明くる日は強い北風が吹きあれて、寒さもきびしかったが、朝めしのあとまもなく、栄二は注文した紙のことを慥かめるため、本石町四丁目の大和屋へいった。指定どおりの品を五日以内に揃えるそうで、今後もひいきにしてくれるなら代銀はあとでもよい、と大和屋の主人が云った。紙屋というのは権高であることが通例のようであった。産地の遠近を問わず、上質の紙を数多く揃えるのは、多額の資金と選別眼が欠かせない要件であるし、なによりも紙が貴重な品であったことが、他のしょうばいとは違った気質を生んだものらしい。だが、大和屋はそうではなかった。注文した品がみな筋のとおった、最上級のものだったことにもよろう。さらにまた、それらの注文のしかたと、会ってみた栄二の人柄とが気にいったのかもしれない。とにかく主人の三郎兵衛はあいそよく、勘定のことは心配なく、今後も注文を呉れるようにと云った。
「おや」と三郎兵衛は、栄二が立ちあがるのを見てきいた、「足をどうかなすったのか」
「ええ、去年の夏の大しけでね」と栄二は足のそこを撫でながら答えた、「へまなことをして挫いたんですが、もうなにも故障はありません、お眼ざわりですか」
三郎兵衛は頭を振った、「うちの二男坊がね、やっぱり足が不自由なもんだから、――まあ、大事にして下さいよ」
栄二は黙って頭をさげた。
その店を出ると、強い風のため埃立つ道に立って、栄二は急に、石川島へ寄っていこうと思いついた。足のことをきかれたためかもしれないが、こんどの仕事にとりついた幸運を、岡安喜兵衛や与平に話したかった。大和屋の主人にめぐり会ったことは、その幸運に裏書をされたような気持さえする。寄場へ送られてから、悪いことが続けさまに起こった。不幸はおよそ単独ではこない、しばしばそれは重複しておそいかかる、ということを現実に経験したが、幸運もまた同じかもしれない。もしもそうなら、これをしっかり掴んで、おれたちのものにするんだ、と栄二は思った。
道の角で辻駕籠をひろい、船松町の河岸で島へゆく渡し舟に乗った。島へあがると門番所をたずね、岡安喜兵衛に面会を求めた。
「ぶしゅうじゃないか」門番小屋の老番士はびっくりしたように云った、「こりゃ驚いた、よく来たな、いまどうしてる、足のほうはどうだ、ま、ちょっとここへ掛けろ」
このあいだに、中年の番士が取次ぎにゆき、岡安がすぐに会う、という返辞をもって戻った。老番士は莨をふかしながら、暴風雨のときの話をしたいようで、帰りに寄れと、みれんがましく繰返していた。
役所へゆくと下役人が、栄二を接待へとおした。岡安喜兵衛はまもなくあらわれたが、黒い袴は皺だらけだし、胸もとには下着の襟が出ていた。まるで喧嘩でもしていたような、かつて見たことのない着崩れた恰好で、栄二はなにごとかと眼をみはった。岡安はその眼に気づいたのだろう、袴を叩き、襟もとを直しながら坐って、新しく来た人足で手に負えない暴れ者がいるものだから、というようなことを、弁解するように呟き、それからふと、不安そうに栄二の顔をみつめた。
「おまえ」と岡安は囁き声で、さぐるように云った、「なにか困ったことでもできたのか」
栄二は胸をうたれた。顔を見るなり、そう問いかけるのは、心から自分のことを案じていたからであろう。栄二は眼の裏が熱くなるのを感じながら、そうではないと首を振り、両手を突いて挨拶をした。
「じつはようやく仕事にありついたので、よろこんでいただこうと思って伺いました」栄二は頭をあげて云った、「江戸ではなく、――田舎から頼まれた出仕事なんですが、これがうまくあがれば、店をやってゆく手掛りがつくと思うんです」
「よかった、それはよかった」岡安はほっとしたように緊張した表情をゆるめた、「それはなによりの知らせだ、そうそう、祝言のようすは松田から聞いたよ、いい女房を貰い当てたそうだな」
岡安喜兵衛の態度は、そこでにわかにうわのそらになり、栄二の話をしんみになって聞く気持がなくなったようであった。推察するまでもなく、彼の関心は新しく来た人足のほうに向いているのだ。もしも栄二に困ったことがあって来たのなら、彼はどんなにでも相談にのったことだろう。だが栄二は寄場から出ていった者であり、仕事にもとりついたという。それがわかればもういい、栄二はもう手からはなれたのだ。いま岡安喜兵衛の頭を占めているのは、手に負えない乱暴者だという、新しい人足のことだけに相違ない。栄二はそう思いながら、与平のことをきき、こぶの清七のことをきいた。もっこ部屋の者はみな、島の外へ仕事に出たので、むろん与平もいっしょだし、知っている者はみな留守だという。清七はその後まったく消息がなく、いどころさえわからないそうであった。
「おとよとかいったな、あの女」と云って岡安は眉のあたりをくもらせた、「――あれといっしょに三度ばかり引越した、三度めには木挽町一丁目へ移ったが、そこから清七は姿を消してしまったそうだ」
「どうしてそれがわかったんですか」
「ここから出た者は、町奉行の同心が一年のあいだ監視するのだ、もちろん当人にも近所の者にも気づかれないようにな」
「すると」栄二は声を低くした、「あっしにも見張りがついていたんですか」
岡安は微笑した、「気づかなかったようだが、むろんおまえも監視されていた、万一にもあやまちを犯さないようにだ」
栄二は静かに、深く頭を垂れた。
「おとよという女は、まだ木挽町一丁目の裏店に住んでいる」と岡安は云った、「こんどの男は馬方で、おとよより五つもとし下だそうだ」
ことによると清七は、田舎へ帰ったのかもしれない、と岡安喜兵衛は云った。