← Library‹ さぶ 十六の三

明あくる日ひは強つよい北風きたかぜが吹ふきあれて、寒さむさもきびしかったが、朝あさめしのあとまもなく、栄二えいじは注文ちゅうもんした紙かみのことを慥たしかめるため、本石ほんごく町ちょう四し丁目ちょうめの大和やまと屋やへいった。指定していどおりの品しなを五いつ日か以内いないに揃そろえるそうで、今後こんごもひいきにしてくれるなら代だい銀ぎんはあとでもよい、と大和屋やまとやの主人しゅじんが云いった。紙屋かみやというのは権高けんだかであることが通例つうれいのようであった。産地さんちの遠近おちこちを問とわず、上質じょうしつの紙かみを数多かずおおく揃そろえるのは、多額たがくの資金しきんと選別せんべつ眼がんが欠かかせない要件ようけんであるし、なによりも紙かみが貴重きちょうな品しなであったことが、他たのしょうばいとは違ちがった気質きしつを生うんだものらしい。だが、大和屋やまとやはそうではなかった。注文ちゅうもんした品しながみな筋すじのとおった、最上さいじょう級きゅうのものだったことにもよろう。さらにまた、それらの注文ちゅうもんのしかたと、会あってみた栄二えいじの人柄ひとがらとが気きにいったのかもしれない。とにかく主人しゅじんの三郎兵衛さぶろべえはあいそよく、勘定かんじょうのことは心配しんぱいなく、今後こんごも注文ちゅうもんを呉くれるようにと云いった。

「おや」と三郎兵衛さぶろべえは、栄二えいじが立たちあがるのを見みてきいた、「足あしをどうかなすったのか」

「ええ、去年きょねんの夏なつの大おおしけでね」と栄二えいじは足あしのそこを撫なでながら答こたえた、「へまなことをして挫くじいたんですが、もうなにも故障こしょうはありません、お眼めざわりですか」

三郎兵衛さぶろべえは頭あたまを振ふった、「うちの二男じなん坊ぼうがね、やっぱり足あしが不ふ自由じゆうなもんだから、――まあ、大事だいじにして下くださいよ」

栄二えいじは黙だまって頭あたまをさげた。

その店みせを出でると、強つよい風かぜのため埃ほこり立たつ道みちに立たって、栄二えいじは急きゅうに、石川島いしかわじまへ寄よっていこうと思おもいついた。足あしのことをきかれたためかもしれないが、こんどの仕事しごとにとりついた幸運こううんを、岡安おかやす喜兵衛きへえや与平よへいに話はなしたかった。大和屋やまとやの主人しゅじんにめぐり会あったことは、その幸運こううんに裏書うらがきをされたような気持きもちさえする。寄場よせばへ送おくられてから、悪わるいことが続つづけさまに起おこった。不幸ふこうはおよそ単独たんどくではこない、しばしばそれは重複ちょうふくしておそいかかる、ということを現実げんじつに経験けいけんしたが、幸運こううんもまた同おなじかもしれない。もしもそうなら、これをしっかり掴つかんで、おれたちのものにするんだ、と栄二えいじは思おもった。

道みちの角かどで辻駕籠つじかごをひろい、船松ふなまつ町ちょうの河岸かしで島しまへゆく渡わたし舟ぶねに乗のった。島しまへあがると門番もんばん所しょをたずね、岡安おかやす喜兵衛きへえに面会めんかいを求もとめた。

「ぶしゅうじゃないか」門番もんばん小屋こやの老ろう番士ばんしはびっくりしたように云いった、「こりゃ驚おどろいた、よく来きたな、いまどうしてる、足あしのほうはどうだ、ま、ちょっとここへ掛かけろ」

このあいだに、中年ちゅうねんの番士ばんしが取次とりつぎにゆき、岡安おかやすがすぐに会あう、という返辞へんじをもって戻もどった。老ろう番士ばんしは莨たばこをふかしながら、暴風ぼうふう雨うのときの話はなしをしたいようで、帰かえりに寄よれと、みれんがましく繰返くりかえしていた。

