← Library‹ 五瓣の椿 第二話 一

正月しょうがつ二十にじゅう八はち日にちの午後ごご、「むさし屋や」の手代てだいの徳次郎とくじろうは一いち通つうの手紙てがみを受取うけとった。――届とどけに来きたのは町まち飛脚ひきゃくで、手紙てがみには差出さしだし人ひとの名ながなかった。徳次郎とくじろうは封ふうをひらいたが、すぐけげんそうに眉まゆをしかめた。それから、読よみかけた手紙てがみをふところへ入いれると、さも用ようありげに、金網かなあみを張はった雪洞ぼんぼりに灯あかりを入いれて持もち、奥蔵おくぞうの中なかへはいっていった。――彼かれはまもなく出でて来きたが、その顔かおは怯おびえたように硬こわばって、細ほそくなり、眼めは焦点しょうてんをなくしていた。「まさか」と彼かれは唇くちびるを動うごかさずに呟つぶやいた、「まさかそんなことが」

明あくる二十にじゅう九きゅう日にち、徳次郎とくじろうは小ちいさな包つつみを持もって店みせをでかけた。番頭ばんとうの嘉助かすけにはまえの日ひに、田舎いなかから母ははが病気びょうきだと知しらせて来きたので、いちにち暇ひまをもらいたいと断ことわってあった。徳次郎とくじろうの実家じっかは荏原えばら在にあり、十じゅう数すう代だいも続つづくかなりな地主じぬしで、苗字みょうじ帯刀たてはきを許ゆるされていた。彼かれは二男じなんであるし、自分じぶんから望のぞんで「むさし屋や」へ奉公ほうこうに出でたのであるが、近ちかく暖簾のれんを分わけてもらって店みせを出だすときには、実家じっかから補助ほじょがある、ということをみんなが知しっていた。

徳次郎とくじろうは一石いっせき橋はしまで歩あるいて辻駕籠つじかごをひろい、柳橋やなぎばしへゆくようにと云いった。柳橋やなぎばしでおりた彼かれは、そこでべつの駕籠かごをみつけ、こんどは神田かんだ明神みょうじん下かまで乗のった。駕籠かごをおりて同朋どうほう町ちょうの通とおりを歩あるいてゆくと、左側ひだりがわに泰山たいざん堂どうという筆墨ひつぼく硯すずり問屋とんやがみつかり、徳次郎とくじろうはその横丁よこちょうへ曲まがっていった。――静しずかなしもたやばかりで、酔よっぱらいが一人ひとり、ひょろひょろしながら犬いぬに文句もんくを云いっていた。その黒斑くろぶちの小ちいさな犬いぬは気きでも違ちがったように、やかましく吠ほえたけりながら、酔よっぱらいのまわりを廻まわっており、男おとこはいまにもつんのめりそうな恰好かっこうで、自分じぶんに吠ほえかかるのは自分じぶんを疑うたがわしい人間にんげんとにらんだからであろう、きさまなどに疑うたがわれては自分じぶんの男おとこが立たたない、飼主かいぬしに掛かけ合あってやるから案内あんないしろ、などと喚わめいていた。

徳次郎とくじろうはその脇わきをすりぬけ、左側ひだりがわを見みてゆくと、黒板塀くろいたべいに格子こうしの門もんのある家いえがあり、門柱もんちゅうに「籔内やぶうち流りゅう茶道さどう指南しなん喜多尾倫女きたおりんじょ」と看板かんばんの掛かかっているのをみつけた。――彼かれはちょっとあたりを見みまわしてから、格子こうしをあけて門もんをはいり、戸口とぐちの格子こうしの外そとから声こえをかけた。すぐに返辞へんじが聞きこえ、向むこうの障子しょうじをあけて、十じゅう七なな歳さいばかりのきれいな小女こおんなが出でて来きた。

「徳次郎とくじろうという者ものですが」と彼かれは云いった、「お師匠ししょうさんはおいででしょうか」

小女こおんなはどうぞと云いって、微笑びしょうした、「待まっていらっしゃいます、どうぞおはいり下ください」

彼かれは家いえの中なかへはいった。かなり間取まどりの多おおい家いえらしい、中ちゅう廊下ろうかをいって左ひだりへ曲まがると、右手みぎての襖ふすまの前まえで小女こおんなは停とまり、「いらっしゃいました」と声こえをかけた。

「どうぞ」と中なかから若わかい女おんなの声こえが聞きこえた、「まさちゃん、あとはいいからね、あんたいまのうちに使つかいにいって来きておくれ」

「はい」と小女こおんなが答こたえた、「門もんはあけたままでいいでしょうか」

「門もんは閉しめていってちょうだい」

まさという小女こおんなは去さり、徳次郎とくじろうは声こえをかけて襖ふすまをあけた。そして、彼かれが部屋へやの中なかへはいるとすぐ、そこを閉しめて、こっちへ来きて下ください、という声こえが聞きこえ、徳次郎とくじろうは云いわれるとおりにした。

