奥の六帖で、菊太郎をゆり起こすおそのの声がした。飲み直しよ、起きなさいな、まだ宵のくちじゃないの。もうだめですよ、という菊太郎のねぼけ声も聞えた。駕籠を停めては飲み、飲んでは駕籠に揺られて、骨の髄まで草臥れはてました、これ以上飲めば死んじまいます。いくじのないことを云うわね、くすぐるわよ。菊太郎が叫び声をあげ、それから、「ひどいわねえ」と云うのが聞えた。
「まだ飲むつもりなのね」とおしのは呟いた。頭で考えていることとは無関係に、口だけが動いたというふうであった。
暫くして、おしのは自分の両手を見、眉をひそめながら呟いた、「この中に流れてるのよ、あたしのこの躯に流れているのはおっ母さんの血よ」そして、汚ない物でも振り払うように、両手を激しく振った。
「人間じゃないわね」とおしのはまた呟いた、「おっ母さんは人間じゃない、おっ母さんの血の流れているこの躯も人間じゃないわ、ああきたない」
おしのは身ぶるいをした。戦慄のように激しく身ぶるいをし、すると上唇が捲れて、歯が剥きだしになった。
――ひと言あれに云いたいことがある。
喜兵衛の声が、耳のずっと奥のほうで聞えた。
――これを云わずには死にきれない。
おしのは剥きだした歯のあいだから、誰かに秘密を告げるような口ぶりで、そっと囁いた、「知ってたのね、お父つぁん」そしてまた囁いた、「みんな知ってたのね」戸板に乗ってでも寮へゆき、ひと言あれに云ってやらなければ、死んでも死にきれない。これまでついぞみせたことのない、執念のようなあのときのようすは、それを「知っていた」ということを明らかに示すものだ。
父は知っていたのだ、とおしのは思った。あたしが父の子でないということを。よく知っていながらなにも云わず、実の子のようにあたしを可愛がってくれた。
「あたしのために」とおしのは囁き声で云った、「いつかむさし屋を出ていっしょにくらそうと、お金まで溜めていてくれたわ」
おしのはぎゅっと眼をつむった。
「やるわ、やってやるわ」暫くしておしのは呟いた、「これは女というものぜんぶのためよ、女ぜんたいの恥だわ、女ばかりじゃない、人間のぜんぶを汚したことだわ、――これがこのままそっとしておかれていい筈はないわ、この償いは誰かがしなければならない、こんな、人間ぜんぶを辱しめるようなことを、放っておいていいわけはないわ」
おしのは静かに眼をあいて、父のほうを見た、「小さな池の側に、椿が咲いていたのね、お父つぁん、その池の側へいっていて下さいな、あたしもすぐにゆくわ、あたし道がわからないから、迎えに来てちょうだいね」
おしのは立ちあがろうとした。ながいあいだ坐りづめだったので、すぐには立てず、片手を突いて足の痺れの去るのを待った。するとその畳に突いた手が、銀の平打の釵に触れた。さっきおそのの髪から落ちたものである、おしのはその釵をじっとみつめた。その顔はまた仮面のように硬ばり、上唇が少しずつ捲れて、歯が剥きだされた。――おしのは釵を取り、右手に持ち替えて立った。奥の六帖はずっと前から静かになっている、おしのは襖をあけて中廊下へ出、そうして六帖の襖をあけた。
炬燵にはいったまま、おそのと菊太郎は抱きあって寝ていた。飲み食いのあとは散らかったままだし、二人の頭のところには、燗徳利と湯呑がころげていた。おそのは座蒲団を折って枕にし、菊太郎はおそのの腕を枕にしていた。おそのは片手で菊太郎を抱き、相手の顔に自分の顔を重ねるようにして、口をあいて眠っていた。――旅の疲れと酔いとで、二人とも正体をなくしているらしい、菊太郎は高い鼾をかいていた。おしのは眼をそらさなかった。抱きあって眠っている二人の姿は、見るに耐えないものであったが、おしのはまるで罪と汚辱を慥かめるかのように、やや暫くかれらの姿を見まもっていた。
「いいえ」とやがておしのは呟いた、「あたしはまだ死ねない、おっ母さんと同じ罪を分けあった者がいる、いまそこでいっしょに寝ている男のように、おっ母さんと組んでお父つぁんを苦しめた男たちがいる、――その男たちも罪を償わなければならない、その男たちにも、自分の罪を償わしてやるわ」
おしのは持っていた釵を投げだして、中廊下へ出てゆき、納戸から手燭を取って来ると、それに火をつけて、女中部屋へはいっていった。
そして約半刻のち、寮の裏口からおしのが出て来た。時刻は夜半の十二時すぎで、弱い北風が吹いてい、すっかり凍てた地面は、おしのの足の下できしきしときしんだ。あたりは暗く、どっちを見ても灯一つみえなかった。南隣りは地着きの農家、北側は京橋のなにがしとかいう老舗の寮、どちらも広い庭と樹立があるし、夜のことで家は見えない。――おしのは生垣の木戸を捜してから、戻って来て、家の裏手に佇んだ。彼女は着物の上に紫色の被布を重ね、頭はおこそ頭巾で包んでいた。頭巾からのぞいている顔は蒼白く唇にも血の色はなかった。
火は納戸から見えはじめた。戸の隙間から煙がながれだすと、まもなくその隙間が赤くなり、燈油の焼ける匂いがあたりに広がった。おしのは喘ぎ、勝手口のほうへ歩きだしたが、その足を停めると、顔を空へふり向けた。
「負けそうよお父つぁん、力をかして」とおしのは祈るように云った、「あたしを捉まえていて、お父つぁん」
庇の下から濃密な煙が巻きだし、ついで火の舌が赤く閃いて消えた。戸や庇の下から吹きだす煙は、ようやく家ぜんたいを包み、油臭い匂いを広げ、物の焼けはぜる音がしだいに高くなり、やがて突然、庇を巻きあげるように、橙色の焔がぱっと闇をひき裂いた。
おしのはうしろへさがり、家の中の物音を聞きすました。物の焼ける音と、火の唸りの中に、咳の声が聞えたようであった。しかしそれは一瞬のことで、人の叫びも起こらず、咳も二度とは聞えなかった。――おしのは木戸をぬけて外へ出、火に包まれた家を見まもりながら、なお暫く立っていた。
「もう大丈夫」とおしのは呟いた、「――お父つぁん、待っていて下さいね」
屋根の一部が焼け落ち、ごうと唸りながら、すさまじい火柱が立った。きれいな、眼のさめるような火の粉が飛散し、遠くで半鐘が鳴りだした。おしのは天神橋のほうへ、静かにあゆみ去っていった。