← Library‹ さぶ 十六の四

田舎いなかへ帰かえるわけはない、と栄二えいじは思おもった。あれほどおとよに惚ほれぬいていた彼かれが、自分じぶんから別わかれるなどということも考かんがえられない。木挽町こびきちょうへ移うつってから姿すがたを消けしたという、監視かんしがついていて、「姿すがたを消けした」というのは、なにか尋常じんじょうでないことがあったのではないか。清七せいしちのあとおとよといっしょになった、五いつつもとし下したの馬方うまかただという男おとこのことが、暗くらい不吉ふきつな影かげのように栄二えいじの胸むねをふさいだ。

「どうしたんだ、清きよしさん」栄二えいじは坂本町さかもとちょうへ帰かえる駕籠かごの中なかで、そっと呼よびかけた、「おめえどこにいるんだ」

もしもどこかに無事ぶじにいるなら、いっそ寄場よせばへ帰かえるほうがいい、島しまにさえいれば人ひとから痛いためつけられずに済すむからな、と栄二えいじは祈いのるように呟つぶやいた。

さぶは戻もどるようすがなかった。大和屋やまとやから紙かみが届とどき、栄二えいじは尺取帳しゃくとりちょうに合あわせて、それらを切きることに没頭ぼっとうした。さぶのことを思おもうと肚はらが立たつから、紙かみを寸法すんぽうどおりに切きる、という仕事しごとのほかはなにも考かんがえなかった。そうして、晩ばんめしのあとでは、酒さけを飲のんで気きをまぎらわした。おすえもさぶの名なは決けっして口くちにせず、栄二えいじの苛いらだっているのがわかるのだろう、茨いばらの棘とげの先さきにでも触ふれるように、いつもぴりぴりと神経しんけいを尖とがらせていた。

さぶが出でていってから八よう日かめの夜よる、晩ばんめしのあと酒さけを飲のんでいた栄二えいじは、急きゅうに音おと高たかく盃さかずきを置おいた。

「おすえ」と彼かれは云いった、「おまえの支度したくはできているのか」

おすえは不安ふあんそうに頷うなずいて「ええ、できてます」と答こたえた。

「よし、そんならあした立たつことにしよう」と云いって栄二えいじは立たちあがった、「糊のりを見みるからあかりを持もって来きてくれ」

辛抱しんぼうを切きらした、というようすがあからさまにうかがわれ、おすえは口くちがきけなくなった。

仕事場しごとばへいった栄二えいじは、板いたの間まの冷つめたさも感かんじないように、片隅かたすみの揚あげ蓋ふたをあけ、おすえが行燈あんどんを持もって来くると、「糊桶のりおけを呉くれ」と云いった。仕事場しごとばの一方いっぽうに作つくりつけてある棚たなから、蓋ふた付つきの平たいら桶おけを取とりおろすと、おすえは乾かわいた布ぬの切せつで中なかをよくぬぐった。――栄二えいじは第だい一いちの瓶びんの目貼めばりを剥はがし、きっちり嵌はめてある木きの蓋ふたを取とった。床下ゆかしたから冷つめたい土つちの香こうと、熟うれた糊のりの匂においが栄二えいじの顔かおを包つつんだ。取とった瓶びんの蓋ふたを、裏返うらがえしにして板いたの間まへ置おいたとき、その蓋ふたの裏うらに、なにか書かいてあるのが眼めについた。

糊のりを仕込しこんだ日付ひづけは表ひょうに書かいてあった。こんな裏うらになにを書かいたのか、そう思おもって栄二えいじは行燈あんどんを引ひきよせた。紛まぎれもなくさぶの筆跡ひっせきで、読よむうちに栄二えいじの顔かおが硬こわばり、たちまち酔よいがさめていくようにみえた。

「おすえ」と彼かれはしゃがれた声こえで云いった、「冷ひやでいいから酒さけを持もって来きてくれ」

「ここへですか」

「ここへだ」と彼かれは力ちからのない声こえで云いった、「二、三にさん本ほんたのむ、湯呑ゆのみでな」

おすえはなにか云いいかけたが、栄二えいじのようすがあんまりおかしいので、さからわずに酒さけを取とりにいった。栄二えいじは行燈あんどんの側がわで板いたの間まへじかにあぐらをかいて坐すわり、糊のり瓶びんの裏返うらがえした蓋ふたを睨にらみながら、湯呑ゆのみで冷ひや酒ざけを飲のみはじめた。おすえは摘つまみ物ものをのせた膳ぜんを持もって来き、ここでは寒さむいからと云いったが、彼かれにはまるで聞きこえないらしく、返辞へんじもせず、箸はしも取とらず、蓋ふたの裏うらの字じをくいいるようにみつめながら、徳利とっくりの酒さけをみるまに二に本ほんあけてしまった。

「もしもあした立たつのなら」とおすえがなだめるように云いった、「そんなにあがってはだめじゃありませんか」

「あいつだった」と栄二えいじが云いった、「さぶのやつだったんだ」

「なにがですか」

「綿文わたぶんの金襴きんらんの切きれよ」と栄二えいじは顔かおをしかめながら云いった、「これを読よんでみろ」

栄二えいじは糊のり瓶びんの蓋ふたの裏うらを指ゆびさした。おすえは覗のぞきこんで、そこに書かいてある文字もじを読よみ、それから怯おびえたような眼めで栄二えいじを見みた。

「わかったろう」と栄二えいじが云いった。

おすえはかぶりを振ふった。

「こう書かいてあるんだぜ」と栄二えいじは文字もじを指ゆびの先さきで追おいながら読よんで聞きかせた、「――おらがわるかった、栄さかえちゃんがあの切せつのことで島送しまおくりになったのは、おらの罪つみだ、一生いっしょうかかっても、おらはこの罪つみのつぐないをしなければならない」

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