← Library‹ 五瓣の椿 第一話 十

「あんたはまだ若わかいの」とおそのが云いった、「あんたにはわからないことがあるのよ」

「ええそうでしょう」とおしのは遮さえぎった、「あたしにわからないことがたくさんあるのは知しってるわ、けれどもおっ母ははさんがお父ちちつぁんにして来きた仕打しうち、ことに三さん年ねんまえお父ちちつぁんが病気びょうきになってからの、おっ母ははさんのして来きたことが善よいか悪わるいかぐらいはわかってよ」

「あんた誰だれにものを云いってると思おもうの」

「暮くれのことはどう」とおしのはやり返かえした、「お父ちちつぁんが血ちを吐はいて、こんどは危あぶないって云いわれたから、ごしょう一生いっしょうのお願ねがいだって迎むかえに来きたんじゃないの、おっ母ははさんはあさってゆくって約束やくそくしたわ、約束やくそくしたこと覚おぼえてるでしょ」

「あんたがしつっこく云いうからよ」

「ちゃんと約束やくそくしたのにお父ちちつぁんが危篤きとくだっていうのに、おっ母ははさんはあんな子供こどものような人ひとを伴つれて、箱根はこねへ遊あそびにいったんじゃないの」

「うそよ、そんなこと」おそのは片手かたてでなにか打うつようなまねをした、「あたし伊勢いせ久ひさしのおとよさんやなにかと江えノ島しまへ」

「よしておっ母ははさん、あたし伊勢いせ久ひさしさんへもいったのよ」おしのの眼めから涙なみだがあふれ落おちた、「伊勢いせ久ひさしのおばさんに会あって、おばさんに教おしえられて中村なかむら座ざまでいったんですから」

「あらいやだ、ずいぶんなことをするのね」

「お父ちちつぁんが大晦日おおみそかの晩ばんにまた倒たおれて、こんどこそどんな名医めいいでもだめだって云いわれたからよ」おしのは指ゆびで眼めの下したを拭ふきながら云いった、「あんなにがまん強つよいお父ちちつぁんも、こんどはいけないって云いいだすし、どうしてもおっ母ははさんに帰かえってもらわなければならなかったのよ」

「それにしたって」とおそのが云いった、「ひとのあとを探さぐりまわるなんてひどいじゃないの」

「ひどいですって、――おっ母ははさんは、自分じぶんはひどいとは思おもわないんですか、危篤きとくの良人おっとをみまいもせずに、よその男おとこと遊あそびまわっていて、それで悪わるかったとも思おもわないんですか」

「ちょっと云いわせて、あたしにもちょっと云いわせて」おそのは坐すわり直なおそうとしたが、酔よっているためうまくゆかず、横坐よこすわりのままで云いった、「あんたにはわからないだろうけれどね、おしのちゃん、あたしとあの人ひとが夫婦ふうふになったことが、そもそも間違まちがいだったのよ、お祖父そふさんに云いわれていっしょにはなったけれど、あたしは初はじめからあの人ひとが好すきじゃなかった、あんたの云いうとおり、あの人ひとはなんの道楽どうらくも知しらず、朝あさから晩ばんまで雇人やといにんといっしょになって働はたらいたわ、まじめで、正直しょうじきで、むさし屋やを先代せんだいより繁昌はんじょうさせたし、油屋あぶらやの店みせも出だすようになったわ、それはそのとおりだけれど、良人おっととしては味あじもそっけもない、退屈たいくつでつまらない人ひとだった、女おんなの気持きもちもわからないし、これっぽっちも面白味おもしろみのない人ひとだったわ」

「もうちょっと云いわせて」とおそのは頭あたまをぐらぐらさせながら続つづけた、「――女おんなというものはね、おしのちゃん、自分じぶんのためにはなにもかも捨すてて、夢中むちゅうになって可愛かわいがってくれる人ひとが欲ほしいものよ、あたしのためならむさし屋やの店みせも、財産ざいさんもくそもないというほどうちこんでくれたら、あたしだってもう少すこしはあの人ひとに愛情あいじょうを持もてたと思おもう」

