「おしのさんが泊るなんてうれしいじゃないの」と菊太郎が云った、「賑やかになっていいわ、ざこ寝をしましょうよ」
炬燵の中で手の動くのが感じられた。菊太郎がおそのの手を握り、握りかたでなにか合図をしたのであろう。それはおそのの声の調子の変ったことでわかった。
「ざこ寝も面白いわね」とおそのは盃を取りながら云った、「まさやもいっしょに寝かしてやろうじゃないの」
「あの人には暇をやりました」
「暇をやったって」
「まだ正月にも帰っていないんですもの」とおしのが答えた、「可哀そうだから子供に会っておいでって、さっきあたしが帰らしてあげたのよ」
「だってまさやがいなくってどうするのよ」
「おまさの代りくらいあたしにだってできるわ」
「あらいやだ」おそのは笑った、「御飯を炊くんだってちっとやそっとのことじゃないのよ、あたしだってまだ一度もしたことがないのに、あんたにそんなことができるもんですか」
「そうじゃないわよ」と菊太郎が身動きをしながら云った、「あたしさっきから拝見しているんだけれど、おしのさんはきりっとしてらっしゃるわ、たとえおんば日傘で育っても、おしのさんならそのくらいの甲斐性はきっとあると思うわ」
あら、ずいぶん肩を持つのね、あんたおしのに惚れたんじゃないの、とおそのが云った。そうなの、と菊太郎が答えた。あたしすっかりおか惚れしちゃったわ。云ったわね。だってほんとですもの。云ったわね、この口でそんなことを云うのね。痛い、痛いわよごしんぞさん、まあひどいしと。――おしのは躯がふるえだし、絶叫したいという衝動を抑えるために、両手の指を力限りにぎり緊めながら、静かに立ちあがってその部屋を出た。
「どこへゆくの」とおそのが呼びかけた。
「ちょっと――」おしのは振り返らずに答えた、「すぐに来るわ」
おしのは八帖へいった。
――堪忍できないわね。
火鉢の脇に坐り、仕掛けてあったゆきひらをおろすと、父の死顔に向かって、呼びかけた。たった一人の娘であるあたしまで騙しておいて、云いわけをしようともしない。おそらく済まないとも思ってはいないようだし、ことによると騙したという記憶すらないのかもしれない。そしていま、娘と同い年の少年と酒に酔ってふざけている。堪忍できないわ、あたし云ってやる、あの男が寝たら思う存分に云ってやるわ、聞いていてちょうだいね、お父つぁん、とおしのは心の中で云った。
奥の六帖から、口三味線と唄う声が聞えて来た。おしのがいないことなどは気にかかりもしないのだろう、唄の合間にはおそのの笑い声や、わざとらしい悲鳴が聞え、組打ちでもするような物音さえした。
「ああ、死んでしまいたい」おしのは両手で耳を塞いだ、「どうしてあたしを残して死んだの、お父つぁん、こんな恥ずかしいおもいをするくらいなら、いっそ死んでしまうほうがましだわ」
でも死ぬのならあたし一人じゃあない、おっ母さんもいっしょに伴れていってやる。あの世にいるお父つぁんのところへ伴れていって、あやまらせてやる、とおしのは思った。
「そうよ」とおしのは眼をあげた、「本当にそうしてやりたいわ、あたしが男なら、――男でなくってもあたしに勇気があったらそうしてやるわ、おっ母さんていう人は、生きていればいるだけ恥を重ねるばかりだもの、できたらそうするほうがいいと思うわ」
どのくらい時が経ったであろうか、ふと気がつくと、うしろの襖が静かにあいて、誰かがそっと近よって来た。振り返ってみるとおそので、菊ちゃんは寝ちゃったよ、と云いながら喜兵衛の姿を認めて、眸子を凝らした。
「誰かいるじゃないの」おそのはよろよろとなった、「そこに寝ているのは誰」
「お父つぁんよ」
「ばかにおしでないよ」おそのはくくと笑った、「あの病人がここへ来られるわけがないじゃないの、誰なのさ」
そこでおそのは絶句した。眼が裂けるかと思うほど大きくみひらかれ、下顎がさがって空洞のように口があいた。
「お父つぁんよ」とおしのが静かに云った、「おっ母さんに会ってひと言だけ云いたいことがあるって、戸板でここへ運んで来たの、途中で息を引取ったけれど、おっ母さんに会いたいというのが遺言だったから、そのままここへ運んで来たのよ」
「死んでるって」とおそのは舌が痺れたような口ぶりで呟いた、「――死んでいるの」
「お父つぁんの死骸よ」
おそのは「ひ」というような声をあげて、よろめきながら逃げようとした。おしのはとびあがり、母の腕をつかんで引止めると、力任せに父の枕許へと押してゆき、そこへ母を坐らせた。
「放して」とおそのは身をもがいた、「きびがわるいじゃないのよ、放しておくれ」
おそのは殆んど泥酔しているため、娘の手から逭れることができなかった。
「お父つぁんは死んでるのよ、もうなにもできないし口もきけないんだから、ちっとも怖がることはないわ」とおしのは云った、「さ、ちゃんと坐って、おちついて聞いてちょうだい、あたしおっ母さんに云いたいことがあるんだから」
「いや、いや」おそのは激しく、子供のようにかぶりを振った、「あたし死人の側なんかはいや、きびがわるいから堪忍して」
おしのは母の肩をつかみ、「おっ母さん」と云いながら揺りたてた。おそのは黙った。躯から力がぬけてゆくようにみえ、いちどがくっと垂れた頭を、もの憂げにあげて娘を見た。頭を垂れたとき、銀の平打の釵がぱたっと落ちた。
「云いなさい」とおそのは娘に云った、「あたしにどんなことが云いたいの」
「自分であんまりとは思わない、おっ母さん」とおしのは母の眼をみつめた、「あたしものごころのつくじぶんからこの眼で見て来たわ、御夫婦になってから二十年ものあいだ、お父つぁんはまるで雇人同様に扱われ、文句一つ云わずにくらしていたわ、そうでしょ、酒も飲まず煙草も吸わず、芝居や寄席は覗いたこともないし、遊山にいちどでかけたこともなかった、そして、そういうくらしをし続けたまま死んでしまったのよ」
「あんたにはわからないのよ」
「これをあんまりだとは思わなくって」とおしのは構わずに言葉を継いだ、「お父つぁんが働きどおしに働いたのは、おっ母さんのせいじゃないでしょ、お父つぁんは自分が養子だからと思って、むさし屋大事に働いただけでしょう、でも、それならなおさら、おっ母さんはもう少しお父つぁんを良人らしく扱ってもよかった筈よ」