それから約やく四半しはん刻こく――襖ふすまは閉しまったままで、部屋へやの中なかはひっそりしていた。なにか話はなしているのだが、どちらも囁ささやき声ごえのようで、言葉ことばは殆ほとんど聞ききとれなかった。

家いえの裏手うらてのほう、神田かんだ明あきら神社じんじゃのあるほうで、しきりに鶯うぐいすが鳴ないていた。まだ幼おさない鳥とりとみえ、その囀さえずりは片言かたことの舌したっ足たらずで、笹鳴ささなきのあいだに偶然ぐうぜん「ほ、きょきょう」とはいる。すると自分じぶんでも吃驚びっくりするのか、または恥はずかしくなるものか、暫しばらく気きまずそうな沈黙ちんもくが続つづき、やがてまたさぐるような、自信じしんのない調子ちょうしで鳴なきはじめるのであった。

四半しはん刻こくを過すぎたころ、徳次郎とくじろうの声こえが少すこし高たかくなった。

「お金かねはここへ持もって来きてあります」と彼かれは云いった、「残のこりの分ぶんもお届とどけします、しかし私わたくしは亡なくなった旦那だんなに、貴女あなたのことは引受ひきうけたと約束やくそくしました、いったいこれからどうなさるのか、それをうかがわないうちはこのお金かねは渡わたせません」

女おんながなにか答こたえた。

「いや、死しんだものと思おもえと仰おっしゃっても」とまた彼かれが云いった、「現げんにこうして生いきていらっしゃる以上いじょう、黙だまって見みているわけにはいきません」それからちょっとまをおいて云いった、「私わたくしに迷惑めいわくがかかる、――どんな迷惑めいわくです」

かなりながいこと、女おんながなにか話はなした。

「それは本当ほんとうでしょうね」と徳次郎とくじろうが念ねんを押おすように云いった、「それが本当ほんとうなら、いまはなにもうかがいません、残のこりのお金かねも二に、三み日かうちにお届とどけします、その代かわり約束やくそくは守まもっていただきますよ」

女おんながなにか答こたえた。

まもなく徳次郎とくじろうが出でて来き、部屋へやの中なかから「ここでごめんなさい」と女おんなが云いった。門もんは閉しまっている筈はずだから横よこへまわって、勝手口かってぐちの木戸きどから出でて下ください。この次つぎに来くるときも木戸きどからはいるように、と云いうのが聞きこえた。

徳次郎とくじろうは中なか二ふた日かおいて、また明神みょうじん下かの家いえを訪たずねた。そのときは半刻はんときほどで帰かえったが、帰かえるときの彼かれは、泣ないたあとのように、眼めを赤あかく腫はらしてい、睫毛まつげも濡ぬれていた。迎むかえたのも送おくりだしたのも、おまさという小女こおんなで、奥おくの女おんなは姿すがたをみせなかった。

「よく気きをつけてあげておくれ」徳次郎とくじろうはそう云いって、紙かみに包つつんだ物ものをおまさに与あたえた、「また来くるからね、頼たのんだよ」

おまさは、「はい」と云いって、いかにも賢かしこそうに微笑ほほえんだ。

二に月がつになってまもなく、下谷したやへ用達ようたしにいった帰かえりに、徳次郎とくじろうはまた明神みょうじん下かへ寄よってみた。すると、門柱もんちゅうに掛かけてあった看板かんばんがなく、門もんも戸口とぐちも閉しまっていたし、勝手口かってぐちの木戸きどにも外そとから錠じょうがかかっていた。

「留守るすだな」と彼かれは木戸きどの外そとで呟つぶやいた、「二人ふたりででかけたらしいな」

すると路地ろじの向むこうから、「そこのうちは引越ひっこしましたよ」と云いう声こえがした。振ふり返かえってみると、十徳じっとくを着きた白髪しらがの、品しなのいい老人ろうじんが、柾木まさきの生垣いけがきの中なかからこっちを見みていた。生垣いけがきの手入ていれをしていたのだろう、片手かたてで鋏はさみの音おとをさせながら、暢のんびりした調子ちょうしで、徳次郎とくじろうに話はなしかけた。

「おとついの晩ばんでしたかな、もう日ひが昏くれてから急きゅうに引越ひっこしてゆきました」老人ろうじんは独ひとりで頷うなずいた、「おつきあいもなかったが、女じょ世帯せたいのようでしたな、いいえ、さっき差配さはいが来きて話はなしてゆきましたが、ただ親元おやもとへ帰かえるというだけで、ゆく先さきもはっきりしなかったそうです、貴方あなたはなにか、――」

徳次郎とくじろうは礼れいを述のべてそこから去さった。

「おしのさん、どうするんです」彼かれは歩あるきながら、茫然ぼうぜんと呟つぶやいた、「貴女きじょはどこへいったんです、これからどうしようというんですか、いったいなにをするつもりなんですか、おしのさん」

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