので、おすえはあとに残り、さぶに茶を出してやった。
「どうしたの」とおすえは囁き声できいた、「いま大きな声が聞えていたけれど」
さぶはわけを語り、これから夜道をかけて葛西へゆきたいのだと云った。
「それは困ったわねえ」
「栄ちゃんはおらのために肚を立てたんだ」とさぶはそっと云った、「おらがひどい扱いを受けたことで、栄ちゃんは昔から葛西を憎がってた、そんな者は親でもきょうだいでもねえって、――たしかに、おらの親きょうだいはひでえ人間ぞろいなんだ」
おすえは勝手のほうへ気がねをするように、頷いてみせた。
「でも、おら思うんだが」とさぶはひそめた声で続けた、「おらに辛く当ったのは親きょうだいのほうで、おらはべつに咎になるようなことはしなかった」
「うちの人はあんたを怒ってるんじゃないのよ」と云っておすえは赤くなった、初めて、われ知らずうちの人と云ったのが恥ずかしかったらしい、「――誰があんたに咎があるなんて思うもんですか」
「そうじゃねえんです、そうじゃねえんですよ」さぶはもどかしそうに首を振った、「――どう云えばいいのか、おら口がへただから思うように云えないんだが、つまり、どんなにひどい扱いをされても、おらにとっておふくろはやっぱりおふくろだ、もしもおらのほうで咎になるようなことをしていたんならべつだが、そうでなければ、おふくろの死水をとりにいってやっても悪かあねえと思うんだ」
「そりゃあ悪くなんかありゃあしないわ」おすえは聞いた言葉の意味がわからないまま、力づけるように云った、「あの人だってそのくらいのことはわかってるのよ」
栄二が濡れ手拭で耳のうしろを拭きながら出て来、酒の支度をしてくれと云った。はいただいまと、おすえはさぶに眼くばせをして立ち、栄二は長火鉢の脇へ坐った。
「いつでかけるんだ」と栄二がきいた。
さぶは意味もなくいずまいを直した。
「葛西へいくんだろう」
「いかしてくれるか」
「かなしいやつだよ、おめえという男は」と栄二は云った、「――だが断わっておくぜ、材料が揃ったらすぐに江戸を立つ、なにかのたしになるだろうからおすえも伴れてゆくつもりだ、暢びりしていられちゃあ困るぜ」
「ありがとう、恩にきるよ栄ちゃん」さぶはおじぎをした、「いって来るだけだ、知らせのようすじゃあ、死目にあえるかどうかもわからねえという口ぶりだったし、もしそうでねえにしてもすぐに帰って来るよ」
「念のために糊のことを聞いておこう」
いまか、とさぶが反問し、栄二は頷いた。二人は立ちあがって、仕事場へ行った。さぶは蝋燭に火をつけ、仕事場の一隅にある揚げ蓋を開き、縁の下にある五つの瓶を示した。水瓶よりちょっと小さい物で、その下半分は土に埋まっている。五つのうち三つは、目貼りをした蓋に、仕込んだ年月日が書いてあった。さぶはそれらを、端のほうから指さしながら説明し、栄二は頷いて、わかったと云った。揚げ蓋を元のようにして戻ると、さぶは蝋燭を消しながら、不安そうに栄二を見た。
「その」とさぶは弱よわしくきいた、「まさか、おらを置いていくんじゃねえだろうな」
「おめえしだいだ」栄二は持っていた濡れ手拭を勝手へ掛けにゆき、戻って来て坐りながら云った、「――こんどの仕事は、おれたちの一生をきめることになるかもしれない、本当に待ったなしなんだ」
「わかってる、大丈夫だよ」とさぶは詫びるように云った、「それで、その、じつはこれからでかけてえんだが」
「こころ祝いをするんだ、いっしょにめしを喰べて、それから駕籠でいけばいいだろう」
「駕籠だって」さぶは眼をみはった。
「早く済ませるためにそれも仕事の内よ」と云って栄二は胴巻を引きよせ、中から小判を一枚だけ出した、「おめえの取り分の先渡しだ、遠慮なく取っといてくれ」
さぶはなにか云いかけた。
「いいから取っとけよ」栄二はなにも云わせずに胴巻の紐をしめた、「おめえの性分じゃあ云ってもしようがないだろうが、この金はおめえのもんだ、薄情かもしれないが葛西の人たちに遣っちゃあいけねえ、おめえはな、さぶ、仕事の手順しだいでおせえちゃんといっしょになるんだ、金放れのいいところなんぞ葛西にみせたら、世帯をもってからおせえちゃんが泣かされるぜ」
「待ってくれ」さぶは吃った、「そう一遍になにもかも云われちゃあ、おらめんくらっちまうばかりだ、おらがおせえちゃんとどうするって、栄ちゃん」
栄二はなにかを払いのけるような手まねをした、「いいよ、その話は帰ってからだ」
「それでもさ、もし栄ちゃんが、おらとおせえちゃんをいっしょにするつもりなら、それは考え違いだぜ」
「相手はまだ子供だって云うんだろう、いいよ、この話はあとのことにするよ」