田舎へ帰るわけはない、と栄二は思った。あれほどおとよに惚れぬいていた彼が、自分から別れるなどということも考えられない。木挽町へ移ってから姿を消したという、監視がついていて、「姿を消した」というのは、なにか尋常でないことがあったのではないか。清七のあとおとよといっしょになった、五つもとし下の馬方だという男のことが、暗い不吉な影のように栄二の胸をふさいだ。
「どうしたんだ、清さん」栄二は坂本町へ帰る駕籠の中で、そっと呼びかけた、「おめえどこにいるんだ」
もしもどこかに無事にいるなら、いっそ寄場へ帰るほうがいい、島にさえいれば人から痛めつけられずに済むからな、と栄二は祈るように呟いた。
さぶは戻るようすがなかった。大和屋から紙が届き、栄二は尺取帳に合わせて、それらを切ることに没頭した。さぶのことを思うと肚が立つから、紙を寸法どおりに切る、という仕事のほかはなにも考えなかった。そうして、晩めしのあとでは、酒を飲んで気をまぎらわした。おすえもさぶの名は決して口にせず、栄二の苛だっているのがわかるのだろう、茨の棘の先にでも触れるように、いつもぴりぴりと神経を尖らせていた。
さぶが出ていってから八日めの夜、晩めしのあと酒を飲んでいた栄二は、急に音高く盃を置いた。
「おすえ」と彼は云った、「おまえの支度はできているのか」
おすえは不安そうに頷いて「ええ、できてます」と答えた。
「よし、そんならあした立つことにしよう」と云って栄二は立ちあがった、「糊を見るからあかりを持って来てくれ」
辛抱を切らした、というようすがあからさまにうかがわれ、おすえは口がきけなくなった。
仕事場へいった栄二は、板の間の冷たさも感じないように、片隅の揚げ蓋をあけ、おすえが行燈を持って来ると、「糊桶を呉れ」と云った。仕事場の一方に作りつけてある棚から、蓋付きの平桶を取りおろすと、おすえは乾いた布切で中をよくぬぐった。――栄二は第一の瓶の目貼りを剥がし、きっちり嵌めてある木の蓋を取った。床下から冷たい土の香と、熟れた糊の匂いが栄二の顔を包んだ。取った瓶の蓋を、裏返しにして板の間へ置いたとき、その蓋の裏に、なにか書いてあるのが眼についた。
糊を仕込んだ日付は表に書いてあった。こんな裏になにを書いたのか、そう思って栄二は行燈を引きよせた。紛れもなくさぶの筆跡で、読むうちに栄二の顔が硬ばり、たちまち酔いがさめていくようにみえた。
「おすえ」と彼はしゃがれた声で云った、「冷やでいいから酒を持って来てくれ」
「ここへですか」
「ここへだ」と彼は力のない声で云った、「二、三本たのむ、湯呑でな」
おすえはなにか云いかけたが、栄二のようすがあんまりおかしいので、さからわずに酒を取りにいった。栄二は行燈の側で板の間へじかにあぐらをかいて坐り、糊瓶の裏返した蓋を睨みながら、湯呑で冷や酒を飲みはじめた。おすえは摘み物をのせた膳を持って来、ここでは寒いからと云ったが、彼にはまるで聞えないらしく、返辞もせず、箸も取らず、蓋の裏の字をくいいるようにみつめながら、徳利の酒をみるまに二本あけてしまった。
「もしもあした立つのなら」とおすえがなだめるように云った、「そんなにあがってはだめじゃありませんか」
「あいつだった」と栄二が云った、「さぶのやつだったんだ」
「なにがですか」
「綿文の金襴の切よ」と栄二は顔をしかめながら云った、「これを読んでみろ」
栄二は糊瓶の蓋の裏を指さした。おすえは覗きこんで、そこに書いてある文字を読み、それから怯えたような眼で栄二を見た。
「わかったろう」と栄二が云った。
おすえはかぶりを振った。
「こう書いてあるんだぜ」と栄二は文字を指の先で追いながら読んで聞かせた、「――おらがわるかった、栄ちゃんがあの切のことで島送りになったのは、おらの罪だ、一生かかっても、おらはこの罪のつぐないをしなければならない」