「そんなことあたりまえじゃないわ」とおしのが遮さえぎって云いった、「そんな愛情あいじょうなんてあたりまえじゃないし、おっ母ははさんのごまかしだわ」

「あたしがなにをごまかすの」

「おっ母ははさんは遊あそびやたのしみが好すきなだけよ、芝居しばいへ入いり浸びたったり、芸事げいごとに夢中むちゅうになったりするだけじゃなかった、茶屋ちゃやへ役者やくしゃや芸人げいにんを呼よんで、ちやほやされながら、飲のんだり喰たべたりするのが好すきなんじゃないの、愛情あいじょうがどうのこうのなんてごまかしよ」

「いまにわかるわ」とおそのは微笑びしょうした、「あんたも女おんなになればあたしの気持きもちがきっとわかることよ」

「おっ母ははさんの気持きもちなんておっ母ははさんだけのものよ、おっ母ははさんは自分じぶんのことしか考かんがえやしない、自分じぶんがたのしむためならどんなことでもするけれど、ひとのためには指ゆび一いち本ほん動うごかす気きもないのよ、お父ちちつぁんにさんざん不ふ人情にんじょうなことをしたあげく、死水しにみずも取とってやらずに、面白味おもしろみのない人ひとだなんて」おしのは声こえを詰つまらせ、両手りょうてで顔かおを掩おおいながら云いった、「味あじもそっけもない、退屈たいくつな人ひとだったなんて、それじゃあお父ちちつぁんが可哀かわいそうだわ」

「なにもこの人ひとのためにあんたが、そんなに悲かなしがることはないのよ」とおそのが云いった、「いまだから本当ほんとうのことを云いうけれどね、おしのちゃん、この人ひとはあんたの父親ちちおやじゃあなかったのよ」

「そんな云いい訳わけは聞ききたくもないわ」

「この人ひとは赤あかの他人たにんだったのよ」

「でたらめを云いわないで」とおしのが云いった、「自分じぶんがなにを云いってるかもわからないんじゃないの、赤あかの他人たにんだなんて、いったいどういうことなの」

「あんたの親おやはこの人ひとじゃないの、本当ほんとうの父親ちちおやはほかにいるのよ」

おしのは母ははの顔かおをみつめた、「おっ母ははさん、そんなばかなことを云いって」

「ばかなもんですか」とおそのは遮さえぎって云いった、「あんたがあまりこの人ひとのことで悲かなしがるから教おしえるのよ、日本橋にほんばしよろず町まちに丸まる梅うめっていう袋物ふくろもの問屋とんやがあるわ、その店みせの主人しゅじんの源次郎げんじろうという人ひとが、あんたの本当ほんとうの父親ちちおやなのよ」

おしのは黙だまって母ははを見みていた。

「恥はじを云いうようだけれどほんとなの」とおそのは云いった、「半年はんとしほどしきゃつきあわなかったけれど、あんたが自分じぶんの子こだということは、丸まる梅うめの源みなもとのさんも知しっているのよ」

おしのは仮面かめんのように硬こわばった顔かおで、ながいこと身動みうごきもせずにいた。そして、なにを見みるともない眼めつきで、じっと前方ぜんぽうをみつめていたが、やがて、ひどく乾かわいたかさかさした声こえで、「それ本当ほんとうのことなのね」と訊きいた。

「嘘うそにこんなことが云いえますか」とおそのが答こたえた、「もし信用しんようができないのなら、丸まる梅うめへいって訊きいてみればわかるわ」

おしのはちょっとまをおいて云いった、「あっちへいってちょうだい」

「あっちへゆけって、おしのちゃん」

「なんにも云いわないでよ」とおしのが感情かんじょうのこもらない口くちぶりで遮さえぎった、「あたし少すこし考かんがえたいことがあるの、お願ねがいだからあっちへいって下くださいな」

おそのはなにか云いいかけたが、娘むすめの硬こわばった顔かおつきと、なにものも受うけつけないような姿勢しせいに圧倒あっとうされ、「いいわ」と云いってよろよろと立たちあがった。おしのはそっと眼めをつむった。

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