役所やくしょへゆくと下か役人やくにんが、栄二えいじを接待せったいへとおした。岡安おかやす喜兵衛きへえはまもなくあらわれたが、黒くろい袴はかまは皺しわだらけだし、胸むなもとには下着したぎの襟えりが出でていた。まるで喧嘩けんかでもしていたような、かつて見みたことのない着崩きくずれた恰好かっこうで、栄二えいじはなにごとかと眼めをみはった。岡安おかやすはその眼めに気きづいたのだろう、袴はかまを叩たたき、襟えりもとを直なおしながら坐すわって、新あたらしく来きた人足にんそくで手てに負おえない暴あばれ者ものがいるものだから、というようなことを、弁解べんかいするように呟つぶやき、それからふと、不安ふあんそうに栄二えいじの顔かおをみつめた。

「おまえ」と岡安おかやすは囁ささやき声ごえで、さぐるように云いった、「なにか困こまったことでもできたのか」

栄二えいじは胸むねをうたれた。顔かおを見みるなり、そう問といかけるのは、心こころから自分じぶんのことを案あんじていたからであろう。栄二えいじは眼めの裏うらが熱あつくなるのを感かんじながら、そうではないと首くびを振ふり、両手りょうてを突ついて挨拶あいさつをした。

「じつはようやく仕事しごとにありついたので、よろこんでいただこうと思おもって伺うかがいました」栄二えいじは頭あたまをあげて云いった、「江戸えどではなく、――田舎いなかから頼たのまれた出で仕事しごとなんですが、これがうまくあがれば、店みせをやってゆく手掛てがかりがつくと思おもうんです」

「よかった、それはよかった」岡安おかやすはほっとしたように緊張きんちょうした表情ひょうじょうをゆるめた、「それはなによりの知しらせだ、そうそう、祝言しゅうげんのようすは松田まつだから聞きいたよ、いい女房にょうぼうを貰もらい当あてたそうだな」

岡安おかやす喜兵衛きへえの態度たいどは、そこでにわかにうわのそらになり、栄二えいじの話はなしをしんみになって聞きく気持きもちがなくなったようであった。推察すいさつするまでもなく、彼かれの関心かんしんは新あたらしく来きた人足にんそくのほうに向むいているのだ。もしも栄二えいじに困こまったことがあって来きたのなら、彼かれはどんなにでも相談そうだんにのったことだろう。だが栄二えいじは寄場よせばから出でていった者ものであり、仕事しごとにもとりついたという。それがわかればもういい、栄二えいじはもう手てからはなれたのだ。いま岡安おかやす喜兵衛きへえの頭あたまを占しめているのは、手てに負おえない乱暴らんぼう者ものだという、新あたらしい人足にんそくのことだけに相違そういない。栄二えいじはそう思おもいながら、与平よへいのことをきき、こぶの清七せいしちのことをきいた。もっこ部屋へやの者ものはみな、島しまの外そとへ仕事しごとに出でたので、むろん与平よへいもいっしょだし、知しっている者ものはみな留守るすだという。清七せいしちはその後あとまったく消息しょうそくがなく、いどころさえわからないそうであった。

「おとよとかいったな、あの女おんな」と云いって岡安おかやすは眉まゆのあたりをくもらせた、「――あれといっしょに三さん度どばかり引越ひっこした、三さん度どめには木挽町こびきちょう一いち丁目ちょうめへ移うつったが、そこから清七せいしちは姿すがたを消けしてしまったそうだ」

「どうしてそれがわかったんですか」

「ここから出でた者ものは、町まち奉行ぶぎょうの同心どうしんが一いち年ねんのあいだ監視かんしするのだ、もちろん当人とうにんにも近所きんじょの者ものにも気きづかれないようにな」

「すると」栄二えいじは声こえを低ひくくした、「あっしにも見張みはりがついていたんですか」

岡安おかやすは微笑びしょうした、「気きづかなかったようだが、むろんおまえも監視かんしされていた、万一まんいちにもあやまちを犯おかさないようにだ」

栄二えいじは静しずかに、深ふかく頭あたまを垂たれた。

「おとよという女おんなは、まだ木挽町こびきちょう一いち丁目ちょうめの裏店うらだなに住すんでいる」と岡安おかやすは云いった、「こんどの男おとこは馬方うまかたで、おとよより五いつつもとし下しただそうだ」

ことによると清七せいしちは、田舎いなかへ帰かえったのかもしれない、と岡安おかやす喜兵衛きへえは云いった。

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